RYO SASAKI

思考の弱点を知る。思考を飼いならす方法。

タナカ シンゴ

「佐々木さんは、思考に偏ってますね。」

また、言われた。

感覚を大切にする、ということが言われ始めて久しい。

約8年前、私は自分の思考偏重に気づいて、そこから「感覚」を意識するようにしてきたつもりだったのだが・・・。

私は「こうでこうだからこうなのだ」と何事も論理を組み立てて話す傾向にあって、これは子供の頃から染みついている頭の使い方の癖なのだと思う。

この辺りが周りに思考偏重と言わせる要因なのだろうか?

感覚を使えてないのは何が足りないんだろうか?

この癖は一生治らないものなのだろうか?

(ここまでは反省モード)

・・・

(ここからは反抗モード))

いやいや、むしろ思考の何が悪いんだよ?

それが私の個性だろ?個性をつぶされはしない!

こんなような葛藤がキッカケになって、「思考」と「感覚」についてあらためて考えたいという思いがもたげてきたのだ。

「感覚」を大切にするために、私はまた新たな思考を始めて、もっと思考偏重になるという墓穴を掘ってしまうのだろうか?

「感覚」と「意識」と「思考」

「感覚」と「意識」と「思考」という言葉について、なかなか難しいのだが、自分なりに整理するところから始めてみたい。

人は常時、周りから様々な感覚を受け取っている。

そしてその感覚を頭が意識する。

いろいろな感覚の多くはどんどんと過ぎ去っていき、ホンの一部だけが意識に上がる。

そこから、この意識に上がったものを加工・処理するのが思考である。

この加工の主なものが言語化(概念化)するということになるのだろう。

例:「なんか違和感」←感覚

     「寒い」←意識

     「気温が下がったからだ、風邪をひいてしまうかも。」←思考(感覚の加工)

「感覚」「意識」「思考」の関係を一旦、このようにおいて次に進める。

感覚は「違い」を捉え、意識は「同じ」をみる。

という言葉がある。

例えば、青い花、白い花・・・花にもいろいろな色やいろいろな種類があるが、これらひとつひとつの違いを捉えるのが「感覚」で、これらに同一の花という括りをつけるのが「意識」であるということだ。

ここでいう意識の段階では、既に花という言語(概念)で括っているのだから加工が始まっている、と言える。

「意識」に上がるのと「思考」が始まるのは非常に短い時間だ、と言って良いのかもしれないし、「意識」と「思考」とは一体となっていて分けられないものなのかもしれない。

それはともかく、確かに私の思考には理系特有の、法則(一定の条件のもとでは、どこでも必ず成立する事物相互の関係。)を見つけようとするところがある。

「このことで言えるんだから別のこのことにも当てはまるよね」と共通解を見い出してパターン化することで人生をシンプルにする、あるいは1を知って複数を知る、みたいな感じだ。

養老孟子さんならば、この法則に括ることに対して「人間がコントロールしようとしている。(脳化社会)自然に身を置いてコントロールできないものをただただ感じなさい」と言うんだろう。

もちろん思考には、あれとこれとは異なるものだ、という分別するものもあるのだが、私においては「同じ」をみて、それらを一緒に括ろうとする、確かにその傾向が強いと感じる。

「思考」の弱点について

「感覚」を加工する「思考」というもの。

いろいろな思考がある中でここでは

関連性を見いだし、同じに括る。

論理で導く。

意味付けをする。

に絞って考えてみる。

これらの思考の弱点はシンプルに間違う、ということだ。

間違うにもいろいろあるが、他の選択肢を見逃す、という間違いに注目したい。

この「他の選択肢を逃すこと」を分かりやすく解説してくれる本がある。

このタイトルの意味を逆に捉えると、「思考」することによって枠ができて枠内に閉じこもることになる、ということになる。

それによって枠外の答えを見逃すのだ。

同じに括るという思考では、その違いに目がいかずに見逃すことになる。

論理的思考も知っていることだけで論理を組み立てることになり、枠内にとどまる。

そして、意味付けによってできる思い込み=固定観念によって人はがんじがらめになって、固定観念の外の答えが見えないのだ。

これは私がこれまでブログに書いてきた「常識を疑う」にも通ずるものだ。

真面目を疑う

努力を疑う

現実主義を疑う

また、新しい知識を学ぶことによってもまた新しい固定観念が生まれる。

更に加えるとすると、人は自分が思考して導いた答えを正しいと思う(思いたい)から、そこにまた固定観念が生まれる。

少なくとも私は思考だけを人間の賢さだと思って生きてきたようなところがある。

ここまでのところが思考の弱点と言えるんではないだろうか?

思考の枠を超える

では、こんな弱点があるから思考をやめてしまえばいいのだろうか?

『思考の枠を超える』の中に、枠を超えるヒントがあった。

思考によって作られる固定観念の枠の外に出るには、まずは固定観念に気づくことだ、と言う。

そのためには違和感を言語化するのだと・・・。

違和感も感覚のひとつ。

やはり「感覚」が思考には不可欠なのだ。

しかし、違和感が違和感のままだと枠の外にどう出たらいいのかわからないため、その違和感を言語化するのだ、と続く。

感覚を言語化する。

例えば、正しいはずの真面目な人が、なぜ息苦しく感じるのか?

という違和感。

その違和感の理由を思考すると、真面目一辺倒では上手く行かなそうだ、を気がつくことになる。

少し話はズレるが、この感覚を言語化することが新しいビジネスを産むベースになっている、とも紹介されていた。

スティーブ・ジョブズは、携帯の取説を読むことが嫌だったのか、何で取説に金をかけないとならないんだ?と取説を厄介者に感じたのか、いずれにしてもその感覚を言語化した末に、取説なしのiPhoneを世に出した。

感覚が感覚のままでは何も生まれず、感覚を言語化して意味づけをすることで新たな価値が生まれるということなのだ。

話は戻って、感覚にはその感覚の加工である思考がセットされる。

あらためて感覚と思考は連携していることを確認できる。

この段階で、あらためてやってはいけないと感じたことは、自分の一日を思考で塞いでしまってはならない、ということだ。

やはり感覚が枠から飛び出る起点になるのは間違いない。

思考によって日々をコントロールするだけでは、違和感に気づくことはないだろう。

それは人は、人が正しいと思っている固定観念に忖度して、本当の感覚を塞ぐことができてしまうからだ。

例:どんなにやっていることが嫌だと感じてもそれが正しいことなのだから、嫌じゃないんだ、とやり続ける。

私は、この思考が感覚を押し殺す経験をしてきたのでよくわかる。

人は1日に1.2万から6万回思考している

その9割が昨日と同じ内容で、その8割がネガティブな内容である。:アメリカ国立科学財団の研究

※実はこの結果に私は違和感があって、これを丸ごと信じているものではないが、無駄な思考がある、と感じてもらうためにここに紹介した。

思考の内容もさることながら、それ以前に思考しない時間を過ごすことが必要になる。

それはボーっとしている時間であり、瞑想によって意識のザワザワから逃れ、無意識を引き出そうとする時間でもあったりするだろう。

これらによって感覚が研ぎ澄まされる、であったり感覚を受け取る隙間ができる、であったりと表現するのがいいだろうか?

これらによって発想がポンポン出てくる、という感覚を以前よりも私も持てるようになっている。

この本からのもうひとつのヒントは新たな固定観念(本誌ではこの思い込みや固定観念を、思惑ーおもわくーという言葉で表現している)を自らが創り出すことだった。

今の固定観念に対して新たな捉え方、解釈を当てる。

それには今の固定観念の正反対(パラドックス)を捉える、ということもあるだろう。

例:真面目がいい?ホントか? →不真面目でいいだろう?

あるいは少し別の視点、斜めから物事を捉える。

固定観念を新しい固定観念を創ることによって打ち壊す。

何とも斬新な方法だ。

でもこれは、結局は、固定観念の上塗りになって何も変わらないのではないか?という思いがもたげてくる・・・。

正多面体論

そんな時に思い出したのが、「正多面体論」だった。

この言葉は、以前ある人が教えてくれたものだ。

物事をあらゆる角度からみる。

出典:400年ぶりに新種の「対称性多面体」構造が発見される

真面目の面の180度反対の裏面、不真面目も見る。

真面目の面を隣の面にズラして、真面目を誠実という意味合いから捉える。

冒頭に戻って「思考に偏ってますね。」に対する私の

(反省モード)

感覚を使えてないのは何が足りないんだろうか?

この癖は一生治らないものなのだろうか?

(反抗モード)

いやいや、むしろ思考の何が悪いんだよ?

それが私の個性だろ?個性をつぶされはしない!

これらの思考もまた、正多面体の表面と裏面に当たる。

そして、その面のひとつひとつはすべて固定観念である。

新しい固定観念を創れば創るほどたくさんの面ができる。

それは固定観念を上塗りにはならないものの、今度は固定観念が増えただけでないのか?

いや、面が増えることによってひとつの固定観にだけ縛られることがなくなる。

そして、固定観念の面がたくさんになればドンドン角がとれて固定観念どうしがなめらかにつながり対立しなくなる。

そうしているうちに、どれでも良くなって、更にはどうでも良くなるところまで行くんではないか?

このイメージが、「固定観念を壊すために新たな固定観念を創る」という言葉に見事にマッチしたのだった。

ちなみにこの捉え方も新しい固定観念の創造にあたる。

さて、ここまでのことから現段階で私が思うところをまとめることにする。

まずはじめに、思考が人間の賢さの頂点にある、という固定観念を外すべきだろう

思考を神聖視せずに、それはじゃじゃ馬を飼いならすくらいに捉える。

そう、思考とは飼いならすものなのだ。

このことを前提として以下の3つを実行することにしよう。

①思考しない時間を設ける。

②感覚(違和感)を言語化し続ける。

③新しい固定観念を創り続ける。

最初の疑問、もっと「感覚」を大切にするにはどうするのがいいのか?

それは感覚を加工して表現することだ。

思考は感覚ありきではあるのだが、感覚を大切にしている、ということは思考による表現でしか傍目からはわからない。

そして、それは自分にもわからない。

感覚を大切にすることは、思考しないという単純な対立構造にはないのだ。

そして、思考は枠を作るから、枠を飛び出して有用なものにするために新たな固定観念を創造し続ける必要がある。

これからは、感覚をどんどん加工(言語化)して、どんどん新しい固定観念を創り出していきたいと思う。

さて、こんなようなことを長々と飲み屋で後輩に語っていたら、痺れを切らした後輩がこう挟んできた。

「なんだかんだで、自分の思考の正当化じゃないですか・・・

こんなに四の五の言っているんだから、思考偏重って言われて当然ですよ。笑

ここまで考えなくても感覚が鋭い人はわかってるんじゃないですか?

いいから呑みましょうよ。」

こいつ、かるーく笑いやがったな😒💢💢・・・。

うーん、私の言いたいことはやっぱり誰にも伝わらない・・・。

私が感覚の鋭い人のように考えなくてもわかるようになることはこの先ないのだろうか?

そうこうしていると酒が回ってきて・・・

正多面体は全くの未完成だが、早々にどうでも良くなってくるのだった。

UnsplashDollar Gillが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

今回もこれを書いている途中に、知らなかった自分の固定観念を発見し、その固定観念がいろいろと外れたように思います。

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