「成長する」とは、次の経験をより豊かにできる能力が拡張していくこと。
「友達とのやりとりは流暢に言葉が出てくるのだが、接客になると上手くいかない」
ある大学生が、バイト先でのことを吐露してくれたことがあった。
何とか力になれないか、と自分なりに言葉を尽くしてみたのだが、どう言っても空回りしているように感じる。
自分の無力さ・・・自分がここまでやってきたことはこの程度で打ち止めなんだなあ、としみしみ思う。
だが、それで終わらないのも私がこれまでやってきたことの現れなのだろう。
「まあ、人それぞれ、他人が教えて人を変えることなんてできないもんだ、そうそう、それからまだ若いから時間がかかるんだよね。」
自分を正当化する言葉がすぐに出てきて自分の太々しさに苦笑いするのだった。
そんなことがあったすぐ後に、自宅の本の山の中で目についたのがこちらだった。
後から思うと、自分の無力さがこの本を光らせたのかもしれない。
ジョン・デューイの教育論
ジョン・デューイは教育は経験によってなされるものである、と主張し、当時対立していた伝統的教育と進歩主義教育のいずれも不十分だとして批判した。
伝統的教育:
知識の注入・権威・規律・暗記中心
進歩主義教育:
子どもの自由・興味・活動重視
約100年前にこの2つの教育論の対立が既にあったとは意外で、そんな前からの議論がなされたならば、今はもっと進化していてもいいようなものだが・・・。
それはともかく、デューイは教育の目的を「成長」に置き、
成長とは、
「次の経験をより豊か(意味あるもの)にできる能力が拡張していくこと。」
と定義した。
「次の経験をより豊かにできる」ということの具体例を上げてみると、
以前に比べて、何が問題なのかわかるようになって問題解決に向かえるようになる。
問題の原因が見えるようになる。
過去の経験を目の前の経験に関連付けられて別の視点で捉えられる様になる。
(以前と別の視点でみることなどによって)不安が減って課題解決への前向きさ、あるいは粘り強さが出てくる。
次に課題が現れてそれを乗り越える必要が出てきた時に、これらのことによって単純に課題解決できること。
あるいは、解決にまで至らなくても以前より解決に近づくこと、気持ちが変化すること。
そうなると次の課題に向き合う経験が意味のあるものになる(より豊かな経験になる)、ということらしい。
ただし、デューイは経験に条件を付けていて、すべての経験が教育的とは限らないという。
失敗を恥と強要するような経験、学びをイヤイヤやらされるような経験、意見を否定されるような経験をすると、人は次の経験で考えなくなったり、経験を避けたりするようになる。
これらは成長につながらないため、教育にとって不要な経験だという。
将来の成長を閉ざす経験ではなくて、次の学習への意欲と能力を育てる経験が必要なのである。
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教育の目的を成長に据え、その成長の中身を定義する。
自分に当てはめてみると自分が学ぶ目的は、いろいろあってゆえに曖昧なものだったので、定義された上で説明されるとなるほどかなりスッキリするものだ。
これに限らず、多くの言葉を曖昧にしたまま過ごしているようにも思う・・・。
過去の経験に結びつけてより豊かな経験にする
ここからデューイの教育論にしたがって、私も学んでみることにする。
デューイの教育論を私の過去の経験に結びつけて、どこまで豊かな経験にすることはできるのだろうか?
まず感じたのは、デューイの考え方は教育論にとどまらず、何のために生きるのか?ともつながってくる。
「より豊かになるために生きる」
このもっともらしい言葉は私にとって、また曖昧な言葉でもあるのだが、デューイに照らし合わせることで「豊か」というものがだんだん見えてくる。
人は、ベースとしての物質で満たされることで「豊かさ」を感じる。
また、さまざまな娯楽の面白さに「豊かさ」を感じる。
それに加えて、自分で課題解決する経験、具体的には、別の経験が結びついて全く別の視点が現れることで課題解決したり、別の視点によって課題が課題でなくなったり・・・
これらの経験に快感があってこれもまた面白い。
ちなみにこの課題設定と解決というものは、娯楽の中にも包含されている。
何も課題を創らなくったっていいようなものだが、なぜか人は課題を創りたがる。
そしてその解決に快感を見出す。
快感というよりもむしろ解決しないままの不快を解消する、と言った方が適切なのかもしれないが。
物事を別の視点から捉えられた時、何か雲の上に頭を突き出して下界を見下ろすような、爽快感がある。
そして、それまで足に着けていた鉄球がはずれたような、開放感が追ってくる。
こんなところも「より豊かになる」ことのひとつなのだ、と納得する。
そしてまた思う。
偉人たちの本を読んで、それを自分勝手に解釈し、何かの課題を解決する、あるいは新たな視点を得てこれまでのモヤモヤが解消する。
このブログがそうだが、それが自分は非常に楽しくて、自然に厭わずやっていることだということ。
デューイの言う、「学ぶことで次の経験が豊かにすること」これを私は曲がりなりにも日頃からやっていたのだと思う。
これに比べると学生時代の暗記という学びは、苦痛でしかなかった。
強制的な暗記は学ぶ意欲を削ぎ落とし、豊かになる経験に結びつかないということは体感済みだ。
ということは、デューイのいう学びならば、人には学ぶ意欲と豊かな経験をする能力が自然に備わっている、ということなのだろう。
もし、その意欲が起こらないならば、何か周りの抑圧にあっているのだ。
更に派生して、「経験」に関してこんなことも浮かんでくる。
「すべてのことに意味がある」
これは処世術といったらいいのか、スピリチュアルなことなのか、たまに聞こえてくる言葉だ。
例えば、嫌な人に出会ってしまうのも、そこから自分が学ぶためのものだ、と言ったりもする。
これをデューイの教育論とつなげると・・・
その嫌な人が自分の意見を批判したとしても、萎縮することなくやりとりできるのならば、豊かな経験を次にするための学びの経験になるのだろう。
「嫌な人にどう対処したらいいのか?」
若者からよく質問されるもののひとつだ。
嫌な人に散々苦しめられてきた私ではあるが、今の私はこんなことを話す。
それは、嫌な人に出会った時に楽しんでいる方法。
「この人から出てくる嫌なところは、その人が何を大切にしていることによるものだろうか?どんな家庭環境で育ったのだろうか?
会話から嫌な人が出来上がった背景を推理することが楽しいので・・・。
時に大切にしているところの反対のことを敢えて投げかけたりして、反応をみるなどの探りを入れたりもする。
この人は世の中のどんなタイプに入る人なのか?
推理し終えてあるタイプボックスに入れてしまったら、もちろんそれでも嫌なのは変わらないから、もう会わないようにするだけだ。
いや、こちらが会わないようにしなくても嫌な人も逆のことを言われたり、あれこれ分析されては気持ち悪いのだろう、向こうが私を避けるようになるのだと・・・。」
こう話すと、若者にとっての嫌な人は、同じ仕事場であったり友達だったりすることが多くて、縁を切れずにやっていくにはどうしたらいいのか?ということを聞きたかったらしくて、私は完全に的を外してしまい・・・。
そして、ポジティブ過ぎて気持ち悪い、縁を切ってしまえるのはズルいとまで言われてしまう。
まあ私の的外れとズルさはともかくとして、嫌な人に会ってしまう嫌な経験も、その人を是正したりしなくなって、手なずけることもしなくなって、その人の理解とタイプ分析をその先の自分の豊かな経験にしようしている・・・
そういうことのようで私という者は相変わらず欲深い。
そして、ここでも思う。
デューイの言う通りの学びを既に私はしていたのではないか?と。
私は自分が思う以上に、豊かさに対して貪欲な奴なのかもしれない。汗笑。
そして、更に言うとデューイのいう学びにならない経験というのはホ・ン・ト・ウ・はないのかもしれない・・・。
そんなことを思う。
ただ、よっぽど面の皮が厚くならないと学びになりにくいことは間違いあるまいが・・・・。
最後に
この年になると成長という言葉をとんと忘れてしまっていて、成長するものは白髪と皺と腹囲・・・思い浮かんだのはこんなことくらいで・・・。
だが、今回のデューイを読むという経験をもし先にしていたならば、冒頭の大学生にもう少しマシなアドバイスができたのかもしれないと思い、私にはまだまだ成長が必要なのだと痛感する。
どうやら、老化と成長、この2つが自分の中で結びつかない、そんな固定観念が私の中にあったようで・・・。
今回のデューイから、豊かな経験をしたいならば、いくつになっても成長が必要だ、という論立てを知ることができて、忘れていた成長を手繰り寄せることができた。
一方で、自分がなんとなくの感覚でやっていたことが、デューイの豊かな経験をするために学ぶということに重なって、少しだけ自信がついたようにも思う。
そして、ここまでのことを学べたのも、大学生が与えてくれた私の無力を感じる経験によるものなのだろう。
こんな風に経験が学びになる、とデューイは言っているのだ。
UnsplashのMarkus Spiskeが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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