欲の循環をキッカケにして、自分のワガママへの向き合い方が刷新された。
前回の記事には、好み(欲)の循環の話を書いた。
夏にまたビールが飲みたくなる、といったごく普通の季節循環だったり、健康法について久しぶりに急に興味を持ち出したりするなどと・・・。
間もなくして、この”循環”という言葉を今度はお会いした方からたまたま聴くことになった。
それは少し面白い場所でのこと。
今回もこのたまたまをキッカケにして、また”循環”という言葉から思ったことをツラツラと書いてみたい。
それは、予想できなかった結末、自分の「ワガママとの向き合い方」にまで発展してしまった。汗。
ワインのペアリングの会
何回か参加させていただいている『ワインのペアリング(相性のいいワインと料理を合わせる)の会』なるものがある。
このペアリングの会が少し変わっている。
まずは、開催される場所が自然派ワイン(農薬等の薬品を極力使わないワイン)を中心に販売している酒屋さんの店内であるということ。
次に、外部の料理人が出張してきてそこで料理を創るのだが、料理ありきではなくて飲むワインが決まっていてて、それに合わせて料理人が料理を創る、ということ。
都合よく、酒屋さんの奥の方に大きなアイランドキッチンがある。
更には、参加者が好きなワインボトルを購入してその場で開栓してメインの肉料理と一緒にいただくのだが(残ったボトルを持ち帰るのが前提)、選んだワインに合わせてそれぞれの肉料理に別の味付けが施されること。
通常は、決まった料理に合うワインをペアリングするものなのだろうが、こちらではワインに料理を合わせる、という逆のペアリングをやっていることになる。
さすが、酒屋さんで開催される会ならではだ。
後半はお互いのワインの交換飲みが始まるのがまたなんとも面白い。
自然派ワインが好きである、という共通点がそうさせるのか、初対面でもお酒が入って会話が弾んでしまって、お酒の注ぎ合いが自然に始まる。
余談になるが、人との会話でどこかオドオドしていた若い日の自分を思う。
あんな私がここまでオドオドせずに話せるようになるとは・・・思えば遠くに来たもんだ・・・。笑。
この会は満席で8席だから、それぞれ好んだワインが計8種類選ばれることになって、結果的に他の方が購入した7種類も味わうことになる。
味の感想のシェアでも盛り上がり、他の方の選んだワインが気に入って別に購入していく人もいる。
そもそも、売るほどある(笑)いろとりどりの自然派ワインから、好きに選んだ8種類を美味しい料理とともに飲める。
こんなことは、他ではないだろう。
レストランと比較してみても、レストランで自然派ワインを置いてあるところが、まずは少ない。(最近は増えてきているというが・・・)
そして、自然派ワインがあったとしてもこちらの酒屋さんのような品揃えのレストランはかなり限られるだろう。
自然派ワイン好きが厳選したワイン8種類を自然派ワイン好きと一緒に飲み比べるなんてことは他にないことなのだ。
そう言えば、コロナ禍の家呑みによって、私に開花したものは好きなお酒を好きな食べ物とともに呑みたいという欲求だった。
ビールも、好きなものを取り寄せる。
そして、一品目は刺身を食べたいが、二品目は中華を食べたい、ならば、それも取り寄せる。
当たり前のようだが、これが癖づいてしまった。
外食の場合にはビールひとつとっても自分が好むモノを置いてある店は非常に限られてしまって、もちろん刺身と中華を同時に食べられるところなんてのもない。
フードコートであれば可能性があるかもしれない(刺身はないか・・・)が、フードコートに好きなビールが置いてあることはない。
コロナ禍は自分の本当の欲求を突き詰めた時にそれは外食にはないことをハッキリさせてくれた。
ずいぶんワガママになったものだ。汗。
こうして、コロナ禍が過ぎても外食が減ったままになってしまっている。
これは、先ほどの好みのワインレストランがないこととまさに同様のことなのだ。
ちなみに、この会では酒屋さんなのでワインボトルは市価で買えるわけだが、これがレストランになると約3倍くらいの値段になるのが相場だと聞く。
そして、酒ありきで料理を合わせる、という非常識、それは私のような飲んべえにとっては、実に嬉しい非常識。
この会はこのコロナ禍で出てきた私のワガママを満たしてくれて、しかもコスパがいい他にはない最高の場になった、と言っても過言ではない。
自分がワガママになったということに気づかされると同時に、知らず知らずに社会の見えない制限の中で、縛られて生きてしまっているのだ、ということに気づかされるのだった。
この裏表の両面はこのケース以外のどんなことにも当てはまって同時に発生するものだ。
好みが循環することが自然体!?
そんなペアリングの会で、隣席になったのがある土鍋屋さんの社長さんだった。
これまでこの会に何回も参加している大先輩。
ワイン選びでは、私は薄めの赤ワインを、彼は濃い赤ワインを選んだ。
私は、「歳を取ったせいなのか、最近は濃い赤ワインがシンドくなった」と話したところ、間髪入れずに「循環があるんだよね。」という言葉が返ってきた。
先輩はこれまでに長らくワインを愉しんできたらしいのだが、その時々でワインの好みが循環してきたという。
白から赤へ、あるいは、サッパリ系から濃厚へ。
そしてまた戻る。
商売の陶磁器についても、同様だと続ける。
ある時は陶器を好み、ある時は磁器を好む。
そして、また戻って陶器が好きになる。
あるいは、陶器の中である時は〇〇焼きを好んだのだが、それに飽きて別のモノが好きになり、また〇〇焼きに戻る。
数年だったり、長い場合は数十年スパンでの循環になることもあるらしい。
そして、なぜそうなるのか、本人も説明できないんだという。
目の前の料理人がここで話に入ってきて、「自分も同じで、好みが循環している。」と話し出した。
料理人もなぜそうなるかわからないという。
循環は誰にでも起こっているものらしい。
ここから感じたのは、すべてのモノがそうであるように、人の好みもずーっと固定しているのは不自然で、自然な状態とは変化、循環しつづける状態なのだ、ということだ。
そうか・・・人間の体だって諸行無常なのだ。
ずーっと同じ好みであることに、どうしても脳による恣意的なものを感じてしまう。
この高高人の好みの変化の話をこうまで大げさに感じるのは、固定することが合理的だと考える頭が自分にあると認識しているからだ。
固定するとシンプルになって手間暇がかからないからそちらを選んでしまう。
その合理性が、自分の自然体を知らぬ間に抑制してきているんではないか?
そんな懸念がまだまだ私につきまとっている気がする。
「細胞の声を聴く」
こちらも前回書いた中にあった言葉だ。
細胞の声を聴いた時、基本なぜそうしたいのか、説明できるものではない。
この説明できないモノこそを大切にしないとならないというところにつながるのだった。
ちなみに、私はこの会の最後の方に大先輩の濃い赤ワインを何杯もおかわりさせてもらった。
大先輩の赤ワインはそもそも私のモノよりもかなり値段が高くて美味しかった。
どの口が言っているのか!?
私の濃い赤ワインがシンドイなどという欲求もずいぶんいい加減なものだ。汗。
自然体であればワガママなのだ
厳選した自然派ワインに合う料理を食べたい!
赤ワインは濃いものはシンドイ!
ビールは好きな銘柄のモノでないと嫌だ!
なんて贅沢でワガママなことだろうか?
こんなワガママは周りからして迷惑なものだが、ワガママを欲するから得られるとも言える。
私は、ワガママを感じたままでいたから、このペアリングの会のような最高の場に巡り合えたのだ。
”ワガママ”という言葉は、社会では嫌われる言葉だから、これまで自分の中でも否定してきていたのだが、もう一度考えてみると、ワガママであることが自然体であると感じるようになる。
そしてワガママでないと自由は得られないし、独創的になれないとも感じられるようにもなってくる。
そうして私は、これを機にワガママとの向き合い方を変えてみようと思い始めたのだった。
ワガママな欲求は自分からドンドン出さないとならない。
というよりも自然体であるならば、ワガママな欲求は涌き出てくるものなのだ。
このワガママな欲求が自分から出てくることを否定してはならない。
欲求はかけがえのないものだ。
出てくる欲求を否定し続けることで、発想がドンドン貧困になるし、生気が失われていくだろう。
こう言えるのは、いつもオドオドしていた昔の自分、そしてこれまでお会いした多くの人々を思い出したことにある。
思ったことを自由に言える人ほど、自由でイキイキしているように感じることが非常に多かった。
まずはこう感じる。
そして、オドオドしていた時分の自分は自分の欲求を否定して、外にある正解どおりに生きようとしていた。
一旦、欲求を否定するのだから、自分と取るべき態度が不一致となり、コントロールがスムーズにいかなくてオドオドする間ができてしまったのだ。
同じように外の正解どおりに生きようとする人を見て、オドオド状態やその人から苦しみがにじみ出るのがわかるようになった。
内面はオドオドしているのだが、ポーカーフェイスでいるスキルを上げた人もいるが・・・笑。
いつからか、正解に否定される自分の欲求が存在することで多くの人が多かれ少なかれ苦しんでいるように見え始めた。
その一方で、自分の欲求が正しいと思っていて、その欲求どおりに進めようとする人は自己正当化が強くて、嫌な圧を感じるようにもなった。
結局いいところのポジションとは、自分の欲求を尊重しつつ、欲求が必ずしも正しくはないし、叶うものではない、という一見矛盾するようなものをもち合わせたところにあるのではないか?
今回のペアリングの会をキッカケに以前からモヤモヤしていた思いを曲がりなりにも言葉にできたように思う。
更には、濃い赤ワインがシンドイ私が、濃い赤ワインを美味しくいただいてしまうように、自分の欲求がいい加減なものである、と認識しているポジション。
この自分の欲求の尊重と自分のいい加減さの認識・尊重、その両方に、イキイキと生きる秘訣があるように思えてくる。
欲求が出ることを元から抑制しようとしても、あるいは、いい加減な自分を矯正することを生きる目的にしようとしても、多分苦しみが増えるのだろうとどうしても思える。
欲求はバンバン出して、欲求が叶わないことをなんとも思わないという許容ポジションでいる。
人生というものを、欲求をバンバン出して、その内で縁があるわずかなものが叶っていくゲームだとみる。
下手な鉄砲方式で、いくつかの欲求が叶うために欲求をバンバン出していくイメージだ。
今回の最後に、もう一度このポジションをまとめて終わることにする。
・自分の欲求をドンドン出すこと。(自分の中で出すだけで、人に話さなくてもいい)
・自分の欲求を外の正解によって否定せずに尊重すること。
・自分の欲求が叶わないことを許容すること。
これらの上手いバランスというところが、新しい「ワガママとの向き合い方」なのだ、というところに着地するのだった。
更に、このポジションを自分同様に会話相手にも勝手に共通させてしまう。
共通なのだと思い込んで接すると相手も尊重できて、よりいい会話ができるように感じるのだ。
UnsplashのElle Hughesが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
今回の一件で、自分の弱さを知って認めていると、それが反転して強さになる、あるいは、しっかりする、にはいい加減さが必要だ、など、物事にはパラドックスのようなことがたくさんあって、これからもまだまだ発見できそうに感じました。
またの機会に、書いてみたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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