「しっかりする」という言葉の意味を書き換えた。まずしっかりするべきは「適応」よりも「(自分の)表現」である。
久々にワインの試飲会に参加した。
この試飲会ではちょうど20種類のワインを飲み比べる。
ワインの試飲会というと大そうなもののように思われるかもしれない。
確かに私も最初の頃は身構えていたものだ。
それはワインという贅沢品?がもつイメージに加えて、必ずいる詳しい人(最近の言葉でいうとガチ勢)によって、自分の無知が赤裸々になって赤っ恥をかくことを覚悟しないとならないからだ。
ところがいつからだろうか?
その身構えがかなり薄れてしまっていて、恥をかくことが平気になった。
何なら恥をかこうと前向きになった。
ずいぶんふてぶてしくなったものだ。
どうしてそうなったのか?
これが、歳を重ねて面の皮が厚くなる、ということなのだろうか・・・。
身構えることがなくなると、ストレスは軽減するんだろうからいいことだとは思う。
ならば、もっと早いうちからふてぶてしくなれば、いや、言い方を変えて、早いうちから身構えることなく堂々としていられればよかったんではないか?
ふてぶてしさについて堂々巡りが始まる。
・・・
今回は、そんなような堂々巡りから始まって、試飲会での自分の立ち振舞いを振り返ってみたところ、自分の中にある「しっかりする」という言葉の意味合いを書き換えることにした、という話になる。
私から出た言葉
今回の試飲会で同じテーブルになったのは、男性3人組。
あとから知ったお三方の簡単なプロフィールはこちらになる。
3名のうちの2名は義兄弟(ひとりがひとりの妹の旦那さん)で双方ともワインエキスパートの資格を持つ。
(ワインエキスパートとは、ワインソムリエと同様の資格だがソムリエと異なるのは商売してない人が取得するものであるということだとか・・・)
もうひとりは先ほどのお兄さんの同僚で、2人は教員をしている。
よく話してくれたものだ。
教員に限らず、世の”先生”と呼ばれる人がその職業をカミングアウトすると、周りに対してハードルが上がってしまって、ろくなことがないに違いない。笑。(←これは私だけの偏見かもしれないが)
ワインエキスパートの2人は、さすがに詳しくてワインの味の表現の言葉も素晴らしい。
私はその言葉をたよりにしながら味わい続けていた。
それとは対照的にワインエキスパートではない先生は、静かに飲んでいる。
試飲会が始まってから、私自身が発した主なものは以下の3つだったと思う。(印象的な3つにしてはつたなさすぎるのだが。)
「何回か、この試飲会に来ているんですが、品種のことをここまで意識して飲んだことがないです。私にはピッタリの初心者向け講義のようで・・・」
この日最初の方に出てきた白ワインは、どれもある品種100%のもので、それぞれの品種を感じやすくなっていたからこの言葉が出てきた。
これは正直な気持ちではあったのだが、更に細かく正直に言うと今までに品種のことを意識したことはあったのだが、なぜかそれを覚えない、というのが私の特徴らしくて、何度も初心者向け講義が続いてしまうということだ。汗。
私は、ワインを飲んでいる期間で言えば初心者というのはサバをよみ過ぎているが、知識という面でいうと初心者で遜色はない。
「結局、値段が高いものを美味しく感じます。もっと自分をバカ舌であれ!って思うんですけど・・・。」
これは、この日の一番のスマッシュヒットだった。(←何のヒット?)
ワインエキスパートの人も含めて皆さんに、共感する部分があったのだろう。
一番ウケた。笑。
「(ひとつのワインを指して)私が一番美味しいのはこれです。でもなんでこれが美味しいのか私にはわかりません。(説明できません。)」
ワインエキスパートの人は、巧みな言葉で私の好みをフォローしてくれたのだが、私は終盤になって酔いも回って、「言葉では語れない別の何かがあるように感じるんです!もちろん言葉で共有するしかないんですが・・・」
などと、フォローの恩を仇で返すような言葉をかぶせてしまった。
これも正直な思いだったのだが、素直さでまたやってしまった。
そして、私の知識でもって、私に素直を言わせてしまうと、この程度にしかならない。
何とつたない言葉だろうか・・・・・。汗。
それでもこれらの私の言葉に、これまで静かに飲んでいたワインエキスパートではない方の先生が、
「今日は面白いです~~」
と意外にも満面の笑みで声をかけてくれた。
どうやら、初心者の私がエキスパートの前で言いたいことを言ってるのが痛快だったらしい。
ひょっとしたら、対岸のエキスパート2人に対抗できる同士を見つけたといった思いだったのかもしれない。(←これは自画自賛し過ぎか)
つたなくても等身大で素直な感想ならば伝わるのだ!
調子に乗った私は、
「詳しいエキスパートの方の話がすごく勉強になる自分と、その一方でもっとそうじゃなくて、って疑ってみる同等な自分がいるんです。」
と加える。
何でこんな言葉が出たんだろうか?
それは、”先生”を目の前にしていたから、出てきたのかもしれない。
”先生”は日頃、守るべきもの、そして守るべき決まりが多くて、「それ違うんじゃない?」というような疑いの言葉を発するには相当な勇気が必要なはずだからだ。
私の偏見がまた発動する。汗。
なぜ試飲会に行くんだろうか?
ワインエキスパートではない先生には面白かったかもしれないが、ワインエキスパートのお2人にとっては、私の言動は暴れ馬のようで不快だったのかもしれない。
「しっかりしないといけない。」
この時、子供の頃周りから何遍も言われてきたこの言葉が響いてきたのだが、私は未だにこの体たらくのようだ・・・汗。
なぜしっかりすることをせずに、こんな風に恥知らずでふてぶてしくなってしまったのだろうか?
これを探るために試飲会に行く目的を確認してみることにした。
そもそも試飲会に行く目的は、たくさんの種類を飲んで味わうということに尽きる。
人によってはその中から美味しいものを見つけて購入する。(言わずもがな、主催者の目的はこれ)
そして酔いを楽しむのもある。
このあたりが常識的なものだろうか・・・。
それぞれの人の、味わう、酔いを楽しむ、にはずいぶん幅があるんだろうけど。
ところが、私の中にはまたちょっと異なるニュアンスの目的があるように感じる。
それが何なのかこれまでハッキリ意識することはなかったのだが、言葉にすると『(正直な)自分を出すため』とでも言ったらいいだろうか・・・。
言葉にするとかなりハシタない。汗。
自分は、承認欲求のカタマリなのか?
うーん、どうもこれだけでもない。
これは目的でなくて手段なのではないのか?
そう!
私は面白いことを求め、『笑い』に来ているのだ!
『笑い』のために正直な自分を出しているにすぎない気がする。
これを言葉に出してしまうとどこか興ざめする自分もいるのだが。
ともかく、この日の”スマッシュヒット”にご満悦なんだから、たぶんそうなのだ。
それは、笑わせに来ているのではない。
自分のことをバカ舌でなくて残念な奴だと表わして、その残念な自分を自分が笑う。
そのことをただ周りが聞いてくれていた。
ワインエキスパートでは習得不要のお金に関する下世話なことを、その誰も言わないようなことを恥ずかしげもなく言っただけに過ぎないのだ。汗。
「しっかりする」ということ
今一度自分の振舞いを振り返ってみると・・・
無意識ではあったのだが、私は最初にチャンと自己紹介をしていたようで・・・
最初の言葉は、
「自分は、決して詳しいものではありませんよ。」
というメッセージになっていて、自分という者がチャンとあって、ここで自分を立たせている。
そして、
「だから、この先変なことを言うかもですよ!」
と、後から見るとそれがまたチャンとしたフリになっていたのだ。汗。笑。
自分というものを立たせることで(勝手に自分が)楽になって、そのあとは何の照れもなく、奇をてらうこともなく、感じることを素直に出せた。
さもできているように言っているが、照れもなく奇をてらうこともなく、というのは簡単ではない。
私は、照れるつもりもなく、奇をてらうつもりもなかった、というくらいに留めた方がいいか・・・。
ここで「しっかりする」という言葉について。
「しっかりする」という言葉には、TPO(今回でいうと試飲会というイベントのこと)に相応しい振舞いをする、という意味合いが私の中では強い。
試飲会での相応しい振る舞いには、常識的なイメージがそれぞれにある程度はあるとは思うのだが・・・。
しかし、それだけでホントにいいんだろうか?
そんな疑問が出てきた。
何事に対しても「しっかりする」には自分の目的をしっかり達成するという意味であっていいはずなのだ。
私で言えば『笑う』という目的。
とかく世の中は、何事も真っ先に周りにとって迷惑かどうかの基準で語られる。
確かに迷惑かどうかは見ても分かりやすいし、実際のところ他人が害があると言うのだからクローズアップされやすい。
でももっとも大切で、しっかりしないとならないのは、やはり自分軸の方であるべきだ。
そうしないと人はどこまでも従属する立ち位置で、社会に対して負い目を抱えた感覚のまま生きていくのだろうと思う。
何とも仰々しいことを言い出したものだ。
自分軸も自分の表現も非常に見えにくいということがある。
自分自身でもそれが何なのかなかなかハッキリしない。
そして、人は社会と関わっていく必要があるため、自分軸も自分の表現をし続けることも、非常に難しいということがわかってくる。
他人軸と自分軸が混線するのも日常的である。
難しいからこそ、まずしっかりしないとならないのは、適応ではなくて自分が何者かを立たせることであり、その自分を表現することである、と自分は宣言したいのだろう。
そして、自分の「しっかりしないとならない」という言葉の意味合いを塗り替えた!と自分にインプットしておきたいのだ。
さて、ここまでを振り返って、自分がこんな風に言えるようになったとは、ずいぶんふてぶてしくなったものだと思う。汗。
ふてぶてしくなるまで時間がかかったのは、守るものが別にあったからなのかもしれない。
あるいは、身構えたところで何にもならない、そして、自分というものの性分はそう変わるものではない、という悟り?(あきらめ)に時間がかかったからなのかもしれない。
いや、それよりもむしろ、身構えることに割くエネルギーがいよいよなくなってきたからなのかもしれない。
余談だが、世の中には、私のように時間がかからずにふてぶてしい、いや、堂々としている子供も確かにいるのだが、彼らはたぶん、すでに人生を何周もしてきてるんだろう。
ーーーーーーー
試飲会の最後に、試しにワインエキスパートのひとりの一番好きなワインを尋ねてみたところ、私の選んだものと見事に一致した。
知識はないが、私の舌は流石なのである。
こうなると今度は急にワインエキスパートの株が私の中で上がり始める。笑。
試飲会に対して私が求めるものは、美味しいにとどまらず、笑い、更には自分の誉れ。
私という者はやはりずいぶんふてぶてしくなったものだ。
いや、時間をかけてやっとこさふてぶてしくなってきたと言った方がいいのかもしれない。笑。
まあ、どんだけふてぶてしいのかはこの際おいておいて、とにかく自分と向き合って自分の表現をしっかりやっていきたいとあらためて思った。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
人と出会う毎に、お互いに自分を可能な範囲で「表現」した方がお互いが楽しくて、その方が死ぬ時にも後悔しないのだろう、という勘がはたらくようになりました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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