RYO SASAKI

こんな「新意識高い系」はどうだろうか?

「意識高い系」という言葉を私はあまりいい意味で捉えていない。

ところが、今回、紹介してもらった本の情報から湧き出てきた様々な思いの行きつく先は、意外にも「意識高い系」だった。

紹介してもらった本は、

「究極の身体」 著:高岡英夫

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講談社
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それをキッカケにして取り寄せた別の本は、

「骨盤おこし」で身体が目覚める 1日3分、驚異の「割り」メソッド  著:中村考宏

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足をどうやって上げてますか?

こんなことを考えたこともなかった。

そんなことは考えずに正しい使い方を自然にやれるように備わっているはずのものではないのか?

足を上げる時の筋肉の使い方が2種類ある、という。

①大腿四頭筋(太ももの筋肉)と腹筋で上げる。

参照:自宅で出来るエクササイズ~大腿四頭筋~

②腸腰筋で上げる。

参照:ピラティスで腸腰筋を鍛えよう!

合理的で、運動のパフォーマンスが高い足の上げ方は、②の腸腰筋で上げる、方になる。

腸腰筋トレーニングは、お年寄りのつまづき防止のために注目されるようにもなっている。

大腿四頭筋で上げた場合、膝下の脛骨(すね)まで緊張が走る。

これに対して、腸腰筋で上げた場合は脛骨(すね)以下は力が入っておらず、プラんプラんしているから引っかからない、ということのようだ。

マイケル・ジョーダンなどの超一流アスリートも、脛骨(すね)以下はプラんプラんの状態でプレイしているという。

どこの筋肉で上げているかなんてこと、気にしたことがなかった。

人間は、筋肉を意識して筋肉を使っている。

意識しやすいアウターマッスルを使いやすく、筋トレで鍛えて、意識して大きくなった筋肉は得意な筋肉で使いやすい。

これに対して腸腰筋は体の奥にあるインナーマッスル。

現代人(私も)の多くの感覚に、筋肉を鍛えて生活や運動を支えていく、という感覚があると思う。

この感覚が足上げに関わらず、どうも大きな勘違いを生み出しているようだ。

人は骨格が崩れていくことに気づきもせずに、それを筋肉でカバーしようという意識が芽生えていく。

本来の身体は、骨で自重を支え、骨格で重心移動をさせて動いている。

本来は骨だけで立っていて、どこにも緊張感がないのが立位姿勢なのだが、骨格が崩れると重心位置がずれるなどして、筋肉でそのずれをカバーするようになる。

単なる立位姿勢にも筋肉での支えが必要になるから、体が常に緊張するようになる。

本来筋肉は骨格の限定範囲のサポート役なだけなのにもかかわらず、歪んだ骨格に合わせて筋肉が過剰に働くようになるのだ。

そして人はその筋肉を更に鍛えて、筋肉で力任せに動こうとする。

足上げの件でいうと骨格の歪みによって、腸腰筋が使えなくなり、それを大腿四頭筋(ももの筋肉)によってカバーしようとしているということになる。

このことは故障につながらなければ、何も困ることはないから、気づかないままになる。

「筋肉が強いことで故障が起こる場合がある」と整骨院の先生に言われたことがある。

私は、ロードバイクを修理に出す時に、自転車屋の店員さんから、「(サドルの減り方から)筋力がありますねえ。」と言われたことがある。

どこかの筋肉、たぶん大腿四頭筋(太ももの筋肉)だけが発達しているのではないか?

これが、股関節痛につながった可能性もある。

野球選手はイチローは筋肉は鍛えられるが、関節は鍛えられない、と言っていたことを思い出した。

筋肉だけを鍛えることで、バランスが崩れ、メジャーリーガーの日本人が故障する、という話も聞いたことがある。

バランスよく筋肉を鍛えるなんてことは相当難しいことだ、と感じる。

当初は若さに任せて筋肉をむやみに鍛えてバランスを崩す方向に進んでいたのだと。

筋肉だけで考えるのは、対処療法のようなもので、根本療法ではないということだ。

人間は簡単に間違う

私にとって今回のこの発見は衝撃的だった。

私は長い年月で何を学んで、何を認識してきたのだろうか?笑。

言われて見れば納得なのだが、全く気づかないで生きてきた。

思えば、ジムなどでのトレーニングがブームになり、肥満解消目的+カッコいい体のための筋トレをやたら目にする時代だった。

目に触れる情報がその筋トレ、芸能人が、そして、多くの人がそれをやっている。

それを見て、よいものだと思う。

根拠なくよいものだ、と簡単に認識してしまう。

自分はちゃんと選別できる賢さを持っているはずだ、と自信があるのだが、実態は、決して、決して、そうではない。

そう、冷静に眺めると、様々な意図をもった人々が宣伝(アウトプット)する、様々な情報が世の中に溢れている。

私はずーっとそのお祭りの中にいた。

これが私の、いや、私だけでなく人間社会の実態だ、と思う。

私は、後から思い出すと、他にも変な情報を信じ、ろくでもないことを時々してきている、笑。

身体というものは、そもそも深遠なバランスを保つ、もっとデリケートなものだったのだ。

ジムなどで行う筋トレはある意味ショータイムに過ぎなかった。

そこでやっている自分を外から眺めてた時の、気持ち良さを目的としていて、身体を大切にしていない。

そうだ!筋肉の一部だけを鍛える行為は、地球の自然のバランスに人間の勝手な思い込みだけで手を入れる危険な行為と見事にリンクする。

無知であることによって自然を冒涜しているような。

他にも、例えば「体が硬くて前屈ができない」ということについて。

これは足の裏の筋肉が硬いといった風にやはり筋肉の問題にしてきたが、前屈も骨盤立位状態で行うのが本来で、硬さの本質は筋肉の問題ではなく、骨格の問題であることも今更ながらやっとわかった。

筋肉偏重に知らず知らずになっていた。

更には、足裏の重心位置は脛骨(すね)の真下であり、動き出す時に指先や母指球からではなく踵から後ろに蹴るようにして始動する、という。

参照:足の骨格を知ろう(足の骨格、骨の名称、関節、アーチなど)

こちらも驚きの内容だ。

とにかく勘違いは簡単に起っていることがよくわかる。

これまでは、「筋肉で支えている」というイメージを自分が持っていることにまず気が付かなかった。

「筋肉で支えている」というイメージを失くして、骨格で支えてるイメージに意識を変える。

そして、この重心や歩き方を試してみると今までと全く違う。

大げさかもしれないが、人が変わったようだ。

意識が変わると人が変わり、動きが変わる。

ここの詳細は、センタートレーニングの結果が出たらまた記事にしたいと思う。

本気になるのも意識次第

どれだけ本気か?によっても行動は変わる。

私は、股関節痛の治療中なのだが、その原因が骨盤後傾にあり、骨盤を立てる姿勢にすることが必要、と言われてきた。

ウォーキングより、座り姿勢が重要だ、とも。

知識としては知っていたが、私は本気ではなかった。

なぜ本気にならないのか?

それには意識に明確な原因がある。

どんな場合も、以下のいずれかに当てはまるのではないか?

①自分は変われないとどこかで思っている。(という意識がある。)

②ほんとはそんなに困ってないから変わらなくてもいいとどこかで思っている。(という意識がある。)

③この程度やってれば変われる、とどこかで思っている。(という意識がある。)

④変わるにはこのやり方ではない、とどこかで思っている。(という意識がある。)

私の場合は、③と④だった。

前回記事で書いたのだが、いろいろなものとつながってようやく気づいた。

このままではまずい!

このやり方はすごく大切でもっとしっかりやらないと変わりはしない、と。

やっと意識が高くなった。

本気になった。

人生フレーム、社会フレーム、人間(自分)フレーム

私の意識は、身体の意識の話から、それ以外のいろんな意識につながっていく。

人それぞれが、日々どういう意識で生きているのか?あるいは生きていくべきなのか?

思えば、生きる上で必要な概念的な意識(メタ意識)について、学校教育にもなかったし、なかなか共有する機会もないように思う。

例えば、

人生は幸せなのか?不幸せなのか?

世の中は優しいのか?冷たいのか?

自分を好きで生きているのか?嫌いで生きているのか?

自分に可能性を感じるのか?感じないのか?

人生は好きなことをすればいいと思っているのか?好きなことは抑えないといけないと思っているのか?

人(あるいは社会)が信頼できると思っているのか?信頼できないと思っているのか?

などなど。

好きか嫌いかは、全てを好きとか、全てが嫌いとかいうどっちかだけの人はいないとは思うのだが、

どっちを多く感じているのか?で人は大きく異なる。

フレーム、それは、人生の眺め方、社会の眺め方、人間(自分)の眺め方、というか、意識の置き方というのか。

自分フレームでいうと、例えば、自分が物知りだと思うのか?無知だと思うのか?

最初に紹介したように自分の身体のことすらよくわかっていない。

そして、発見が日々ある。

ということは無知である、と言わざるを得ない。

若い頃は何か頂上なるものがあり、頂上目指して周りと競っている感覚があったので、無知が発覚すると頂上が遠のき、完璧にしないといけないと焦り、また、自分の無能さに落ち込んだりする繰り返しだった。

だが、今となっては頂上なんて存在しない(高みはもちろんあるが)し、「ゴール」もないことがわかってくる。

ゴールもそうだし、「完璧」なこともない、ということがわかってくる。

だからゴールや完璧というものと自分との距離を測ることはできない。

生きるということは、その結果に意味があるのではなく、過程に意味があるという感覚になっている。

無知であるという意識で生きることは、決して後ろ向きなことではなく、前向きなことだと今は思える。

無知を認識した時に、世の中の自分がまだ認識できていない、限りない叡智の存在が立ち現れ、その叡智に期待することができる。

無知の認識は人を謙虚にする」と言う。

謙虚は人の話を聞いたり、従順になったりする面もあるが、それよりももっと知ろうという意欲が出ることが大きい。

その意識が人生を変えるのだ。

そして「なるほど!」と日々思って生きること自体が幸せなことでもある。

新意識高い系とは

意識は自分を変え、見える世界を変える。

これはよく聞くようになった言葉だ。

新意識高い系とは、社会フレーム、人生フレーム、人間(自分)フレーム、これらの概念についてある意識を持っていること。

「究極の身体」の著者高岡氏は、もっている本来の人間の究極の身体に比較すると、トップアスリートですら、わずかな部分しか身体をうまく使えていない、という。

「高みがまだまだある」という意味で、現時点の居場所の低さであり、自分が見上げる目線の先の高さ=意識の高さ、である。

低い位置にいることの自覚は、高みの存在を同時に認識している、ということになる。

そして、その高みはいずれは実現できるという信頼が、そこにはある。(人間フレーム)

これは社会の可能性に期待できていることの現れでもある。(社会フレーム)

新意識高い系

(人間フレーム)

自分が無知であると意識していて、好奇心を持っている。

(社会フレーム)

 社会には叡智が無限にあり、それをひとつひとつ発見(実現)できる、と意識している。(確信している。)

(人生フレーム)

 人生にゴールはなく、プロセス自体が生きること、と意識している。

世の中に隠れている宝箱を目をキラキラさせて探しているような感覚。

宝を探すことに、あるいは、謎を解くことにワクワクして、ずーっと飽きることがない。

自分の知っていることに興味を持つのではなく、自分の無知なことに興味を持ち続ける。

新しい何かを探し当てたことにより、意識が変わり、人生が変わり、その連続で人生が輝き続ける。

同時に、その尽きない興味で夢中で探究し続けること、そのものが楽しくてまた、ずーっと人生は輝き続ける。

こんな「新意識高い系」はどうだろうか?

Photo by Jakob Owens on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

腸腰筋を鍛えるトレーニングは、ネットなどでもいろいろ紹介されてますが、どれも同時に大腿四頭筋も使うものなので、偏ってしまった私は、注意しながらスイッチを試みてます。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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