RYO SASAKI

「つながる」ではなくて「つなげる」。シンクロを意図的に起こす!

タナカ シンゴ

家の近くに車1台分の幅しかない両側通行の道がある。

対向車と鉢合わせになったら、どちらかがその道の手間で待って、相手の車を先に通さないといけない。

最近もまた、何回か鉢合わせになることがあった。

その度に、対向車のドライバーが手を上げて挨拶してくれて、こちらもそれに手を上げて応えるのだが、この時何とも幸せな気持ちになっている自分に気づいた。

人の温かさだったり、平和というものをこんなところに感じて、ドライバーは何をしている人なのか?そんなところまで気になるようになった。

はて?自分がこんな風に感じるようになったのはいつ頃からだろうか?

昔の自分にドライバーの挨拶の記憶は全くない。

挨拶を見る余裕もなく、少しでも我先にとイライラしていたように思う。

自分もずいぶん変わったもんだ、と思う。

そうしていると、こんな他愛もないことから少し前に自分の中に生まれたある新鮮な感覚のことを思い出した。

それは、ずーっと立ちはだかっていた壁を越えたというイメージのようなもの、と言えばいいだろうか?

長く生きていると嫌な同じ体験が何度も繰り返されることが度々ある。

繰り返す嫌な体験は、克服すべき課題として目の前に現れて、克服できるまで何度も起こる、などと言われたりもする。

この何度も繰り返していた嫌な体験がいつからか自分に見当たらないような気がする。

今回の鉢合わせにイライラするようなことも昔は繰り返す嫌な体験のひとつだったはずだ。(自分が招いていることなのだが。)

それが消えているように感じるのは、克服すべき課題をひとつ乗り越えたのかもしれない。

私の自己採点はいつもあまい。笑。

今回は、そんな壁を乗り越えたような感覚は、どこから来るものなのか?何とか言葉にしてみたいと思う。

課題を克服したのか?

狭い道での鉢合わせ。

ここでのイライラを克服できたとするならば、それはどんな経緯だっただろうか?

まずは何と言っても、イライラしたくない、とチャンと思ったことがスタートになったのだろう。

当たり前すぎるようなのだが・・・。

若い頃は元気だから、イライラをどこかエネルギーの発散のように使っていたところがある。

どこか、イライラのままでいいと思っていたようなところがあった。

これが意外な落とし穴だ。

イライラを避けるには、その道を使わないようにすればいいようなものだが、近道だからこの道は外せない。

その道を使いたいし、鉢合わせもしたくない、という物理的に無理なことに執着している自分がいた。

私は、イライラしたくない、よりも、この道を使いたいし、鉢合わせしたくない、という思いの方が強かったのだ。

今にして思えば、なんてバカバカしいんだろうか?そう思える。汗。

このケースに限らず、嫌な体験なのに止めにしたい、という思いが欠けていることはままあることだ。

例えば、苦手なタイプの人に何度も出会う、とする。

その苦手な人の態度の酷さに執着して、この態度の悪さを日々感じてしまう。

そしてこの悪い態度を何とか変えようとしたり、懲らしめてやろう、とする。

結果この許せないという執着によって、苦しみが続いてしまうのだ。

この執着を捨てられると、苦手な人に何とも思わなくなるところまで行けるのだが。

何とも思わなくなる、というのが本来の相手と距離を置くということなのだろう。

苦手な人に対してウン、ウン、そういうタイプの人もいるよね。

多分ここまでの環境、経験してきたことからそうなっちゃったんだよね。

人それぞれだからね。

このくらいになると、苦手な部分に興味がなくなって、苦手な部分が自分から見えなくなる。

許しはしないが、赦す、そんな感覚だろうか・・・。

そこから更に進めば、なぜこの人はそんなにも苦手なことをするように育ってしまったのか?

その人を教育した親に対して別の前向きな好奇心が湧いてきたりして・・・。笑。

そこまで進むと相手の挑発に乗ることはないし、逆に相手も挑発するのが嫌になって、苦手なところを自然と出さなくなる、といった効果もあったりするんだろう。

実際には言葉で言うほど簡単ではないが、言葉にするとこんな経緯で、嫌な体験を繰り返さなくなるように思う。

私なんかはここまでかなり時間がかかったようだ。泣。

シンクロニシティ

そんなことを考えていると、今度はこの言葉が思い浮かんできた。

「シンクロニシティ(引き寄せ)」:心理学者 ユング

・偶然のように思える出来事が意味的関連を呈すること

・偶然のように思える出来事の間に意味のある関連性を見いだすこと。

※露呈したものを受動的に受け取る、のか、能動的に見出す、のか、表現が異なることが興味深い。これについては後ほど。

この偶然の一致をスピリチュアル的に宇宙からのメッセージと捉える人もいる。

また、自分の中で考えていること(同じ波動)と同様の出来事や同様のことを考えている人を引き寄せる、などと言われたりもする。

この言葉が浮かんだということは私が、この言葉と先ほどの鉢合わせのこととを無意識に関連づけていたのだろう。

この説明から、先ほどの例はこんな風に捉えることができる。

鉢合わせの道を避けるでもなく、その道に執着しているから、あるいは、苦手な人の苦手な部分に執着しているから、これが波動となり鉢合わせや苦手な相手を引き寄せている。

その執着がなくなると引き寄せなくなる、波動が変わったのだ。

まあ何も、波動が変わったとか、引き寄せなくなった、というようにスピリチュアル的に表現しなくても、実際には全く同じ現象が起こっているにもかかわらず、スルーするようになった、あるいは気にならなくなったので、目の前に現れなくなったように感じているだけなのかもしれない。

いずれにしても、鉢合わせの道のケースでは、私の興味が解決できないことへの執着から別のところに移った。

イライラすることから、譲り合う人の方が気になるようになった。

この興味が湧く方に向かうということは、新しい関連性を見い出そうとした結果なのかもしれない。

そして、新たなつながり、シンクロニシティが起こることで、執着から解放されるのかもしれない。

「つなげる」ことで意図的にシンクロを起こす

さて、先ほどの「シンクロニシティ(引き寄せ)」の以下の2つの表現について。

・偶然のように思える出来事が意味的関連を呈すること

・偶然のように思える出来事の間に意味のある関連性を見いだすこと。

シンクロニシティは、この世界がそういうしくみになっていて普通に起こるものなのか、それとも意図して動くことで起こるものなのか?

以前の私ならば、この2つには大きな違いがあって、どちらかの正解を求めていたのだが、今はどっちでもよくないなった。

これにも執着がなくなった。笑。

いずれが正解でも、とにかく、一見全く関連がないようなものをどんどんつなげてみればいい。

今回で言えば、何とも異色な鉢合わせの道と繰り返す嫌な体験が、繰り返す嫌な体験(執着)とシンクロニシティが、自分の中でつながった。

意外なものが偶然つながりさえすれば、それはもはやシンクロニシティ。

人は、シンクロニシティ(新しいつながり)によって興味が変わり、興味が変わることで、嫌な体験の繰り返しもなくなる。

人生というものは、ゲームのステージのように目の前の課題をクリアして(=執着を捨てて)新しい体験に向かっていくゲームだ!

あらためてそう思った。

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最後に、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で言った言葉を上げる。

「Connecting the dots(コネクティング ザ ドッツ)」

点と点をつなげ!

情報や経験を結びつけて新しい概念やアイデアを創造せよ!

というメッセージだ。

繰り返すが、世界が磁力のようにシンクロニシティが起きる場として用意されているかどうかはおいておいて、とにかく何事もつながると思って、自ら意図的にシンクロニシティを起こせばいい。

こじつけであってもいい。

そして、世界がシンクロニシティが自然に起こる場ならば、誰もがいとも簡単にシンクロニシティを起こすことができる。

そしてそれによって、新しい創造がされる、ということになるはずなのだ。

私がつなげる点と点は、ジョブスが創造したスマホなんかに比べると、大して役に立たないものかもしれないが、それでも創造であることには変わりない。

このように、私の中で今度は、ユング(シンクロニシティ)とジョブス(コネクティング ザ ドッツ)が見事につながった!汗笑。

UnsplashD koiが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

創造とは執着を逃れるための手段。

そうとも言えるんだ、と感じました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日

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