RYO SASAKI

「自分らしく生きる」ことは簡単ではないことに、あらためて気付かされた。

タナカ シンゴ

最近、「自分らしく生きる」や「自分を表現する」などにフォーカスを当てて、記事を書いてきた。

「自分の人生を生きる」ってことにチャレンジする

「自分を表現する」時間を増やす

また、そのためには、自分の思いを大切にして、外の情報から作られる固定観念を外す必要がある、とも書いてきた。

これらのことは間違ってはいないと思っているのだが、人間に対してもっと深く理解して、かなりの覚悟を持たないと簡単にできるものではない、ということをこの本であらためて気付かせられた。

その本は、以前の記事にも登場してきているエーリッヒフロムの「自由からの逃走」。

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この本のメッセージを一言にまとめると、

真に自分らしく生きることは、苦痛を伴うものであって、人間は苦痛を嫌うものだから、自分らしく生きることから逃げ易いものである。

というものだ。

この本は自分らしく生きるための前提である「自由」から逃走する人間、の嵯峨を見せつけてくれている。

更に、印象深かったポイントを以下に上げてみる。

・宗教はそれへの服従によって人の自由を奪うものだが、その一方で人を安定させる側面を持つ。

・資本主義への変遷によって、人は抑圧から解放され自由を得た。

しかし、それによって、人は人との絆を失い、競争にさらされるなどの孤独と無力感にさいなまれることになった。

・人は孤独や無力感から逃走するために支配されるという不自由を選ぶことがある。

この本は1952年に発行されたもので、エーリッヒ・フロムの仮説が含まれているものではあるが、現代でも色あせることなく、心に響いてくる驚くべき内容である。

その凄さは、人間と社会との関係を貫いて見通す観察眼とでも言うのか、その先見性なのか、逆に今でも変わっていない社会と言ったらいいのか、うまく表す言葉が見つからない。

宗教にみる自由と服従

宗教改革者の政治や経済への関わり方というものは、難しくもあり、だからこそ興味深くもある。

社会に、君主、富裕な階級、中流階級、貧しい階級が存在している時に、宗教改革者のメッセージはどこの階層の統制にあがなって、どこの階層の解放を目指すものになるのか?という問題。

15世紀の宗教改革者マルティン・ルターは、教会の権威を恐れたが、政治的にはどんな暴君であろうとも君主の権威に対する服従を熱烈に要請していた。

何らかの支配から、人が解放されることで幸せに導くはずの、宗教改革者も服従を希望するところに矛盾を感じる。

宗教改革者にもジレンマがあったのだ。

権威を壊わした時、その代わりに別の権威が必要になる。

ここにも人類の長ーい課題である権力統制と自由の問題を見ることもできる。

とは言えルターは、孤独と無力感に押しつぶされそうな社会を神への完全服従という形でとにかく民衆を救った。

すなわち汝が完全に服従し、みずからの個人的な無意味さを認めるならば、そのとき、全能の神は喜んで汝を愛し、汝を救おうとするであろうと。

自己の無意味さの感情から解放され、神の栄光に参加することができるであろう。

こうして、ルターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。

すなわち神にである。

自由になることによって起こる問題は、制限のかかった不自由によって解決される。

ここでの不自由とは宗教への服従、見方を逆にすると、宗教による統制である。

見えないものが含まれる宗教というわかりずらいものを「制限されることで安定を得ることができる装置のようなもの」と捉えることは、ひとつの客観的な側面だと感じる。

この制限&安定はセットになり、自由&不安定は、必ずセットとして現れる。

このことは宗教に限らず、何に対しても現れる、逃れることができない普遍性なのだ。

そしてまた、ある権威から自由になるために、別の権威ールターで言えば神という権威ーが構築されることを繰り返すのも人間のこれまでの特徴だ。

資本主義にみる自由と孤独

資本主義によって、人は職業の選択の幅を広げ、やり方次第では多くの富を得ることができる、といった自由を獲得することになった。

この結果、経済発展がもたらされてきた。

当然ながら、豊かになって幸せになった面がある。

これに対して、エーリッヒ・フロムは、資本主義のネガティブな面を3点ほどあげている。

①競争に迫られて、常に不安を持つようになったこと。

②その競争の結果、老後の心配が増加したこと。(若い人との競争により)

③人と人の絆が失われたこと。

資本主義経済以前の中世の封建的経済組織にあった、固定性と比較的な安定性が失われた。

人生の主人が組織から個人に移った。

成功も失敗も個人の責任となった。

(このことは現代では当たり前のように思えるが、当時の人は現代の人より、個人あるいは自我という感覚が薄く組織への帰属感が強かったらしい。)

人と人の絆の喪失については、このようなことを言っている。

資本主義によって人はすべての物を価値で判断するようになった。

価値とはお金になるかならないかの価値であり、仕事や物やサービスを価値で評価し始めた。

そして、人までもをその価値で評価する感覚が当たり前になった。

使えるか使えないか、いくらになるのかと。

これによって、人の本来の絆ーお金の価値以外のもの、いわゆる無償の愛によるーを失ってしまった。

確かに、家族を見る時ですら、金銭価値の視点が占めるようになっているように感じる。

これに対して、「何を今の時代に子供みたいなことを!」などと感じたならば、まさにあなたは、絆を失った人なのだ。

現代は、この絆の喪失に対して、SNSなどで繋がった新たな絆ー本書では二次的絆と言っているーで繋がろうという反作用が出てきていると見ることができると思う。

更に、人々は自由を得ることができて、個人として立ったはずにもかかわらず、成功をおさめるために組織の歯車にならざるを得ないことがわかってしまった。

これらのことが、人を孤独にして、無力感を増大させた。

この個人の孤独と無力の感情を、一般の普通人はまったく意識していない。

それらはかれらにはあまりに恐ろしすぎるのである。

それは毎日の型のような活動、個人的または社会的な関係において見いだす確信と賞賛、事業における成功、あらゆる気晴らし、「たのしみ」「つきあい」「遊覧」などによって覆い隠される。

よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値についてしばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康である場合がある。

これは、どれだけ事業で成功しても、娯楽を楽しんでも、根底にある孤独感と無力感はぬぐえるものではない、という意味合いである。

これを感じられ、共感できる人は、現代にどのくらいいるものだろうか?

逆に感じられない人がどれだけ多いのだろうか?

更に、資本主義の最大のツール「広告」については、広告は何かの権威、何かの美しさ、何かの性的な表現、何かの恐怖を煽ることで、広告に対する批判的な思考能力を鈍化させているという。

批判的な思考能力を鈍化させるこのような方法は、われわれのデモクラシーにとって、多くのあからさまな攻撃よりもはるかに危険であり、発売禁止になるようなエロ文学よりもはるかに非道徳的ー人間の統一性という観点からしてーである。

このことは、日本における戦後のGHQの3S政策とリンクする。

教育によっても思考能力の鈍化が進んでいる。

無関係の事実が学生の頭に詰め込まれ、これに時間とエネルギーが費やされ、ほとんど考える暇がない。

「情報」だけでは、情報のないのと同じように、思考にとっては障害となる。

不要な情報の詰め込みによって思考を奪われることは自分も経験済である。

言われて見れば非常にシンプルな話だ。

有限な時間を、情報記憶に使うか、思考に使うか、どちらに時間を割くかということだけの話。

そして、思考をしたとしても、その思考はお金を稼ぐための思考だけに拘束されている。

これらのことは、教育によって思考が奪われ、自由が奪われる面があるということを示してくれている。

ちなみに、教育から獲得したテスト〇点、〇〇大学卒業などは権威主義そのものでもある。

そして、権威主義者や思考停止者は支配しやすいということでもある。

孤独から逃走をする人間

エーリッヒ・フロムは、孤独と無力感に破壊性が加わった心理状態が、ドイツのファシズムの要因になった、と分析している。

少し横道にそれるのだが、この破壊性の話によって私の固定観念がまたひとつ外された。

私は、「人間が争う理由は生物的に生きながらえるために自然なこと」であると一旦解釈する記事を以前に書いた。

だから、人間が争いやすいのはやむを得ないところもあるから、あまり目くじら立てずに行こう、というような内容。

記事「生きながらえるために

エーリッヒ・フロムは、争う理由に、確かに生存本能はあるが、それ以外の別のものがある、としている。

それは溜め込んだ「破壊性」である。

人は自発的な成長と表現の妨害によって、破壊性を溜めることになり、この鬱屈とした破壊性がある拍子に爆発する。

破壊性は生きられない生命の爆発である。

生命の成長や表現が実現されれば破壊性は弱まる。

この破壊性に悩まされる人は神経症という病気と認定される。

一方で、破壊性を我慢できたり、あるいは、何か別のものに転嫁する資質がある人は、一般的に正常であるように見えるが、実はこのような人は、神経症の人より不健康なのである。

争いの原因が、「除外できない必要な生存本能」であるという固定観念に加えて、「除外可能な破壊性」がある、という新たな認識が生まれた。

このことによって破壊性を取り除くことにフォーカスが当たる。

破壊性を取り除くには、生命の成長や生命の表現をすることを制限しないこと、これは、以前からしあわせに生きるために必要だと自分が思っていたことに一致する。

このことで確信を持てるようになり、そこに拍車をかけられるようになる。

このことが、この固定観念が外れたことの意義と言える。

本筋に戻って、自由を求めるはずの人間が、自由によってもたらされた孤独や無力感に耐えられずに、何かの司令下(例えばファシズム)に身を委ねることがある。

孤独や無力感から逃走する方法は、自己を捨てて自分の外にある組織やシステムに身を委ねることである。

自由と孤独の戦いを終わらせて、自己を失くして組織に完全適応すれば、孤独や無力感という苦痛はなくなるという。

彼は期待されているような人間になろうとして、その代償に彼の自己を捨てている。

こうして純粋な個性と自然性とはすべて失われるであろう。

あらゆる神経症の核心は、自由と独立を求める戦いにある。

正常な人々の多くは、この戦いを完全な自己放棄のうちに終わらせる。

こうして彼らはうまく適応し、正常であると認められるようになる。

孤独や無力感は、サディズム・マゾヒズム的な性格の原因にもなるという。

サディズム的性格は、自分の中のその不安定さを、外部を傷つけ、支配することの快感で埋めようとする。

マゾヒズム的性格は、自分の中の不安定さを、自分を痛め付けることの合理性による快感で埋めようとする。

共に外に依存している状態であり、それを権威主義的性格と言ってもいい。

自分の価値基準を放棄して、外の基準にすがる。

外の基準に依存する。

耐えられない苦痛を感じれば、それを避けようとするのが人間の知恵でもあるのだが、それが外にある組織、システム、価値基準の下僕となることで実現する。

どうも、苦痛の回避方法が根本的ではなくて、対処法になってしまうということのようだ。

風邪にかかった時に、風邪薬を飲んで熱を下げることと同様である。

これらを知ることは何に活かせるだろうか?

これらの内容を踏まえた上で、自由になる方法は、自分にある「固定観念をはずすこと」なのだ、ともう一回言いたい。

人は権威のあるところから、こうだと言われれば、それが正解とばかりに、それで賢くなった、とばかりに信じてしまう生き物だ。

まさに、催眠術で暗示にかかっているようなものだ。

だから、まずはチャンと思考に時間をかけること、チャンと物事を疑うことが固定観念を外すための一歩である。

固定観念は自分の想像以上に無意識に自分の身体に浸潤していることを認識する必要があるだろう。

私の固定観念は、今回もいくつか外れることになった。

ところが、固定観念を外すことも含めて、自由になることには孤独と無力感がついて回る。

確かに固定観念に乗っかかっていた方が、安定して楽なのかもしれない。

もはや固定観念というものは、正しいか間違っているかの問題ではなく、不安定で揺れる身体の軸を体裁上固定して不安を払拭することに目的があるのだ、と思えてきた。

これに対して、私は揺らいでいく、と記事でも宣言しているから、この対比が面白く、いちおう整合性がとれているようだ。

人生はカウンターを当ててずーっと「揺らいでいく」のがいい。

真の自由、真の自分らしさを生きるためには、孤独を受け入れる必要がある。

外の環境に置かれた自分を見た時の無力感から、自分の内面から湧き出る有力感に変えないとならない。

そうすることで、自由から逃走しない自分が立つ必要がある。

自由に生きるのは、簡単なことではない。

もちろん、自由&不安定(孤独)と不自由&安定のどちらを選ぶかは、それこそ個人の自由だ。

ただ、私がいいたいことは、限られた人生を生きるならば、知らないうちに流されるのではなく、これらの構造を知った上で、自分で選択したいということだ。

後悔しないように・・・。

ところで、豊かになった資本主義社会のネガティブな面を掘り返して見せつけられたことは、一体何の足しになるのだろうか?

資本主義から別の何かに変わるわけでもないし、別の主義を主張するものでもない。

我々は、資本主義社会に生まれ落ちた。

当初、資本主義への転換を経験した人はそれ以前と比較して、かなりインパクトを受けたのだろうが、我々は慣れっこになってしまった。

しかし、我々自信をよーく観察すると、ぬぐえない不安や恐怖がある、当時の人とこの根本は同じなのだと思う。

我々が資本主義社会に対して持つイメージにも固定観念がベッタリとくっついている。

意識もせずにいいイメージだけがくっついているのかもしれない。

素晴らしい面を持っている資本主義についても、他のあらゆることについても、世の中に万能なものは存在しない。

物事に必ず光と影が存在するという普遍性。

これらの知りたくないネガティブ要素、”影”に光を当てることは、”影”を克服するための一歩である。

影に蓋をするのではなく、影をしっかりと感じること、ここまでの歴史的背景が手伝ってその影について府に落ちる。

それだけでどこか許せる感覚が湧いてきて、日々の生活がほんの少し楽になる。

そして、それが『未来の影と光を超えた世界』につながるのだ、と信じるものである。

Photo by Alessio Soggetti on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

揺らぎを楽しむ、不安定を楽しむ、訂正を楽しむ、結局このあたりにまた戻ってきて、それに今回、疑うを楽しむ、影を見つけるを楽しむ、が加わりました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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