田中 新吾

「社会的知性」が高い人ほど、不安に打ち勝つ「信用」を貯める、という話。

タナカ シンゴ

締め切りや待ち合わせの時間に遅れないという信用。

誠実に振る舞い他人の時間をムダにしないという信用。

周囲を待たせることなく即断即決し、すばやく結果を出してくれるという信用。

言ったことは守るという信用。

現代において「貯めるべきはお金ではなく信用である」と言われるようになってもう久しい。

毎年しっかり税金を納めているか、光熱費やローンを滞納していないか、友人との付き合いや会社関係の付き合いでいい加減なことをしていないか、何かの連絡や報告はしっかりしているか。

こうした日常の小さな行いにも「信用」は発生している。

思うに、これらの一つひとつを疎かにせず丁寧に対応することはとても大切なことだ。

実際、信用を上手く貯めているひとのところに人や情報が集まっている様子を見るに、本当に貯めるべきものは「信用」といって間違いないだろう。

「信用」は不安に打ち勝つ材料になる

不思議に思うかもしれないが、何百億円の資産がある人でも「10年後にはなくなってしまっているのではないか」と、不安になるという話がある。

つまり「多くても少なくてもお金は不安を生む」ということだ。

そして、こうした不安に打ち勝つ材料になるのが「信用」だ。

言うまでもなく、これからの時代は何が起こるか本当にわからない。

会社勤めをしていても、急に会社が倒産することもあれば、自分自身が突然職を失うことだって十分考えられる。

しかし、仮にそうなったとしても、信用があれば新しい仕事を紹介してもらえたり、お金を借りることができたり、家賃の安い住居を紹介してもらえたりすることもあり得るだろう。

このように「信用」はいざという時のための支えになる。

貯めておいて損する点などはどこにも見当たらない。

ところが、折角信用を貯めることができる機会にもかかわらず、みすみすその機を逸してしまう人がいるのを見かけることも少なくない。

最近もこれを感じることが続いたのだが、そういう状況をみるにつけ「なぜそうしてしまうのだろうか」という疑問が浮かび上がってくる。

「その人の性格の問題なのか」

「はたまたその人のコミュニケーション能力の問題なのか」

そういったことを常日頃疑問に思っていた。

類人猿と人類を分かつ「社会的知性」という能力

ところが、最近読み直していた本がほとんどこの疑問に答えてくれた。

その本は、2019年に発刊された「われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略」という本だ。

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以前読んだときには読み飛ばしていた項目に大きな発見はあった。

人が人生のなかで向き合う最大の挑戦は、他者を理解し、その相手に対応することだ。もし相手の目的をよく理解できていれば、向こうのとりそうな行動から恩恵を受ける立場に自らを置くことができる。

それどころか、他者の思惑を操って自分の狙いを相手の頭のなかに植え込むことができれば、人生での成功はほぼ確実なものとなる。

一方、相手をきちんと理解できなければ、まわりの人々の予測不能な計画に翻弄されることになる。

たとえ、他者の他者の考えや気持ちを理解できたとしても、それにしっかり対応できなければ意味はない。

その場合、悪い知らせが舞い込んでくることまでは気づけても、状況を大きく変えることはできない。

チンギス・ハーンのように力づくで自分の思惑を押しとおせるとすれば、このような管理スキルはさして重要にはならない。しかし、わたしたちの多くにとっては、相手を説得できるかどうかが成功へのカギとなる。

著者であるクイーンズランド大の心理学教授、ウィリアム・フォン・ヒッペル氏は、この他者の考えていることを類推し、理解し、対応する能力のことを「社会的知性」と呼んでいる。

そして、ヒッペル氏は、この能力こそが進化の過程で類人猿と人類を分かつ最大のポイントであるという。

確かに、他者を理解し、その相手に対応する能力がしっかりとあれば、締め切りや待ち合わせの時間に遅れないだろうし、誠実に振る舞い他人の時間をムダにしないだろうし、言ったことは守る。

そしてこの逆も然りだ。

つまり、「社会的知性」という能力によって、我々人類は他者からの「信用」を獲得し、貯めることができるようになっているということだ。

そしてさらに驚きだったのは、真の知的馬力が「社会的知性」であるという点である。

「問題に対して異なる解決策を見つけ出す能力(拡散的思考)のある人の方が、ユーモアのセンス、カリスマ性があると思われるが、これはIQとは関係がない」

「クイズに素早く答えられるなど、頭の回転の速い人の方がカリスマ性が高いと思われるが、これもIQとは無関係」

ヒッペル氏はこうした多くの事実を実験を通して確認し、社会的知性がIQよりも幅広い知能の象徴であることを主張している。

過去一世紀の研究が教えてくれたのは、IQがわたしたち人間の知的馬力であり、社会的知性はより大きな知的能力の集まりのほんの一部か派生物であるということだった。

しかしながら、ここまで説明してきたような新たな研究の結果は、その反対が事実であることを示している

──社会的知性こそがわたしたちの知的馬力であり、複雑な問題を解く能力(抽象的思考力をもとに測るIQ)は、進化した社会的能力が偶然生み出したたんなる派生物なのかもしれない。

つまり、社会脳仮説が正しいとすれば、IQのほうが社会的知性の副産物であるということになる。

さらに、社会的知性がより幅広い知能を象徴するものだと考えると、IQの高さが必ずしも仕事の成功につながらない理由も明らかになってくる。

実際、信用を貯めることができるタイミングにもかかわらず、みすみすその機を逸してしまう人の中には、IQが高いと感じる人もいた。

ということは、信用を貯めようとしないのは決して頭が悪いからというわけではなく、「社会的知性」こそが信用形成に対して大きな影響を及ぼしていたということだ

人間関係が充実していれさえすれば、お金など要らない

少し話は変わるが、「ステーション・バー」を筆頭に、たびたびTwitterをざわつかせているマンガがある。

定額制夫のこづかい万歳 月額2万千円の金欠ライフ」というマンガだ。

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行動経済学を地で行くような内容で、例に漏れず私も大変ハマっており、読むたびにお金の使い方を考えさせられている。

話数を重ねるごとにそのインパクトを強め面白さが増しているだけに、どこまで連載が続くのかどうか心配になるほどだ。

最新話(12話)の衝撃はとりわけ大きかった。以下に紹介したい。

んな、馬鹿な

嘘だろ

と思うような話かもしれないが、つまり「人間関係が充実していれさえすれば、お金など要らない」ということだ。

これは「他者からの信用をつくることができれば、お金は不要」という解釈もでき、社会的知性の重要性を強く感じさせる内容だった。

私の知人に、偏った都会での仕事生活に疑問を持ったことがキッカケで、地方に移住をした方が複数人いる。

そうした人たちがこぞって言うのは、収入は以前よりもだいぶ減ったが、農作物のお裾分けをもらったり、子供の洋服のお下がりをもらったりで、こういう人間関係も「面白い」ということだ。

「こづかい万歳」の最新話を読んで、この話が私の頭の中をよぎった。

「社会的知性」は現代を生き抜く上で必要不可欠な能力

「人間関係」が充実していくフローは極めてシンプルだ。

待ち合わせの時間に遅れない、他人の時間をムダにしないという「実績」ができると、相手から「信用」されるようになる。

そして「信用」が貯まっていくと、相手から「信頼」されるようになる。

このようにして人間関係は時間をかけて充実していく。

これは全時代、全世界共通の事項と言えよう。

社会的知性が高いひと」にとってはこのフローを進めることは容易い。

よって、不安に打ち勝つための「信用」をせっせと貯めて、お金にガチガチに囚われるようなこともない。

ところが「社会的知性が低いひと」は同じようにはいかない。

むしろ、社会的知性が低いほど活躍の場は制限され、わたしたちの日常から目がつきにくい場所へと追いやられていく。

「社会的知性が低いひとたち」が気持ちよく働けるようなポジションは社会のなかにそれほど多く見当たらない。

社会的知性が高いひとにはとっては生きやすく、社会的知性が低いひとにはとっては生きにいくい。これが今の社会だ。

すなわち、「格差」は社会的知性によって生まれていると言うこともできる。

このように「社会的知性」は、今を生き抜く上で必要で不可欠な能力なのだ。

観察」して「分析」すれば「理解」に近づく

ヒッペル氏によれば、社会的知性とは「他者を理解し、その相手に対応すること」だ。

ところが、教育過程においてコミュニケーション能力を鍛える学習が充実していないのと同じく、「社会的知性」を育むような学習も充実していない。

基本的に「人との関わりの中でなんとなく身に付けろ」というのが社会のスタンスだ。

更に、だれもが高速な情報ネットワークに手軽に接続できるいま「理解」を省いたり十分でないままに、相手に素早く「対応」することを当然とする空気が蔓延している。

思うに、このような空気に飲まれてしまっていては、「社会的知性」は一向に育っていかない。

「理解」について言えば、「ジブリの大博覧会」で「王蟲」の造形を担当された竹谷隆之さん(造形家)の考えが大変参考になる。

「嫌いなものや怖いもの、理解し難いものも、観察して分析すれば理解に近づく」

思うに、この観察して、分析して、理解に近づくというのは「社会的知性」そのものを指している。

観察と分析を経て相手のことを「理解」することができれば、「すばやく発言すること」ではなく、「黙考すること」という「対応」だって当然、選択肢として現れるはずだ。

観察、分析、理解という適切なステップが踏まれた先にこそ、相手を慮った「表現」という「対応」が生まれる。

そして、「社会的知性」は、日常的にこのプロセスに努めてこそグングン育まれていくものなのだろう。

そういえば、このプロセスを大衆を前にしてもしっかりと踏んでいる人がいる。

社会的知性が高い人、といえば誰ですか?」と聞かれたら、個人的には真っ先にこの人をあげるだろう。

このイチロー選手の引退会見を見て。

「理解のためには観察と分析が大切であること」や「社会的知性について知る」には、これ以上のものはないと感じるのは、決して私だけではないはずだ。

Photo by Greg Rakozy on Unsplash

【著者プロフィール】

田中 新吾

プロジェクトデザイナー/企業、自治体のプロジェクトサクセスを支援しています/ブログメディア(http://ranger.blog)の運営者/過去の知識、経験、価値観などが蓄積された考え方や、ある状況に対して考え方を使って辿りついた自分なりの答えを発信/個人のプロジェクトもNEWD(http://ranger.blog/newd/)で支援

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