求めるものを「楽」「正解」から、「手間」「不正解」という真逆のものに変えてみる。

お笑い芸人「オードリー」のラジオ(ずいぶん前のものだが)で、若林さんが春日さんの父親の悪口をめちゃくちゃ言っていて、久々に大笑いした。
「そう、ミーハーなんだよ!世間がいいっていうものしかいいって言わないからね。自分の目で確かめるっていう力がないんだよ、おまえのおやじは。
だから、服も遊び方も食べ物も、全部人がいいって言ったものを手に取るだけ、自分で選ぶ力がない!
おまえのおやじの側から、これいいよって聞いたことがない、全部知ってることなのよ、お前のおやじの言うことは・・・」
そもそも、ミーハーという言葉にはネガティブな意味があるが、ここまで毒舌で畳み掛けられると何とも痛快だ。
ここまでの毒舌は普段自分では言えないものだから、代弁してくれて余計にスッキリした。笑。
今回は、このミーハーキッカケで、最後には自分の新しい方向性を見出すところまで至った。
「楽」「正解」を求める
さすがに、ミーハーな人がすべてにおいて選ぶ力がないというのは言い過ぎだろうが、使わないと感性も鈍るだろうから、周りがいいということだけを鵜呑みにして物事を選択してばかりいると、その人の選択眼は育たないのだろう。
これは物理的にも理解できて、「そのとおり!」と思わず共感した。
それでも、ミーハーというのはある意味楽なものだ。
周りが褒めそやすことのすべてをただ鵜呑みにすればいいのだから。笑。
更に、そうするだけで流行りに乗っかる多くの人と話を簡単に合わせられる。
その流行りの好きなところを話してさえいれば、周りとの軋轢が減って周りと上手くやっていけて、仲間が増えたような気になる。
そういう意味でも楽なのだ。
私がどうだったかというと私はミーハーとまでは言えないが、流行りのものは知っておいて乗り遅れないようにしないといけない、そんなMUSTを裏に抱えた流行りもの好きではあったように思う。
今は多くの人が興味あるようなことに全く興味がいかなくなってしまっているのだが・・・。
そんな今から当時を振り返ると、当時は人間関係の楽さというものに上手く乗っかろうとして小ざかしく、かわいそうな人間だった、そんな風に感じる。
この「楽」というものを眺めてみると・・・
世の中はずいぶん楽になったもので、楽なことを選ぼうと思えば安易に選べるようになった。
便利な新製品はドンドン出てくるし、困った時にはネットで検索すれば何でも答えてくれる。
最近ではAIが返してくれるようになっている。
正解も楽に手に入るようになっている。
こんな風に「正解」と「楽」を短い時間で獲得することが今、巷で言われるコスパというものなのだろう。
「正解」と「楽」について自分は今どう感じているのだろうか?
「正解」「楽」のその先
ミーハーな人が「楽」というものを特別意識しているわけではないかもしれないのだが、人は無意識のうちに「楽」を求めるものだ。
少なくとも私はそうだ。
言ってしまえば、これまでずっーと「楽」と「正解」を追いかけてきた私に今あるのは、「楽」をすると何か物足りない、といったような感覚だ。
「楽」なことというのはどこか過ぎ去ってしまい、記憶に残らないところもどうやらあるようで・・・。
過去を遡ると、私のここまでの歩みは何とも拙い試行錯誤の連続ではあるが、その試行錯誤の方がいい思い出として残っている。
自分で曲がりなりにも悩んだこと、考えて決断したことが残っていて、外からもらった正解の方はどこかその記憶が薄い。
多分、借りてきた正解に対しては、やはり理解が不十分で腹落ちしておらず、表面的なところで止まっているからなんだろう。
そして、試行錯誤をした経験が喜怒哀楽の感情とともに積み重なっていて、今の私たるものをどこか支えているようにも感じるのだ。
充実感という言葉を使うと、「正解」「楽」が簡単に手に入れば入るほど、その充実感も薄まるように思う。
何か物足りないと感じる理由はどうやらこんなところにあるようで・・・。
ちなみに世の中のいわゆる天才をこちら側はすごい!と思うのものだが、当の本人はあんまりやった感がなくて特筆すべきものだとは思ったいない、といったようなことを聞いたことがある。
私が天才のことを持ち出すのはどうかと思うものの、充実感とはこのようなことなのではないだろうか?そう思う。
また、万物に対して作用には反作用が必ずあると言われるが、「楽」の反作用のひとつがこのあたりにもあるのではないだろうか?
「楽」を得ることで逆の「苦を」味わう、とか、何かを失う、といったようなことだ。
更に加えてコスパについて。
「コスパがいい(悪い)」っていうのは、人が生きることの目的を「お金を稼ぐ」ということに限定しているという前提がある。
冒頭のミーハーの楽さによって選択眼が弱まる、で言うと、選択眼が弱まっても稼げるならば(例えば、周りと職場や取引先との人間が円滑になることによって)、楽になった方がコスパがいい、となるわけで・・・。
コスパ思考によって、「選択眼」という稼げるかわからないようなもの、その測定も難しい見えないものが欠落してしまう。
また、人は先のことを考えられないから、コスパというものは近視眼的にならざるを得ない。
今養っている「選択眼」が未来の例えば商売につながるかもしれないことを考えようとはしないのだ。
などなど「楽」を取ることによって失われるコスパ以外の何かが確実に存在していることもまた、反作用のひとつと言えるように思う。
「人間万事塞翁が馬」とはこういうことをいうのだ。
外の正解が少しだけ自分のものになっただろうか・・。
「正解」ではなく「不正解」を求める
ここまでのことから、また新たな方向性が開けたように思う。
日々充実感を感じるには、「楽」を安易に選ばないこと。
「楽」によって失われるものがあることを忘れずにいたい。
例えば、外にある正解、受け売り、サポートから距離を置いて、手間でも、自分で考えて自分で納得して決めて選択していく。
「楽」と「正解」をむしろ疑い、「楽」と「正解」をゴールにするのではなくて、自分で考えるための材料として活用する、といった感覚だ。
そして私の場合経験上、自分で決めて選択すると必ず間違うことはわかっているのだが・・・むしろ間違いが起こった方がいい。
それは、間違うことで、間違いに気づき、気づくことで、間違いが修正され、正解を手繰り寄せることができるからだ。
自分から間違うことを恐れて、外の正解でばかり処理してしまうと、自分の中の間違いが覆われたままになってしまう。
例えば人とのやりとりをする時などは、積極的に自分の意見を出す。
それは、周りと調和した楽なものではなく、多分普通は言わないとても変な意見を・・・。
それに周りから突っ込んでもらって、間違いを指摘してもらう。
敢えて間違いを発見するために意見を出すのだ。
この間違いに気づいて修正するという一連の動きを経験した先に自分の中に納得が生まれて、充実感を得る。
そしてこの間違ってそれを修正するという手間がまた見えない何かを産んでいることを信じて進みたいと
思う。
・・・・・・
さて、ここまでの新しい方向性を眺めると、これは今まで求めてきた「楽」「正解」とは真逆の「手間」「不正解」を求める動きになっていることが、わかる。
禅問答のようでもあるが、ともかくこれは多くの人が「楽」「正解」を求める中で、あまのじゃくの私にピッタリのものになった。笑。
そしてもう一つ自分の中にあったモヤモヤが晴れてくる。
それは、私が人と会話する時に根底にあったその会話の「目的」に関することだ。
人との会話で、何らかの意見を主張している自分は、自分の言ってることこそが正解であることを証明する、という目的になっていないだろうか?
そんな風に感じて、自分をいぶかしく思う事がこれまで何度かあった。
今回のことに照らし合わせると、このことがクリアになる。
日々の会話の目的は、自分の正しさの証明のためではなくて、自分の間違いの発見のためにあるのだ。
人生は短い。
間違いに気づかす、間違いを覆ったままの人生よりは、できるだけたくさんの間違いに気づく人生でありたい。
そこで志めでたい自分という者に気づく。
私は、もはやプロ野球の話にもワールドカップの話にも全くついていけない。
そんな周りとの調和がままならない状態で、なおかつ変なこと(間違っていること)を言い出しては、その間違いに気づかせてほしい、などととんでもなく自分都合のことを言っている・・・汗。
どこまでも欲深い人間だ。
UnsplashのElimende Inagellaが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
「迷った時は困難な道を選べ」
これは芸術家の岡本太郎さんの言葉ですが、今になってようやく、この言葉の意味が少しわかってきたように思います。
外にある正解がまた少しは自分のものになったのかもしれません。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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