RYO SASAKI

世の中の変化にどう対応していくべきか?ー私流の「変化に柔軟である」とは?

タナカ シンゴ

最近、知人からサーキュレーターというものをお勧めされた。

サーキュレーターという名称に最初ピンと来なかったのだが、なんてことのない扇風機の呼び名がオシャレに変わっただけだった。

夏場、クーラーと併用することでより涼しくて電気代も安くなるらしい。

そう言えば私の自宅に扇風機というものはもう30年以上もない。

その理由を思い返してみると、30年以上前に実家で使っていた扇風機の生ぬるい風が不快だったからだった。

その経験から流行り?に乗かってはいけない!と抵抗しようとしたのだが、あまりにも強く推されたもので騙されたと思って試してみることにした。

使ってみると出る風は生ぬるいというよりはむしろ少し寒くて思った以上に涼しく感じた。

気温が高くない日や朝方にクーラーを切ることもできるし、クーラーを切れないにしてもクーラーの設定温度を1℃上げでやっていける。

これなら確かに知人のいうとおりだ!とすぐに納得したのだ。

今、扇風機の風が生ぬるく感じないのは、私の身体が30年で変化(老化?笑)したとしか考えられない。

そして、今や多くの人がやっているこの併用使いを、私の経験がずっとブロックしていたことに対して少し苦々しくも感じた。

このことによって、私が世の中の様々な変化にどう直感で向き合っているのか、一回言葉にしてみたい、そう思った。

誰もが当たり前にやっていることをことさら言葉にすることはないと思う。

それでも、「生きる」ということがそもそも環境の変化に適応することである、と言ってもいいはずで、その適応をこれまで長きに渡ってやってきたのであれば、その経験からなにがしかを言えてもよかろう。

そして言ってみることで、そこに何らかのヒントが見つかりはしないだろうか・・・。

何とも大げさだがそんなことも思ったのだ。

回帰する

扇風機が国内で量産され始めたのが1918年というから、現代のサーキュレーター(扇風機)はそこから100年超経過していることになる。

さて、この100年選手のサーキュレーター(扇風機)は、どれほど進化したものだろうか?

発売開始当時の扇風機がどんなだったかはわからないので、30年前の記憶と比較してみる。

起こる風そのものが特別変わったわけではないだろうけど、コンパクト・軽量・省電力になっているということなのだろう。

この進化は、すごかったと言えるのだろうか?それともこの程度にしか変わっていない、と言った方がいいのだろうか・・・。

いずれにしても、今回サーキュレーターを使い始めたことは、私にとっては長い間しなかった変化であり、「回帰」であったとも言える。

別のもっといいもの(それはクーラーになるが)が後から出てきたにもかかわらず、使わなくなった昔のアイテムにまた戻った、ということ。

ここまで扇風機というものは消えることなく社会に残っていた。

ならばこの先もずーっとなくならないのだろうと思った。

他の変化としての回帰で言えば、鉄製のフライパンと綿100%のシャツ(インナー)がある。

若いころは宣伝に惚れて、表面加工が施された軽いフライパンを使っていたが、今は昔実家で使っていたような鉄製の重いフライパンを使うようになった。

若いころは化繊のやたら高機能のシャツに惹かれたものだが、今は肌ざわりなどから綿100%のものを選ぶようになった。

さて、このように「回帰」するということは、一時新商品にふらついたと言えるわけで・・・。

今思えば、何でそんな無駄なことにふらついたんだろうか?

まあ、寄り道はしようがないと思いつつも、すぐに目の前の良いとされる商品が現れると焦って飛び付く。

いわゆる流行を追いかけ、流行に乗っかる。

これがまた私がやってきた私の落ち着かないところなんだろうと思うのだ。汗。

気づいた変化

世の中には日々とんでもない数の変化が起きているだろうし、これから変化がさらに速くなるだろう!などと言われる。

例えば、年間に発売される食品の新商品だけでも6000品弱あり、毎年その数は増えているらしい。

(2022年度 全国の1,250店舗の食品スーパーサンプル店舗から日々POSデータを収集)

そういった新商品情報が電波やネットにドンドン乗って目につく社会にもなっている。

もちろんこれは食品に限ったことではない。

新商品は数限りないものの、製造者には申し訳ないが、それらのすべてが画期的で不可欠なものではないことは周知のこと。

そもそもその新商品=変化のすべては、とても処理できる量ではないことは数字を見ると余計にハッキリする。

また、最近気づいた全く別の変化がある。

それは歌謡曲(もしくはJ-pop)の歌詞が変化してきているというもの。

一例を上げてみる。

最近の気づきだ、と言っておいて、すでに14年前の曲だったことに気づく。汗。

SEKAI NO OWARI『天使と悪魔』2010年リリース

いじめは正義だから 悪をこらしめてるんだぞ

そんな風に子供に教えてきたのは 僕らなんだよ

大人VS大人の正解・不正解のバトル

TVで子供らに教える「ダレが”間違って”るか」

正義のヒーローは悪党を倒すものだと

子供はTVを見て思う「悪は滅ぼさなきゃね」

もし僕が正しくて君らが間違いなら

僕らは戦う運命にあるの?

僕らはいつも「答」で戦うけど

2つあってはじめて「答」なんだよ

悪魔と天使の世界で あちらが正しいとか

こっちが間違っているとか解らないんだ

「悪魔と天使」 僕らがどちらなのかなんてさ

解るはずもなければ解りたくもない

昭和の歌詞は明らかに色恋ものが多かったが、最近の歌謡曲においてそのような歌詞の割合は減ってきているらしい。

男女関係の歌詞から、みんなを応援する歌詞、そして「悪魔と天使」のような社会問題の風刺のようなまたは哲学的な歌詞が増えているのだ、と聞く。

若者が熱狂するアーティストの歌詞の変化は時代の変化、世の中の価値観の変化を表しているんだろう。

人生における中心テーマが変わってきているようにも思う。

今の若者は、小学生の頃からこんなような歌詞を聴いて育っているのだ。

そう思うと、若者と話す時に異なる人種であるという前提で会話しないと、とても上手くいきそうにないとあらためて思う。

変化に柔軟であるということ

ここにバラバラと上げた変化は、私が最近気づいた変化であって、世の中の変化のホンのホンの一部でしかない。

それでも、ここから見えたものをあげてみることにする。

そう、一番大きいのは、変化には大して時間がかからず変化してその変化がすぐにまた新しいものに変わってしまうものと、もうひとつは長い時間かけてゆっくり変化してある程度の期間続くものがある、という言わば当たり前のことだ。

前者は毎年産まれてその大部分が数年でなくなっていく新商品のように、いわゆる流行で終わってしまうもの。

新商品を人が買って使う、これは簡単な変化であって、変化したことが見えやすいものでもある。

一方の後者は歌詞に現れた価値観のような数十年、数百年かけて広がりながら変化して比較的長く留まるもの。

この価値観は変化したことが非常に見えにくいものでもある。

・・・・・

変化を2つに分類したところで、今度は人間を生物の種としてみてみる。

そもそも生物の種は、環境に適応するようにできている。

だから、人間も目の前の変化にすぐ反応するようにできているんではないだろうか?

それに新しいものを知っていると、変化に敏感だと見られて、一目を置かれる、という人間特有のメリットが加わる。

逆に変化に気づかないとマウントを取る格好の的になってしまう。

だから、そのままだと変化に反応して明らかに過剰に反応してしまうのではないか?

私は、そんな風にして変化を追いかけて忙しくしてきたと言えるのかもしれない。

これまで変化を追いかけることで、神経をすり減らし、無駄なエネルギーを使ってきたように感じるのだ。

一方のゆっくり変化する価値観の方は、追いかけるというよりもジックリと観察するもの。

そして価値観は人と人の共感に不可欠であり、もし古いまま変わらないのであれば、人は時代への適応に苦しむことになる・・・。

そう考えると、今の私には健やかに生きるためにこちらの方に俄然興味が湧いている、と説明できるのだ。

ここまでのことからこれからどうしたいのか?をまとめると、頻繁にやってくる流行というものを如何にして無視して(極端だが)、一方の長い時間をかけて起こる本質的な変化の方の兆しを如何にして感じるのか?

これが昔とは変わってきた私がここのところ直感でやってきたことで、言葉にするとこういうことになる。

結局、私は変化に柔軟でありたい!

その柔軟の意味は、昔であれば何でも変化に対応するということだったのだが、今はそうではなくて、無視する変化と乗っかる変化を見極めるということ。

ほとんどの流行は無視して問題ない、ということ、どうせ使われなくなるのだから。笑。

だから私は、若者が得意なような?iPhoneもTikTokも覚束ないのだ。

若者よ、先輩は時代について行けてない、などとなじることなかれ!

少なくとも私は、ついて行けてないのではなくて、ついて行かないのだ。笑。

それは無駄なことをしないための選択であり、もっとゆっくりした本質的で大きな変化の方に忙しいからなのだ。

ただしこのことは、何もひとつひとつの流行に敏感で反応していく若者のことを否定したいのではない。

流行を追うこともまた人生の楽しみになるのだろう。

まあどこまで説明しても若者にとっては言い訳がましい強がりにしか見えないだろうし、若者をフォローしたらしたで今度は同年代のおっさんから若者に媚びていると気持ち悪がられるのが関の山だろう。汗。

それでも一回は曲がりなりにも自分の言葉にしておきたかったのだ。

まだまだ足りないので、変化については引き続き考えていきたい。

P.S.変化しないことを観測する

より変化が速くなる社会で、今後もなくなることはないであろう扇風機。

一方でこの変わらないことからの気づきはないものか?

変わらないことを定点観測のように確認することができる?

ふとそんな風に感じた。

例えば最近感じた気持ちが良いシーン。

狭い両面通行の道路で、車がすれ違う時に私の車が手前で待って対向車に道を譲る。

これに対して譲られた対向車が会釈で応える。

この当たり前のシーンが、今後も変化せずに続いていくのだろうか?

こんなようなところに社会の状態が現れるように思ったのだ。

今の社会の素晴らしい面が変化してしまったら危険信号で、新商品の発売よりもこの価値観の変化の方がクリティカルに感じる。

このような素晴らしい面がずっーと変わらないことをまたウォッチして行きたいと思った。

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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