RYO SASAKI

内向的になることによってコミュ力はアップする。またひとつ幻想から覚める。

タナカ シンゴ

欲しいものをゲットするために努力して努力してやっと手に入った、というようなケースはよくあることだ。

このような経験は、我々を努力をする方向に導いて、世の中は素晴らしいものだ、と前向きにさせてくれるものである。

だが一方で、努力しても欲しいものが得られない、というケースもこれもまたあることで、私は長きに渡ってこのような失敗を重ねてきたように思う。

努力すればするほど欲しいものが遠ざかるように感じることもある。

ところが最近、欲しかったものへの努力を止めて、欲しいものにあまりこだわりがなくなってしばらくして、気がつけば欲しいものが入ってきていた、ように感じたことがあった。

そのことについてあれこれ考えてみると、そこに、努力しても欲しいものが得られないという私の失敗を繰り返さないためのヒントがあった。

コミュ力アップの秘訣は「内向的」になること!?

頑張れば頑張るほど遠ざかる。

このことを私が感じたのは、人との関係性に対して、だった。

人間関係を良くしよう、人脈をたくさん作ろう、そのためにコミュ力を上げよう!

こういった欲求は多くの人にあるものだと思う。

もともと「内向的」だった私にとって、これは若い頃からずっと持っている課題のひとつと言ってもいいだろう。

社会人成り立ての頃は、「外向的」になろうとして、いろんな人と会い、夜な夜な人と話したものだ。

特に世間知らずの私は、自分の意見を言わずに、人の話を聞いて見聞を広めよう、と意識していたように思う。

このような努力によってビジネスにおいては曲がりなりにも何とかやってきたのだが、その肩書きという枠を外れると素の自分が何を拠り所に話しをすればいいのかわからず、話せど話せどどこか空回りして良好なコミニュニケーションができている感覚がない。

時に言葉足らずになり、時に言い過ぎたり・・・。

そもそも、人はそれぞれ違うから、コミュ力とは表面的なところまでは学習できるが、そこから先は簡単なものではない、と納得しようともしてきたのだ。

・・・・・

最近、周りの人との会話がやたら弾んでいる自分に気づいて、そして同時に、いつからかコミュ力アップのことも忘れていた(諦めていた)ことに気づく。

記憶をたどってみるとその原因ではないか?と思うものに突き当たった。

ひょっとして、全く別の角度から解消できているのではないだろうか?

それは、私が最近以前にも増して「内向的」になったからかもしれない。

コミュ力アップは、「外向的」であることや、観察力、会話力、気遣いと言った対人テクニックにあるのではなくて、逆に「内向的」になることの結果なのかも・・・。

そう思った理由をいくつか上げてみる。

まずは、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、自分の機嫌が良くないとどこか上の空で人とコミュニケーションすることになる、ということ。

余裕がないと、人の変化に気づけなかったり、人の言うことを、一瞬にしてこうだ、と決めつけてしまったり・・・。

機嫌良くいるために、あるいは機嫌良くなくても機嫌が悪くない状態でいるために、内面にある恐怖や不安が解消されているに越したことはない。

とは言え、自分が置かれている外的状況が急に変化するわけではないから恐怖や不安の大元の解消は無理なわけだが、外的状況の捉え方を変えることで恐怖や不安は薄まる。

これは内面的な捉え方だから「内向的」になる必要があるということになる。

次に、「内向的」であることは、自分が自分というものを理解しようとして、その自分を受け入れようという方向に向かう。

私の場合は、この厄介な私を受け入れることはなかなか難しいのだが、それでも最近の私はその努力をしていて、少なくとも私が私を理解しようとする経験は、他人に対しても活きる。

何で私は、こんなにできないんだろうか?こんなに気になるんだろうか?イライラしてるんだろうか?などなどの自分への問いが、他人への問いにそのままつながる。

そして、大きいのは「内向的」になって自分が自分を受け入れることができれば、他人からの承認が不要になるということだ。

自分が自分を承認しているから、それ以上の承認欲求は薄まる。

他人の承認が不要になれば、自分の内面の恥ずかしい部分を話すことに抵抗がなくなる。

これは、コミュニケーションにはうってつけのことだ。

更に、内面で考えたことは私オリジナルの話であって、そういう意味でいうとオリジナルのネタは尽きない。

もちろん、相手を選ぶ(※外的世界のことしか興味を持たない人、内的な世界はコスパが悪いという人が確かにいる。)が、オリジナルとは言うものの基本は同じ人間の内面なので、興味を持ってもらえて話の拠り所になりうるというわけだ。

最後に「内向的」であることは、外的世界からの逃避のように言われるが、それは外的世界からの影響を減らす、あるいは、外的世界への依存度を薄める、とみることもできる。

少し極端かもしれないが、こんなイメージをしてみようと思った。

人は同時に2つの世界に住んでいる。

それは、外的世界と内的世界。

内的世界とは、「内向的」が向かうところの人の内面の世界。

そして、内的世界の大きさは少なくとも外的世界と同程度のものだ。

これまでは、外的世界がすべてで、その外的世界の片隅にチッポケな自分の内面がある、という具合に、物理的な大きさをイメージして捉えていたが、この捉え方では、自分の内面をないがしろにしやすい。

これでは、外的世界に日々反応することだけに明け暮れて生きていくことになるのではないか?

そんなことを思ったところもある。

内的世界を広く持っている人は、外的世界にある他人とのコミュニケーションをどこか、たまに海外に遊びに行ったことのように捉え、ホームである内面との距離を自然にとる余裕があるはずだ。

もちろん内面の世界は、外的世界の出来事をキッカケにして展開することになるわけなのだから、外的世界に影響されるものではある。

しかし、内面の世界は自分というものを理解することが大きな目的になるから、外的世界を主にする捉え方とは全く別物になるのだ。

内面の目的のために外的世界を道具として使っているに過ぎないと捉える。

ちなみに、外的世界だけになって他人のことが一番になる時、人は他人をコントロールしようとして、支配だったり、依存だったり、いうものが更に必要になってくるのだろう。

支配や依存は、コミュニケーションに表れてしまうから、またよろしくない。

・・・・・・

ここまでのところがより「内向的」になった私の最近の体感であり、後付けのところもあるように思うが、その体感の背景にあるものだ。

「内向的」になったことで、人との関係をどこか距離をおいて見れて、返ってクッキリ見えるようにも感じている。

一番の興味が自分自身の理解になるのだから、他人のことの興味度合がいい塩梅になるのかもしれない。

知識という幻想から覚める

さて今回は、頑張れば頑張るほど遠ざかる、というものの一例として、コミュ力のアップというものを上げることになったのだが・・・。

コミュ力のアップのように私がいろいろと遠回りをしてしまう原因はどこにあるのだろうか?

それは、いくつもの勘違いがあることによるのではないだろうか?

(勘違い例)

・人生は、努力の積み重ねによって、階段を登るように線形的に成長する向上の道である。

・外的スキルを上げるためには、当然ながらそれ自体に集中して向き合うことが効率的である。

・人の内面はそのみてくれ(体積)のとおり、小さくて取るに足らないものである。

どれもが私の経験で得た「知識」であり、その「知識」が勘違いを生み出していたように理解せざるを得ない。

自己の限界と幻想が明らかになるとき、真理が自然に現れるのです。

つまり、真理は追求して獲得するものではなく、自己の幻想が解けたときに自然に現れるものなのです。

ここまできて、クリシュナムルティのこの言葉に、やっと共感できるように思う。

知識は幻想で足枷になるのだ。

私は、知識があることを自分のプライドにしてきた期間が長いから、まだまだ私の知識という幻想の中をさまよっているのだろう。

これからはこれまでの真逆で、このような知識の幻想から、ひとつずつ覚めていくことが必要ということなのか!

誰だったか「向上の道」に対して「向下の道」という言葉を使っていたことを思い出して、今ようやくこの言葉の意味を理解したように思う。

まさか、これまでの学びと真逆なところに巧いやり方が隠れているとは・・・・。

そんなトラップが仕込まれているとは、子供の頃の私には思いもしなかったことだ。汗。笑。

本当に欲しいもの

最後にもうひとつ加える。

あるものが欲しくてそれを頑張って求めていたが、それが本当に欲しいものではなかった、と後から気づく、というようなこと。

このようなことも時にあるものだが、今回のことはそういう一面も持っている。

コミュ力を上げたい、人間関係を良くしたい。

本当に欲しいものは、これではなかったことに今は気づいている。

私は、コミュ力を上げて人間関係を良くすることで、心の喜びというものを得たかっただけなのだ。

単なる快楽だとは、自己中なことだ!と思ったりもするが・・・そもそも、人間は会話で楽しむようにできているものだ。

コミュ力を上げたい、人間関係を良くしたい、というのは、目的ではなく手段だった。

言ってしまえば、心の喜びならば、会話でなくても「内向的」になることでも可能だ。

本当の目的を見据えないと、今度はその達成した手段が本当の目的の障壁になったりもする。

更に言えば、自己中に求めた自分の心の安定は、会話することで他人にも良い影響を与え、結果自己中な奴、とはならなかったりもするではないか(支配と依存の自己中はNGだが)・・・・・などなど、思いは尽きない。

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向上のために向下する

外向的になるために内向的になる

近づき過ぎるとよく見えない

目的は単なる手段である

自己中は自己中にならず、自分事は他人事

欲すると遠ざかるが、欲しないと得られない。

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学んだ知識を捨てると巧くいく。

この世の中は、なんとも逆説だらけで厄介にできているものだ。

こんなんならば、私が簡単に幻想をつかんだとしても何の不思議もない。汗笑。

などと自分を慰めることで、何とか内面を安定させて終わることにする。

UnsplashPaolo Chiabrandoが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

こうしてみると、ある意味で真面目であることがいかに危険なことであるか、またよくわかります。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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