RYO SASAKI

「恥ずかしい」という感情から学ぶ、遺伝子に抗う生き方。

タナカ シンゴ

アポなしで一般宅を訪問するTVの旅番組がある。

突然なのにもかかわらず、TVを受け入れるお宅がある一方で「恥ずかしいから」という理由で撮影NGになるお宅もある。

私は、まあどちらもあるんだろう、と双方認めつつも、なぜかこの「恥ずかしい」がヤケに気になった。

「恥ずかしい」とは何なのだろうか?

人間以外の動物が「恥ずかしい」という感情を示す様子を見ることはないらしい。

この人間に特有の「恥ずかしい」という感情。

私がTV番組に突撃されたとして、「恥ずかしい」理由を上げるとすると・・・

・顔がブサイクで画面には耐えられないから。

・髪が寝癖のままだから。

・家が汚い(片付いてない)から。

悲しいかな、こんなところがまず始めに上がってくる。

ブサイクが恥ずかしいのはなぜなんだろうか・・・。

当たり前に思えることもちょっと突き詰めると言葉に詰まるなんてことはよくあるものだ。

そんなこんなで「恥ずかしい」について頭がグルグルと回り始める。

今回のここから始まる考察は、「愛情」というものについて考えることを経由して、最後には遺伝子に抗う、といった話にまで至ってしまった。

と、もっともらしく言ったものの、これは生物学的な私のつたない考察に過ぎない。

そして最初に白状しておくが、私が生物学的な考察を持ち出す時、そこにはいろんな自分の言動を他責にしようとする姑息な試みが含まれている。

そんなようなものではあるが、お付き合いいただければ幸いだ。

なぜ人は「恥ずかしい」のか?

「恥ずかしい」ケースはいろいろある。

・自分勝手で人として恥ずかしい。

・無知が周りにバレてしまって赤っ恥をかく。

・失敗して恥ずかしい。

などなど・・・

自分勝手は相手にとって不快なものである。

相手に危害を及ぼすなどといった何らかの不快を与えてしまうと「恥ずかしい」という感情が起る。

※不快なことをした、すべてのケースにおいて起るわけではないけど。

周りに不快感を与えてしまっては、総スカンになって社会では生きられなくなる。

総スカンにならないように不快なことは二度としないようにしよう、自分勝手な行動はやめておこう、そう考えるのだ。

「恥ずかしい」という感情によって、周りに対して不快なことをしなくなるような方向に動き、社会の不快を抑制するように働く。

・無知が周りにバレてしまって赤っ恥をかく。

・失敗して恥ずかしい。

はどうだろうか?

失敗したり無知がバレたりすると、周りからできない奴だとレッテルを張られ、周りからいいように使われてしまう、更に進むと、人として扱われない、といった危険性がある。

この弱肉強食の社会に対抗するために、自分の尊厳のために、人間は失敗に対して「恥ずかしい」という感情が起る。

そしてここでもやはり二度と恥ずかしい思いをしないように心がけるのだ。

このように、「恥ずかしい」という不快な感情は、総スカンになってしまう前の予防として、周りとうまくやって社会の中で生きられるように機能として人間に備わったもの。

「恥ずかしい」という感情は生きるために遺伝子が引き継いでいるものなのだ、と理解することができる。

冒頭のTVに映るのが「恥ずかしい」に重ねてみると、人間はすぐに不快を察知するものだし、嫉妬深いものだから、TV映りが良かろうが悪かろうが、いずれにしても批判に晒されることになるのだろう。

そういった批判に晒されることで悪い風評が立つことを見越して、そのリスクを避けるために「恥ずかしい」がまたあるのだろうと思う。

私はこれまでの人生でたくさんの「恥ずかしい」を食らってきて、いつだって「恥ずかしい」ことはしたくないと思い続けているのだが、そうはなっていない。

それでもそうさせているのは私ではなくて私の遺伝子だから気にやむ必要はないと、どこか安心するのだ。

「愛情」について

ここから、前回ブログ『ごく自然な愛情を求め、飲食店をさまよう~私の飲食店選び~』で触れた「愛情」というものに関する疑問について考えてみよう。

なぜ私は飲食店においても「愛情」(愛想)を求めるのか?

それは愛情不足からなのか?

どれだけ愛情を受け取れば気が済むのか?

まずは、愛情を受け取りたいと思うのは愛情を受け取るとどこか気持がよくなるからだ、と言えるだろう。

では、気持ちがよくなるようにできているのはなぜか?

先ほどの「恥ずかしい」という感情が起ることと同じように、愛情を受け取ることが生きるために有利に働くから、ということになる。

それもまた遺伝子に刻まれているのだと。

赤ん坊が大人の愛情がないと一人では生きていけないようにできているのが特に人間の特徴とも言えるのだから理解ができる。

ここで、私の昔を振り返ってみると若い頃は、愛情というものにどこか興味がない人間だった。

サラリーマン時代はドライにビジネスを考えなければならなかったから、「愛情」というものはどちらかというとお荷物だったような記憶がある。

「愛情」なんてものは押し殺して、むしろ周りと戦わなければならなかった。

本音は戦いたくなかったが、戦わないと生き残れない(会社の中で生き残れないということがイコール、人として生き残れないことだといったように)、当時はそう思い込んでいた。

気持ち良くなるので周りからの愛情を受け取ることはやぶさかではないのだが、自分からは周りに愛情を与えない。

私という者は、やはり実に小ずるく、合理的にやっていたのだ。これこそ恥。笑。

愛情を与えると自分が戦う上で損をしてしまう、という感覚がどこかにあった。

愛情を与えることで生きることが有利に働く、ということも遺伝子に刻まれているはずなのに、それをしないでいられたのはなぜか?

それは、また別に生きるために有利に働くことがあってそれを選んだからだ、と今は思える。

戦って周りを蹴落として生き延びようとしたのである。

人間が生き抜くためには、愛が、そして戦いが必要である。

こう言われて見れば確かにそうだろう。

戦うことも快感である理由がわかるようだ。

愛と戦い

人間の遺伝子には、愛情を受け、与えること、そして戦うことの両方が刻まれている。

それは両方が必要だったからだ。

また、遺伝子だけでなく環境に反応して、行動が選択される面もある。

戦わないと生きられないと教え込まれたり、実際にそのような環境に置かれれば、そちらが強く出て生きるために私のように愛情を抑えて戦いを選ぶこともある。

遺伝子に戦いが強く刻まれていれば、環境に寄らずに戦いを選ぶこともある。

私がサラリーマン時代に愛情よりも戦いを選んだのは、ご先祖様が戦って命をつないでくれたことの証なのかもしれない。

そう考えると、愛情も戦いもいい悪いはないと思えるし、愛情を抑えて生きてきた私は愛情不足のひがみからなのか、愛情のことをことさら美化していたようにも思えてくるのだ。

遺伝子を越えていく!?

ここで、「私という者がどれだけ愛情を受け取れば気が済むのか?」

について一旦の答えを出してみたい。

繰り返しになるが、人間は生きるために有利に働くことが気持ち良くなるようにできている。

愛情を受け取ることは気持ちいいというより、むしろ安心するという感覚かもしれないのだが、いずれにしても愛情を受け取るとそういった感覚になるように遺伝子が働くのだから、人間はその感覚をどこまでも欲し続けるものなのだろう。

だからそのままでは、キリがない、ということになりそうだ。

ここで浮上してくる疑問、それは、

「遺伝子によるこの快感をただ成り行きで求めて生きていていいのか?」

というものだ。

愛情を受け取り与えること、そして戦うことも、生きることに有利に働くものではあるのだが、現代においては、愛情をたくさん受け取ったり、与えたりすればするほど、そして、たくさん戦えば戦うほど生存確率が上がる、とは言い切れない。

愛情はある程度で十分に生きていけるはずである。

現代はある意味平和であるし、また一方では大変複雑なものになったからだ。

ということは・・・、本来は生きるということに有利に働かせるための快感が、その効力が減ってしまって快感だけが残っている状態にある、とも言えるのだ。

これは、空腹ではないのに食欲はある、という状態に似てなくもない。

社会が生きるということについては、何の心配もなくなった時に、あまり必要なくなった愛情と戦いによる快感をただただ追い求める人生でいいのか?と問いかけられているように感じられる。

これは冒頭の「恥ずかしい」という感情についても同様で、「恥ずかしい」は生きるために必要なものとは言ったが、その「恥ずかしい」が過剰に働いてしまってはいまいか?

そこまで周りの迷惑にならないような、細かくてとるに足らない常識に外れただけのことに、恥ずかしさが無駄に発動してしまうことになっているようにも見えてくるのだ。

常識なるものが一様で柔軟性を失ってしまうと、「恥ずかしさ」が増えるという構造だ。

社会は失敗したからって、無知だからって、総スカンになるところばかりではない。

だから過剰に恥ずかしがる必要はないはずなのだ。

ブサイクだってそうだろう。

ブサイクを不快に思わないでほしい、と言っても聞きはしないだろうけど、たぶん顔で総スカンになることはないだろうから、自分のブサイクを「恥ずかしい」と思うことは不要なのだ。

ともかく、これらに共通することは、現代社会にアンマッチな遺伝子による過剰反応とでも言おうか・・・。

このように遺伝子の成り行きに抗って、不快な「恥ずかしい」という感情を減らすことができるはずである。

そして、それは愛情と戦いの快感についても同様である。

愛情と戦いによる成り行きの快感に依存することなく別の快感を選択することだってできるのである。

以前、恐怖を原動力にする生き方と、希望を原動力にする生き方がある、と書いたが、愛情と戦いによる快感は、この恐怖を原動力としていて恐怖を避けるための快感に当たるのだろう。

求めたいのは、希望を原動力にして得られる快感だ。

それは月並みな言葉だが、「生きるため」と分離されている自己実現の欲求を満たすことによる快感というものになるのだろう。

備わっている愛情を受けること、愛情を与えること、戦うことなどに、あまり心を奪われ過ぎず、自分が夢中になることをする。

そう、私というものは、遺伝子そして環境によって起る欲に知らず知らず、翻弄されて若い頃は戦いに、最近は愛情にウエイトをかけ過ぎていたようだ。

もちろん愛情というものは不可欠なものだが、備わっているものだから、恐怖から解放されればそんなに必要ないのだ、たぶん・・・。

しかし、そうではあるのだが、ご先祖様から遺伝子に刻まれて脈々と受け継がれてきた恐怖、そして環境によって刻まれた恐怖からの解放は簡単ではない。

私をはじめとした多くの人が、簡単には恐怖から解放されないから愛情を求めるのだろう。

愛情というものに対して、これまでのようにただ闇雲に求めるだけから、せめてこのくらいの理解はしておく必要があるんだろうと感じた。

「恥ずかしい」から始まった考察が行きついたのは、こんなような気づきと反省だった。

さて、今回の生物学的な考察を振り返ると、「恥ずかしい」という感情や私の愛情が尽きないことを私の遺伝子と環境のせいにして楽になりかけていた場面はあったのだが・・・・。

どうやら遺伝子に抗って恐怖を克服する必要があって、それをするのは遺伝子でも環境でもない自分自身である、と結局はぐるっと回って自分に帰ってきてしまうことになってしまった。

あーだこーだ言いながら姑息な試みをしてみるも、やはり楽をさせてはくれない。汗。笑。

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

私は残りの人生で、はたしてどこまで恐怖から解放されるのか?

これはもちろん難しくもあるのですが、もっとも興味のあるところです。

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