RYO SASAKI

「自分を表現する時間」を増やす。

タナカ シンゴ

前回、「自分の人生を生きる」という記事を書いた。

その内容とも重なるのだが、少し前にこんなことを思うようになった。

人は1日に60,000回考えるというが、その積み重ねの中で人が出来上がっている、とも言える。

瞬間瞬間に何を考えているかによって、人生が変わり、人が変わる。

とすると、人がより幸せに生きるには、幸せなことを考えている時間が多ければよいのではないだろうか?

過去を悔やんでいる時間、人を恨んでいる時間、自分のミスを責めている時間、未来を心配している時間などは、言うまでもなく減らしたいし、何かをしなければならない、と自分を追い込み、嫌々やっている時間もできるだけ減らしたい。

もちろん、過去を悔やんでいるといった幸福ではない考えは押さえつけるものではなく、むしろ吐き出さないといけない、とも心理学でも言われている。

ゼロにすることは不自然だし、ゼロまでにする必要はないとは思っているのだが。

幸せな時間=何かに夢中になっている時間=自分が心からやりたいことをやっている時間、これを増やせば幸せなのではないか?

そんな漠然としたことを思っていたところ、それについて見事に説明していて、共感する人が目の前に現れた。

エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者)である。

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ちなみに、今回出会ってみて、あらためて2つほど思ったことがある。

何も珍しいことではない。

人生において、モヤモヤしていることがあると、解消する何かが舞い込んでくる。

これを『引き寄せの法則』と言ったり、『カラーバス効果』と言ったりするものなのだと思う。

もう一つは著名な先生も同じような疑問を持っている、出来不出来はともかく、どこかは共通する同じ人間なんだ、ということ。

自分の違和感を忘れずに保持していて、何かの拍子に思い出されることによって、結びつきが起こるものだ。

自分の違和感は、自分であるために非常に大切なことだとあらためて感じた。

「受動」「能動」にくっついている固定観念

「受動」「能動」はその言葉の定義があり、辞書で引けばそれは明確なものだ。

しかし、その定義を言葉どおりに捉えるだけでは、また表面的になり豊かに生きることから遠ざかるのだ、とあらためて感じる。

辞書に恨みがあるわけではないのだが、言葉の定義を捉えただけで、固定観念がへばりつき、思考の自由度を奪ってしまうということが、日常起こっているのだ。

「自分の人生を生きる」と言った場合に、当然「受動的」ではなく、「能動的」に生きることである、と言えば多くの人は共感すると思う。

エーリッヒ・フロムは、人が「能動的」にやっていると思っている行為にも多くの「受動的」なものが含まれると言っている。

自分なりの解釈で書いてみる。

例えば、法律やルールを遵守することは、そこに合わせるという意味で受動的な行為であり、組織の一員になれば組織の要請によって指示や命令という形で、受動的に行わなければならないことがある。

余暇の過ごし方も家族に合わせるならば受動的である。

ここまでは一般的な理解だろう。

ここからが斬新で、自分が好きでする趣味や娯楽にしても物質を使うだけならば、それは物質に自分を合わせるだけの受動的な行為である、というもの。

TVや映画を自分で選んで見る行為も、目の前に用意されているものに自分を合わせただけの暇つぶしであり、受動的な行為である。

ドライブも、美味しいイタリアンの店を探して食べることも、更に言えば、調理器具を使って料理することも受動的な行為であるということだ。

人間は自己を表現している時、内在する力を発揮している時にのみ、自分自身なのだと私は思っている。

それに反して人間が「ある」ことをやめて「持つ」ようになり、使うようになれば人間は堕落し、物になり、生活は無意味になる。

真の喜びは真の能動にある。

上記には物質社会への痛烈な批判があり、物を「持つ」こと「使う」ことは、能動ではない。

では、「自己を表現すること」「自己の内在する力を発揮すること」とはどのようなことになるのか?

作曲したり、絵を書いたり、本を書いたり、踊ったり、というような芸術的なこと、というのはわかりやすい。

それ以外にも、自動車をただ運転しているのではなく、運転において自分が表現できていれば能動ということになるのだろう。

それはドライブテクニックなのかもしれないし、訪れた場所、その経験をなんらかの表現するのかもしれないし、想像もできない別の何かなのかもしれない。

食べることでの自分の表現は、食べた自分の感想を表現するというようなことになるのだろう。

料理での表現として、キャラ弁などが思い付くが必ずしも見える芸術だけではなく、レシピ通りに作るのではない創作性やチャレンジといったものが当てはまるのではないだろうか?

何か、MUST感覚で料理するのではなく、愉しんで作る料理であり、行為の中でワクワクしてMUSTを軽減させる何か、夢中になるエッセンスが含まれていることとも言えるのではないだろうか?

この受動と能動の境は非常に難しいのだが、そんな風に考えると何となく理解できるような気がする。

自分を表現することには様々なものがある。

芸術・スポーツ・製品(サービス)開発・起業・・・

しかし、芸術でも商業的(儲かる)にならないといけなかったりすると自分の表現したいものではなかったりする。

製品開発でも自分の表現したいものではなかったりする。

次の商品開発もその次の商品開発も自分の表現したいものである、と思い込ませている人も多いと思うが、残念ながらそうでもない瞬間が訪れるものだ。

自分の表現から外れやすいものなのだと思う。

ストレス発散、ご褒美

先日、TVを観ていてこんなシーンがあった。

女優 天海祐希さんに対しての質問。

「何か仕事、例えばドラマとか舞台をやり終えたーっ!というような自分に対してご褒美は何かしてますか?」

天海「ドラマなど作品ができること自体がご褒美なので、特に他はありません。」

仕事をやりきった後にご褒美が必要ということを否定するわけではないが、ここには仕事とは何か、苦役、苦痛とストレスにまみれているようなものであることを強く感じてしまう。

苦痛を伴わないと仕事とは言えない、という刷り込みがどこかにあるような。

上司も苦痛を耐えられる人間かそうでないかで部下の評価を下すようなところもある。

自分の経験でも仕事で疲れ切って、土日はほとんど寝ていたこともあったし、土日にやることと言えば、ストレス発散のための娯楽だったこともあった。

その娯楽とは、ただのうさ晴らしであり、ただの休憩であり、まさにエーリッヒ・フロムの言う受動的な行為だ。

ストレスがかかるから、発散のための娯楽に時間を費やす。

何かエネルギーのマイナスをかろうじてプラスに戻して翌週を迎える、というただの繰り返し。

グルメしかり、ドライブしかりである。

そんな状態に留まっているだけでは創造する隙間もなくなる。

睡眠以外で起きている人生の時間を割合で見ると、仕事70%・家事20%・娯楽(=ストレス発散)10% というような人も多いのではないだろうか?

ここの中に「自己を表現する」時間はどれだけあるのだろうか?

こんな人生でいいのだろうか?

自分が漠然と思う「自分が心からやりたいことをやっている時間」がエーリッヒ・フロムの「自分を表現する時間=真の能動」とつながり、より鮮明に浮かび上がってきた。

エーリッヒ・フロムはフロイトの批判をしている人でもあるが、こんなことも言っている。

フロイトの超自我は家父長制社会に置ける、父親の命令と禁止の内面化を意味していた。

私があることをしないのは、もはや父親がしてはいけないというからではなくて、私が父親を内面に取り込んだからである。

父親がそういうものとされているからである。

これは、家父長制が当たり前で、女性も子供も父の所有物であった時代の話。

家庭であれば父が絶対的な権力を持ち、ある組織であればその長が絶対的な権力を持っていて、今でいうパワハラなんてものはそこかしこにあっただろうという時代だ。

父から言われた命令は、その子供は受動的に受け入れざるを得ないのだが、その命令は、子供の内面にまで入り込み、自分のものとなってしまうことを批判している。

子供が自分自身の表現だとしていることが、元をたどれば外からのものなのだが、本人もそれがわからなくなる。

それを、「自己を超越した権力者」「無我となった公の人」などと表現したりするのだが、非常に怪しく感じる。

あなたは一体どこに行ったんだ?

どうやったらあなたのように無我になれるんだ?

いや、強制的に無我にさせられているんだ。

と。

このことに限らず、外から自分への侵入が起こり、「自己の表現」が抑制されて、自分自信が見えなくなってしまう、ということは現代でも変わらず良く起こることなのだと感じる。

自己を表現する時間を増やす

エーリッヒ・フロムの言う

「真の喜びは真の能動にある」

人が喜んでいるかどうかはその人にしかわからない。

測量をすることもできない。

しかし、自己表現することは、人の目を気にしなければ、抑圧を感じず、眉間に皺が寄らず、ストレスがかからないことのように思う。

「人の目を気にする」ということがまた大きな壁として我々の目の前に立ちはだかるから、それが喜びと思えなくなっている。

しかし、人が真に自由になった時、好きなことだけしていていいと言われれば、「自己表現してだけ生きる」を選び、このことは全く自然なことのように思える。

ここで一つ、夏目漱石が、書籍「私の個人主義 ~道楽と職業~」で痛快に語っているものを紹介したい。

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まずは、世の中の職業は専門家してより細分化していくようになった、というもの。

洋服屋が、ワイシャツ専門店などに分かれていく。

100年以上前からそうだったようだ。

この職業が分化し、その職業に専念する時間が増えると世の中が方輪(障がい者)だらけになる。

方輪という言葉を使っているのがまた印象深い。

ストレスのある仕事、それに加えて労働時間の割合が多い現代においては、お金を稼ぐ知恵以外に人生にとって大切な知恵を知る機会が非常に少なくなる。

ストレスを保有した偏った人々が平和も求めて民主主義を実現しようとしている。

皮肉に満ちた書き方だが、確かに、みんながストレスある仕事に専念し続けることで、世の中全体が喜びに満ち溢れるイメージが湧かない。

次に道楽と職業の違いの説明。

自分本位である職業は限られていて、科学者・哲学者・芸術家・坊主くらいのものである。

それ以外の自己本位のものは道楽に当たるのだという。

そして、上記以外の職業はすべて、他人本位のものである。

坊主も、悟りを開きたいという自己本位の職業である。

科学者や芸術家でありながら他人本位に身を売ってしまったものが出ているといった面もある。

そして、人生は他人本位になればなるほどお金を稼げて、自分本位ではお金を稼ぐことは難しい。

職業と道楽、他人本位と自己本位、何ともうまいことを言ったものだ。

「自己本位」=「自分を表現する」という喜びをどこまで抑えて、お金を稼ぐつもりなのか?

このバランスに突き当たる。

「自分を表現する」ことが一切できない労働、例えば労働にマニュアルが存在していて、その通りにやるだけのものならば、それはAIに変わってもらった方がいい。

とにかく、そんな風に感じる。

約1年前の日記から。

「今日はホットが出てるでしょうね」

前日の好天、高温から一転、大雨で気温が下がった土曜日。

スタバの店員さんにちょっかいを出す。

いや、普通の会話だ。

従来の仕事に集中している店員さんには、別の雑音に対して頭を使わざるを得ない瞬間が訪れた。

店員さんは少し驚いて、

「そうですねえ、急に半分以上ホットですね。」

と返してくれた。

まったく合理的でない無駄な会話、しかし、最近、私は、そこに生きる意味がある、と感じるようになった。

このことは勉強して賢くなったというのとは全く違う。

大脳新皮質は非合理を放置するようにできていない。

今までが、何かに追われて、自分のスケジュールを隙間なく詰め込み、その通りに進めることに縛られていたかもしれない。

コーヒーを買う時間を5分と設定したならば、超過30秒は、予定外の問題発生なのだ。

なぜ声をかけたのだろうか?

ただ思ったからか?時間に余裕があったからか?年をとったからか?それらの複合的なものなのかもしれない。

店員さんはオーダーを、オペレーションを、淡々とこなしていく。

スタバの社訓が「お客様の非日常をより豊かにする」となっていたとしても、そこに対応マニュアルなど一切ない(これらは後からわかったこと)にしても、オペレーションをこなすことが大部分の仕事で、避けて通れない。

このおっさんのちょっかい出しは、店員さんにとって社訓の実現をはっきりと記憶に刻む出来事になり、また、店員さんにとっても人間性を取り戻せる時間なのではないか?

そんな思いが頭によぎった。

いやーいちいち恩着せがましい。

大きなお世話だ。

いやー違う。

私は店員さんのためにしたのではない。

自分が話したかったからそうしたのだ。

そんな善人ではない。

こんなおっさんはめんどうだ、こんな風にはなりたくないと若い頃、静観していた自分が、年を重ねた結果、いろいろ言い訳した上で同じめんどうくさいを繰り返している。

世の中のめんどうくさいことは消滅できるだろうか?

ちなみに、コンビニの店員さんに、

「今日、暑いねえ。」

などと話しかけると、めんどくさそうで変人扱いされているようだ。笑。

「自己本位」=「自分を表現する」ということは「他人本位」の時間を減らすことになる。

「他人本位」の時間をなくすべきである、とは言わない。

しかし、人のためにだけをやりつくして生きた人生に後悔は起こらないものだろうか?

「自己本位」ですることが、偶然にも人のためになっていればラッキーだ。

ネットの普及もあり、YouTuberなどの自己本位に表現する職業が広がってきている。

これからも職業はより細分化されていく。

ニッチではあるが、自己本位の職業が増えることになると思う。

楽しみだ。

人は自分として生まれてきて自分を表現して、自分らしく生きるに越したことがない。

なぜ?と言われても、上記の状況証拠は不完全だし、とても証明はできないのだが、人生の後半を生きる今、ただ、そう感じる。

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

自己表現には、自分の中に作られる制約が、敵になります。

自己否定しない、自己肯定感が大切な前提になりますね。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

Photo by Emile Guillemot on Unsplash

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