RYO SASAKI

欲をなくすには、欲を満たし続けることで、それに飽きる必要がある!?

タナカ シンゴ

少し前にこのブログで、内向的になることで逆に人とのコミュニケーションが上手くなる、といった逆説的な体験を書いた。

私という者はやはりよっぽどの天邪鬼なのだろう・・・今回もまた逆説的に見たほうがよいのではないか?というものに出会うことになった。

それは人が持つ「欲」というものへの向き合い方について。

あれが欲しい、これが欲しい、でもすべてが叶うものでもない。

「欲」を抑えるにはどうしたらいいのか?

そもそも「欲」は抑えるべきなのか?

ここまでいろんな疑問に何度か突き当たってきている。

「欲」というものは、社会からずいぶん悪者扱いされているようで、特にいい歳になってからは尚更のように思う。

それでも一方では「欲」が生存のための原動力になっていることは間違いないので、なかなか厄介なものだ、と感じている。

今回は、たまたまこの「欲」について考えることになったのだが、そうしていくと、仏教の「悟りを開く」というものにも突き当たることになった。

パンツへの欲

「欲」について考え始めたのは、ある人から、

「大金持ちになったら何をしたい?」

と問われたことがキッカケだった。

私には、そんなことを考える頭がいつからか全くなくなっていたから、聞かれてもすぐにこれと言ったものが思い浮かばなかった。

ただ、将来に向けて安心するだろう、その心の安心だけで十分、という思いが浮かんだ。

そして、それに続いて、

「これは悟りの境地に近づいているに違いない!さすがの私でもこの歳になるとそこまでいけたのか!」

などと、欲が枯れた自分に気付いて、なぜだか喜びが湧いてきた。

そしてなぜなのか、寂しさも追いかけてきて、その複雑な心境にひとり苦笑いしたのだった。

・・・・・・

それから数日後、天気のいい日曜日の早朝、ベランダで洗濯物を干していた時のこと。

愛用しているユニクロのボックスタイプのパンツを洗濯バサミで止めようとした時、ゴムの部分が弱くなっていることに気づく。

更に見ると、ところどころ生地が透けて見えるところもあり、一部に穴が空いている。

あれ?これって最近買ったんじゃなかったっけ? 

ユニクロのパンツは安価で丈夫なところが良くて選んでいたのだが・・・

これは徐々に品質を落としてきている?上手いことやってるんじゃないだろうなあ?

私にそんな疑惑が生まれた。笑。

だが、実際のところ、ユニクロのパンツは何枚もあって、買ったタイミングの異なる長老から新人までが一緒になっているから、ゴムの緩いパンツが新しく買ったパンツなのかわからず、ユニクロの品質が落ちたかはわからずじまい。

それはともかくとして、今回に限ってパンツのゴムの緩みに気づいたのは、どうやら、「大金持ちになったら、何をしたい?」という言葉が残っていたことによるものだったようで・・・。

パンツなんてのは、人に見せるものではないから、ヨレヨレでも問題はない、だからどこまでも長く履くことにしよう!

これが、私の合理的な判断であって、私は普段からこれを正解としてきたのだ。

だから、パンツのゴムの緩みなんてのはいつもはスルーしてきた。

それが「大金持ちになったら・・・」の一言で、お金に余裕があればパンツを新調したい、その欲が私の中にあった、ということに気付かされてしまった。

蕎麦屋に入ったお昼時も、「大金持ちになったら・・・」がまた頭にもたげてきて、「天ぷらをつけたい!」という欲がもたげてきてしまった。汗。

それにしても、私が大金持ちになってしたいことが、パンツの新調、そして蕎麦に天ぷらを付けることとは・・・。

自分のスケールの小ささに情けなくなってくる。笑。

その後も、夏は水じゃなくてシュワッとした炭酸水が飲みたい、ボロボロのサンダルを買い替えたい、などなど小さい欲が次から次へと、出てくるは出てくるは・・・。

どうやら私は、残念ながら欲がなくなって悟りの境地に近づいたのではなくて、経済的事情により欲を抑えていただけだったのだ。泣。

悟りの境地とは?

私のような素人が、悟りの境地などというものを語ること自体憚られるものではあるが、とりあえず考えを聞いてやって欲しい。

「悟りを開く」とは?

仏教用語で、煩悩や迷いを克服し、真理を会得することを指します。簡単に言うと、心の混乱や執着から解放され、物事の本質を理解し、平穏な心境に至ることを意味します。

悟りを開くためには、怒り、欲望、嫉妬などの煩悩や、執着、偏見などの迷いを克服する必要があります。

欲望や執着を克服する必要がある・・・。

この「克服」とはどういう意味なのだろうか?

欲望に打ち勝つこと?

打ち勝つってどういうこと?

それは私がしていたように抑え込むことなのだろうか?

でも、抑え込んだものが今回の私のようにちょっとしたキッカケですぐに顔を出すものならば、克服したとは言えないだろう・・・。

打ち勝つには、我慢して力ずくで抑え込む必要があるということなのだろうか?

でも、我慢は体に良くないはずなのだが・・・。

「悟りを開く」時、人は平穏な心境に至る、ということらしいので、我慢している状態にはやはりどこか違和感がある。

「悟りを開く」とは、抑え込む必要もなく、自然体で欲がない状態なのだろう・・・。

人がなりたい目標を目指す時、その目標に向かってストレートに近道を進もうとするのが一般的なものだと思う。

だが、「悟りを開く」という目標を置いた場合は、ストレートにアプローチしてしまうと、欲を無理に抑えこむことになってしまって見せかけの「悟り」になってしまう。

これは返って良くないことのように感じる。

そう考えると、そもそも「悟りを開く」なんてことは、欲まみれの私には所詮無理なのかもしれない、そう思えてしまう。

欲を抑えずにむしろ満たし続ける

「大金持ちになったら何をしたい?」と訊いてきた人が今度はまた別の角度からこんなことを言い出した。

「お金で得られることの限界を早く知った方がいい。」

お金は必要だが、それがあればそれで幸せというわけではない。

よく聞く話でこの類のことだろうとは思ったが、限界を知るなんてことは、どうやったらできるんだろうか?

と具体的な方法がわからなかった。

だが、少しして「これだ!」と、閃いた。

このことが「悟り」につながるのではないか?と・・・。

お金で欲を満たし続ける。

そうすると満たされた欲にそのうちに飽きが来る。

飽きが来るとこれまで欲していたものが欲しいと思わなくなる。

これを繰り返すことが、お金で得られることの限界を知ることなのではないか?と。

そしてこれがまた「悟り」までのひとつの道筋なのではないだろうか?

欲まみれでもあり、飽き性でもある、私に、シックリくる黄金ルート!笑

過去を振り返ると、何であの時あんなことを欲してたんだろう?そう思うことがこれまでにいろいろあった。

そして夢中になった時期は完全に冷めて突然終わりを告げる。

あんなに欲してたのはなぜだったんだろうか?と今は思う。

こんな風に飽きて欲が消えて行くことでならば、私でも「悟りを開く」に近づけるのではないだろうか?

「悟りを開く」方法は、欲をなくす(我慢して抑え込む)、というストレートなアプローチではなくて、逆に欲を満たし続けること。

欲をなくすには欲で満たすこと!

目的の逆を追いかけると返って目的にたどり着く。

またしても私は、逆説的なところに活路を見いだしてしまったようだ。

しかしここで、ひとつ疑問が湧いてくる。

私なんかは、玉ねぎの皮むきの如く、欲を満たしても満たしても新しい欲が現れるような気がするのだが・・・

果たしてそれって「悟りを開く」に近づいているのだろうか?

・・・・・・

いや、過去の様々なものに飽きてきた経験から、欲を満たすことを繰り返していけば、新しい欲は自分から周りの人へ、そして社会という広い範囲のものになっていくんではないだろうか? 

欲まみれの私でもそこに可能性を感じないわけではない。

自分に余裕がある時には、人に気づかいできるようになる、こんなようなことからも可能性はあるように思える。

その欲の行き着く先は、例えば究極は「世界平和」のようなものかもしれない。

この私が、まさかの善人として生まれてきたとするならば、この先の私の本当の?欲が「世界平和」というものになるのかもしれない。

私のパンツへの欲と比較すると「世界平和」はあまりにも遠過ぎて、これは甚だ楽観過ぎる想像かもしれないのだが・・・。汗。

では私は、今生のうちに果たして「世界平和」までいけるのだろうか?

もはやかなりタイトかもしれない。

そう、たまに人生何周目?と質問したくなるほど落ち着いていて、下世話なものに興味がない聖人のような人がいる。

多分こういう人たちは、前世で欲を満たし尽くしてきてそれに飽きた人に違いない。笑。

だから私も来世で達成できればいいんじゃないかと一旦退避してみる。

それはともかくとして、「悟りを開く」モドキの欲を抑制するという行為。

繰り返しになるが、これは良くない。(自分が知らないうちにやっていたので怖いのだが。)

欲の抑制によって欲がなくなるわけではない。

我慢していたものが突然爆発することもあるし、欲の抑制は「悟りを開く」からむしろ遠ざかる悪手でもある、言ってよい。

とは言え、欲の抑制をすべてやめてしまおう!そう言っているわけではない。

社会で生きるために、そして時には健康のために、欲の抑制が不可欠なものであることもまたそのとおりなわけで・・・。

なので、欲の抑制をできるだけ減らして、可能な欲は躊躇せず、出来るだけ満たしていくのがベストなのではないだろうか?

そして、ここまできて今一度自分と欲を眺めた時に、欲を無くすということは自分にとってあまりにも机上の空論のように感じられて、「悟りを開く」が欲を無くすことならば、悟りなんて開かなくてもいい、正直そう思う。(そもそもそれに憧れていた、その前提が間違っていた笑)

欲を無くすよりも、自分の欲を満たすことで、欲を周りのための欲(それを本来持っている純粋な欲とでも言ったらいいか)に少しでもスライドしていければいい。

今生どこまでいけるのかわからないが、これからの少ない時間はできる限り、欲を満たして生きていきたい、そうあらためて思うのだ。

UnsplashAlexis Fauvetが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

「飽きること」にはいいイメージがあまりないのですが、「飽きること」の効能もチャンとある。

飽き性の私に都合のいい気づきでした。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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