火で進化した人間から学ぶ「省力化されたあがらない幸せ」とは?
前回記事で紹介した、善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史
私はなぜだかこの本のような進化論に興味を惹かれる。
その理由を「これからの生活をよくするヒントになるから・・・」などともっともらしいことを言っていたのだが、あらためて考えてみると、その不思議な生物の完全性を知ると同時に不完全性を知ることで、今の自分を許せるようになるから、ということが大きいかもしれない。
前回の「子どもっぽい自分を否定せずに進化のせいにできる」といったように・・・。笑。
結局自分は、どこか完全性による自分の縛りから解放されたいと思っているらしい。
そんなことを思いながら、引き続いて同著者:リチャード・ランガムの別の本を読んでみることにした。
『火の賜物―ヒトは料理で進化した』
この本で一番感じたことは、「種の省力化」である。
種の進化というものはエネルギーを使わない方に向かっていく。
ここまでブログで、私は自分の合理性(省力化)というものが本当に合理的なのか?という疑問を持ったと書いたことがある。
合理性を追い求めることで、生きることが苦しくなることがあるから、省力化も大概にしておいた方がいい、という一旦の結論も書いた。
ところが、この本から感じる種の向かう方向は、私のこの結論とは逆のように思えるのだった。
さて、この2つの逆ベクトルを統合することはできないだろうか?
そんな答えを求めて進めてみたい。
火によって進化したこと
キャンプファイヤーの火を見ると心が落ち着く。
このような火の効果を、キャンプブームによって最近私も知ることになった。
火について考えたことはこのキャンプファイヤーのことくらいのもので、火というものは、それだけ当たり前にそこにあって、その有難さを感じることもなかった。
なので今回、あらためて火について考える機会で知ったことは当たり前のようだが非常に新鮮だった。
火というものが人間にもたらした変化を紹介する。
・料理することで食べ物を消化しやすく、栄養を吸収しやすくなった。
・噛まなくてもいいから、顎が小さくなった。
※火を使う前の人類の祖先比で。
・消化吸収がしやすくなったので、胃腸の体積が小さくなった。
※同じ大きさの体を持つ哺乳類対比で。
・上記によって食べる時間、消化する時間から解放された。
どうやら、火の影響というのは、人間の形を変えるなど、非常に大きかったようだ。
今でも生活に占める食事の時間は長いと感じるのだが、火を使う前は生ものは砕きづらいし、消化に時間がかかるなど、もっと時間がかかっていた。
人生はただ食べて生きるだけであったのだが、それだけではない可能性を火が広げたとも言えるのだろう。
これらの変化を見ると、種の進化はどうやら常に省力化の方向に向かうように感じられる。
消化はエネルギーのかかることだから、それを早めることができればエネルギーは別のことに使える。
胃腸も小さくできる。
種はドンドン不要なものは捨てて、小さくなる方に変化してエネルギーを余らしてきているのだ。
余談ではあるが興味深いのが、これらの火の効果は、現代の視点からは見ると真逆のデメリットであるように見えることだ。
・調理をすると栄養素が失われるから、生野菜で摂った方がいい。
・調理で出るコゲ等(アクリルアミドなど)は発がん性物質である。
・よく噛んで食べないと不健康になる。
調理した食べ物のデメリットは、生もののデメリットを上回ってここまで普通になったのだ。
例えば、調理によって発生するアクリルアミドなどの物質への免疫も備えながら進化してきたという。
ところが、飽食の時代はぐるっと一周して、当時デメリットだったことを逆に使わざるを得なくなったようにもみえる。
消化に悪い生ものを食べて、ダイエットしよう!だったりと・・・。
種はその飽食の時代には我関せずと、最低限のエネルギーで生きられる、不食の人、例えば、日光を浴びるだけで永久機関のように動く人、といった完全体を求めているように思える。
そのように見るとファストフードやヴィダーインゼリーも進化に向かうひとつのように思える。
時間がかかって簡単ではないようにも思うのだが。
ドキドキすらも省力化する!?
ここで思い出したことがある。
最近TVに出演していたタレントさんが、自分の変わったドラマの鑑賞法を紹介していた。
その鑑賞法とは、最初にドラマの最後を見てしまって、物語の結末を知った上で、あらためて初めからドラマを見るというものだ。
なぜそうするのかというと、途中のドキドキを味わいたくなくて安心してドラマを観たいから、だそうだ。
これに対しては、ドキドキを味わうことがドラマの醍醐味であって、もったいないことをしている、というのが大方の感想ではないだろうか。
私もそうだった。
ところが、同じく出演していた脳科学者 中野信子さんは、「ドキドキによって寿命が縮まる」という学説を紹介して、この方法について理にかなっている面もあると解説したのだった。
これは、以前の記事に書いた心拍数と寿命が反比例する?、とも一致する内容だ。
その時は、要らないドキドキは減らした方がいい、と自分なりに結論付けたのだったが、ドラマのドキドキまでもカットしよう、とする人がいるとは・・・。
人生とは、寿命を多少削ったとしてもドキドキを味わうためにあるのではないのか?
とは言ったものの、物理的にいって人間ひとりひとりのエネルギーというものに限界があって、各臓器には耐用年数?いや耐用回数がある、というのは納得せざるを得ないとも思う。
心臓が血液を送る回数上限、胃袋の蠕動(ぜんどう)運動の回数上限などなど・・・。
思えば、心拍数が上がり、アドレナリンが出る、という体の機能は、危機回避のための最終手段であり、エネルギー消費がハンパないはずだ。
ちなみに、中野信子さんは同時に「ドキドキさせることが鍛えることになって強くなる」という逆の学説も紹介していた。
専門家でも意見は割れているらしい。
これは何度か繰り返して言っていることなのだが、どこまで行っても結論はでないだろうから、私の納得する着地としては、ある程度のトレーニングと十分な休憩(エネルギーの温存)というところになる。
とりあえず、ドラマなどのドキドキ、あるいはワクワクを避けるというのもエネルギー温存方法のひとつだ、ということも自分の引き出しに加えることにした。
省エネが始まっている!?
最近自分が変わったなあ、と感じることの一つに、スポーツの祭典に対する興味が以前ほどではなくなったことが上げられる。
東京オリンピックもサッカーワールドカップも生でも録画でも1秒も観ていない。
のちのニュースダイジェストで偶然に眺める程度になっている。
ここまでみんなが好きなものは大体好き、という平均的な人間の自分が、言い方を変えればミーハーな自分が、この変わり様に自分自身が一番驚いている。
やっと周りに引っ張られない自分が見えたかあ!と少し嬉しいところもある。
なぜ変わったのだろうか?
スポーツが嫌いになったのでもないし、日本を応援する気持ちがないわけでもない。
今回のサッカーワールドカップで日本が決勝トーナメントに進出したことは実に喜ばしい。
自分でもうまく説明できないが、簡単に言ってしまうと他の興味があることに時間を割くようになった、ということなのだろう。
それでも他に何か新しい趣味ができたわけでもない。
周りの最高峰の才能を観るよりも、自分と向き合うことに興味が変わったのかもしれない。
とウーン、そう書いてもどうもシックリこない。
自分でもハッキリできないのだが、ここで前出のドラマのドキドキを避ける鑑賞法から思ったことがある。
自分は、日々のルーティンを壊して睡眠不足を招くような、朝4時起きの視聴、そして早朝から心拍数が上がるような不健康なこと(笑)は、やりたくないのかもしれないと。
何かエネルギーを余計に使うようなことをしないように傾いているのかもしれないのだ。
無意識に、無理をせず、という省力化に向かっている。
これが老いるということなのかもしれない。
いや、これで老いているからなのではなく、未来に向けてこれ以上老いを早めないように、省力化しようとしている、ということなのではないかと。
考えたくないが、これが可能性のひとつかもしれない。
あがらない幸せをつかむ!?
ここまで、種の進化が省力化の方向であることから始まっていろいろ観てきて思うこと。
それは、省力化は自然な行為である。
これを再確認するに至った。
私の思考からの省力化には、時に無理や行き過ぎなものがあるだろうけれど、省力化に向かう、でいいのだと。
種が向かう方向に抗うなんてことはしなくてもいい。(もちろんしてもいいのだが)
現代は便利なものが増えて、これ以上楽になってどうするの?
※ゴミをこれ以上増やしてどうするの?なども。
といった向きもあるのだが、人間の本能によって省力化の動きは止められないんだろう。
人間は省力化で浮いた時間を別のことに使ってまた進化していくのだ。
そして意識しなくても自分の知らぬ間に自分の省力化が進んでいるのだとも。
では種の求める自然に抗わない生き方とはどんなものだろうか?
それは、例えば、心拍数の上がりをほどほどにする、胃袋の蠕動(ぜんどう)運動をほどほどにするものだ。笑。
若者言葉でいう「(テンションが)あがる~」をほどほどにすることだ。
ならば、朝6時にワールドカップ、スペイン撃破なんてのは、興奮しすぎて体に非常に悪い。笑。
毎日三食のバランスのいい食事は、胃を早く消耗してしまう。
血糖値を一気に上げないような生活をするとも言えるのだろうか?
周知のことだが、急な寒暖さも避けた方がいい。
でも、そんなことでは人生はつまらない、幸せではないではないか?とも思う。
ならば、あがらなくても愉しく幸せでいることはできるのだろうか?
それは、一気に訪れる快楽に頼るのではなくて、自分の目の前にあって自分で影響を与えることができる、そこはかとない充実感を得られるようなものかもしれない。
急に得られた快感は長続きしないから、ずーっと興味をもっていられてコツコツと積み上げる何かの趣味(仕事)なのかもしれない。
朝起きた時に、今日もいろいろ楽しみだと思える健康体だろうか。
“火”のように当たり前にそこにあるものかもしれない。
とはいえ、自分が、「テンションあがる~」のような幸せは止めましょう!などとはとても言えるものではない。
せいぜい、それ以外のあがらない幸せも併せ持つ、という意識があれば長続きすると思う、といったところだ。
テレビや周りが感動しているから、合わせて感動しなくてもいいし、むしろ煽られることはエネルギーの浪費であると言えるだろう。
あがる幸せ以外のあがらない幸せ。
穏やかな幸せ。
暴飲暴食以外の幸せ。
言っておいてこれがなかなかできないのだが。汗。
今回進化から学ぶことは、種の意向に呼応しながら省力化した穏やかな幸せの中に生きるということだ。
最後に、ここまできて、この「あがらない幸せ」というものは「悟りを開く」という境地にリンクするように感じられる。
悟りを開いた人は欲がないというから、心拍数が上がらず、食事も最小限になる、というイメージがある。
ならば、悟りを開いた人は長生きしているはず。
釈迦が80歳まで生きたということは当時としては、長生きだったと言えるだろうか?
悟りを開いた人の統計がとれないから証明はできない。
そもそも、長生きしたいという欲がある自分が、長生きするために悟りを開いた方がいいかも、などと考えるとは、悟りというものを欲にまぶしてしまっている!自分は何を考えているのか!汗。
今回は、みんなと一緒にあがらずで、老人になるのを前倒しするような、どうやら精力に欠ける記事になってしまった。
UnsplashのCailin Grant-Jansenが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
私はサウナが好きなのですが、この理屈から少し頻度を落とし始めたのでした。汗。笑。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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