RYO SASAKI

「自分の人生を生きる」ってことにチャレンジする。

自分は、「自分の人生を生きてきた」のだろうか?

そんな疑問が生まれた。

そのキッカケは「精神科医 泉谷閑示氏」の本だった。

そして、この本は自分の中にいつからか芽生えた違和感を見事に言葉にしてくれていて、驚くほど共感できるものだった。

生きるについての疑問

生きる意味について、考える時間ができた。

今の自分から見ると、若い頃は「苦痛なく生活していくためのお金」を稼ぐことが目標であり、生きる意味だったように思う。

人並みの快楽、できれば少し美味しいもの、少し広い家、少しいい車くらいの。

3年後の計画も野望もなく、ある程度を稼ぐという目標のために自分を売って流されて生きていると言っても過言ではなかったのではないか、と。

自己実現や社会貢献を唱ってはいたものの、根底にあるものは生活するためだった。

自分は、「自分の人生を生きてきた」のだろうか?

ここでいう「自分の人生」とは何のことなのか?

大学を選ぶのも、就職先を選ぶのも、自分の選択で行ってきた。

どこに住むのかもどんな車を所有するのかも自分で選択してきた。

これを「自分の人生」と言わずして、一体何を「自分の人生」と言うのか?

どんな生き方でも結果的に歩んできた人生が「自分の人生」なのではないか?

逆に、「自分の人生を生きる」必要なんてあるのか?

自分の人生を生きなくても、幸せな人生であればそれでいいのではないだろうか?

自分の中で反芻し始めた。

まずは固定観念を疑う

教育というものには、「人は無知であるからこそ、外にある叡智を取り入れて生きなければいけない」という前提がある。

外にある叡智、テストでいうところの”正解”なるものをたくさん記憶することをやってきた。

有効な知識は外にあり、それを全く白紙の自分に書き入れていくようなことを繰り返してきた。

世の中でいう”正解”を知っていればそれで評価され、幸せになる、というようなレールの上を歩いてきた。

自分に芽生えた違和感の正体は何か?

自分という空っぽの箱に知識を詰め込むことによって、自分に固定観念が生まれ、それによって固定観念に縛られて、人生のバランスが歪められているのではないのか?

このことが、違和感を説明する突破口となった。

(知識ー後天性 vs 感覚ー先天性)

ここから固定観念を確認するために二項対立(〇 vs 〇)の表記をして進める。

この本には、いくつかの根本的とも言える固定観念の例が上げられている。

(アリ vs キリギリス)

来たる冬を予想して、夏の間に努力を惜しまずに働くアリが偉い。

怠け者のキリギリスはいけない。

この一律の刷り込みが幼い子供に対して行われた。

「働かざる者食うべからず」

という労働観というか、人生の教訓。

また、アウシュビッツの門にある「働けば自由になる」という看板は、人間を奴隷としてうまく使うための支配の言葉であった。

参照:「働けば自由になれる」?:アウシュヴィッツ訪問記その2

確かに、支配者にとっては従順で文句ひとつも言わずに真面目に働く奴隷が重宝だ。

人間はなぜ働かなくてはならないのか?

「人間というものは、然るべき強制や方向付けが為されなければロクなものになりはしない」

という性悪説のような人間観がベースにある。

また、「快楽は悪であり、苦痛を堪え忍ぶことが善である。」

という教訓なども。

はたして本当にそうなのだろうか?

この性悪説の起源を見ると、紀元前に遡り、中国の筍子や老子あるいは、キリスト教の原罪に行きつく。

人間は罪深いのだから、修正していかないといけないという価値観が長く受け継がれている。

この共通の観念をまずは疑ってみることで、人が解放される一歩になるのではないだろうか?

(心象 vs 物象)

心象とは文字通り心に映る(浮かぶ)もの。

対して、物象は外に見えるもの。

心象=主観、物象=客観とも言える。

我々は、主観というものは感情的でもあり、感情的になると人は間違うから、感情的は悪者。

だから、客観的に見るように指示され、客観視を訓練してきた。

ところでこの”客観”とは誰の視線なのだろうか?

周りの多数決なのだろうか?

周りとはどこのことなのか?

“客観”が正しいのだろうか?

“主観”を無視して、「正しい?”客観”」に追随し続ける生き方でいいのだろうか?

ここも大いに疑ってみていいものだと思う。

(わかりやすい vs わかりにくい)

情報量が格段に増えた現代において、見てもらうために「わかりやすさ」が大切になっているという。

始めの数秒で視聴者をつかまないと次の情報に逃げられてしまう。

J-POPはイントロなしでいきなり歌から入る曲が増え、ドラマの冒頭の主題曲をサビまで流すことすら、ありえないことになった。

本も一冊なんてとても読んでもらえない。

本の要約動画がアップされるようになった。

書籍『わかりやすさの罪』でもこのわかりやすさの危険性を紹介している。

映画の広告のフレーズに『4回泣けます』というものがある。

ご丁寧であり、わかりやすいが、これに対して「何回泣くかは私の勝手でしょ!?」という批判がある。

短い言葉で短時間に、周りがこうだということを何も考えずに鵜呑みにするだけで自分が納得するとは思えない。

自分で考えたり、感じることは不要なはずがない。

このことに疑問を持たない人は多いのだろうか?

泉谷氏は「社会の離乳食化」という言葉を使っている。

これは、かみ砕かないと理解できない大人が蔓延する社会のことだ。

わかりやすさを追求してそればかりになるとかみ砕けない大人ばかりになる。

言葉は便利だが、誰かが簡潔にまとめた瞬間に要約者の意図が入り、情報は偏る。

わかりやすさは大人を考えなくすると同時に、一律でシンプルな価値観を植え付け、人の偏りを助長する面がある。

「わかりやすさ」すらも疑うに足るものなのだと思う。

(学説 肯定 vs 否定)

例えば、マズローの欲求5段階

①生理的欲求

②安全の欲求

③社会的欲求

④承認欲求

⑤自己実現の欲求

この説にも私はいつからか違和感を持つようになった。

本当にこの順番なのだろうか?

みんなが一律に段階⑤までに段階的にスライドしていくものなのか?

泉谷氏は、この順番をたどる人もいるが、最初から⑤自己実現を欲求している人もいるという解釈だ。

これに自分は、現実を説明しているし、肯定する部分と否定する部分の両面があり、バランスがいいと感じた。

学ぶことで、こういう偉い先生の説を知る。

そのことで何か圧倒されるようなところがある。

そこに違和感があるのだが、「自分ごときが・・・」と思ったり、「生活に関係ない」としてそれに蓋をしてやり過ごす。

また、このような思考モデルができるとそのモデルが正解だという硬直が頭に起こる。

こうして固定観念が生まれる。

(ハングリーモチベーション vs 生きる意味モチベーション)

昭和世代は、一般的に今よりも物質的に豊かではなく、あれが欲しい、これが欲しいというハングリーさがあった。

これを泉谷氏は「ハングリーモチベーション」とネーミングした。

これに対して最近の若い人には、そのような欲がないという。

その理由は、

時代が物質的に豊かになったからかもしれないし、「ハングリーモチベーション」で生きてきた親を見てきた子供が「ああはなりたくない」と思ったからなのかもしれない。

泉谷氏は精神科医としてクライアントをたくさん見てきた。

その経験から、最近の若い人に対して、自分なりの生きる意味を見つけないとモチベーションが起こらない、と言っている。

昭和世代は生きる意味なんて考えなかったから、若い世代とモチベーションが全く異なる。

なので、若い世代に対して昭和世代の成功?体験だけのアドバイスは空回りする。

このことは、我々古い世代の生態に対して非常に的を射ているように感じる。

皆さんは、ここまでのいくつかの例をどう感じるだろうか?

親の口癖、道徳、学校の本、宗教、学説、格言、更には自分の体験に至るまで、出会ったことすべては、我々に固定観念を発生させている、と自分は感じる。

もちろん何かを信じてそれに寄り添うのもひとつの生き方なのだが、自分はその生き方にバランスの悪さを感じ、そうでない可能性を探りたいという衝動が湧いてくる。

自分の中の固定観念を発見できると、非常にスッキリする。

個人主義 vs 奴隷

日本はムラ社会という環境が長く、ある集団の秩序のために生きている面が強い。

ある集団とは、家族であったり、企業であったり、”世間”といった漠然としたものでもある。

集団に所属すると集団の都合、常識、ルールなどに合わせて生きることになる。

そのことで、時に同調圧力といった強制力を感じ、生きづらさが起こる。

「普通こうだよね」

「あれはおかしいよね」

・・・

日本語の0人称の特徴はよく言われる。

多くの言葉に主語がない。

上記で言えば、

「私から言わせればこうだ。」

「私はおかしいと感じる。」

のように1人称にならない。

個人の意見ではなく、外にある常識を代弁しているような感じになる。

日本人は自分(個人)の意見を持たない。(表明しない)

日本人は個人主義にまでも至っていないという。

夏目漱石の「私の個人主義」

個人主義という言葉は、利己主義、自分勝手などというイメージがあるが、そうではない。

個人が周りに依存することなく、チャンと1人で立っていることである。

社会の法律やルールについて、そこに法律やルールがあるから、押し付けられて遵守する、のでは外から与えられたものに依存している状態にあると自分は思う。

法律やルールは自分で納得して、自分の意志からそれらを遵守される社会を望んで、自分から遵守したいと思って、遵守することが1人で立つことであり、個人主義であると思う。

また、意見の違う個人同士がそれぞれの意見を議論させても和を作っていける個人であること。

ところが、日本人は自分の意見を持たず、自分の所属する集団に反対する集団をただけなし、議論というものもチャンとできない、という状態にある。

みんなと和していくことが美徳のように言われるが、別の見方をすると集団を隠れ蓑として紛れ、責任を持たない幼児のような存在であるとも言える。

和することが人生の目的になり、社会に適用させるためにだけ人生を浪費するように見える。

とにかく和してうまく生きることこそが、正しい大人の姿なのだと。

ニーチェの「ツァラトゥストラ はかく語りき」の三様の変化。(駱駝・獅子・小児)

若い頃に読んだのだが、何のことかわからなかった。

「どうせ、昔の余裕のある人が考えたことだろう?」

「俺は違う、給料をもらわないといけないから俺にはできない。」

というような感想だったかもしれない。

三様の変化は、人間の成熟を段階で示しているもので、

・駱駝 → 従順さ、忍耐、努力、勤勉な状態。

・獅子 → 「我欲す」となり自分の居場所や主体性(1人称)を獲得した状態。

(ここが個人主義に重なる)

・小児 → 我が消えて、「すべてはあるがままに」創造的な遊びに没頭する状態。

今になって、やっとこの意味がわかるようになった。

付和雷同して集団の中に生きる日本人の多くは、駱駝のままで終わる。

無我の境地などと言うが、駱駝から1回獅子を経験しないと無我境地=小児になることはできない。

日本人は自分=1人称にもまだなっていないのだ。

日本人は、自己愛と謙譲の美徳の取り違えもしている。

でしゃばらないことと自分がないことが混同されていて、でしゃばらない自分を謙虚ですごいことだとどこか自画自賛しているところがある。

あるいは、「自分なんか・・・」と卑下して相手との間に自分で勝手に階級を構築してしまう。

やり玉に上げられることを恐れ、ちゃんと議論することもできず、いさかいを避けてみんなで何となくぬるま湯の中に生きる。

しっかりした自分がないから、支配者にとってはまことにコントロールしやすい。

そうやって駱駝で終わるのであれば、我々は牢獄の中の住人、奴隷である。

本当はがんじがらめなのだが、そこを平和の地と思って疑わないままの腰抜けな人生である。

これは言い過ぎに思われるかもしれないが、自分に対してはこのくらい言った方がいいのだ、と今は思っている。

人はもちろん自分をもっていて、1人称で生きていると思っている。

自分もそうだったのだが、どうもそうではないことがわかってきた。

SNSで投稿する時なども自動的に世間の目を気にしている。

このように記事を書く時も完全に自由には書けない。

(できるだけ自由に書こうとはしているのだが・・・)

世間の常識が沁みつき、学校で言われたことを真に受ける。

人と和さないと不安であり、人と揉めることに恐怖を感じる。

一度揉め事の種になると周りから総スカンを食らう。

人は周りから簡単に影響を受けるものだ。

また、人が何者かになった(所属した)瞬間に、その何者かを正当化して守ることがついて回る。

自由な発想への束縛があっと言う間に起きる。

また、人は何者かになろうとした時にも、自由を奪われる。

その「何者かにふさわしくないこと」はできなくなる。

どこかで、「自分の心がこうしたい」と思うことではないことをしないといけなくなる。

大人は忖度できれば評価されるから、なおさら世間への忖度が沁みついて離れない。

忖度は、自分の抑圧によって行われるものだから、忖度する人生は、自分の本来の創造力をも抑圧して生きることになる。

敢えて、これだけ厳しく自分のネガティブな面を認識できないと牢獄から抜け出せないように思う。

自分の人生を生きる

「自分の人生を生きる」とは、自分の中の思いを大切にして生きることである。

人間の中には、頭と心(身体)があって、”頭”と”心”の分離と”頭”の暴走が現代人の問題であると泉谷氏はいう。

合理的、価値、常識、お金、嫉妬などは”頭”によって計算によって作り上げるものであり、その”頭”で生み出される正解、成功では”心”が満足しないようにできている。

正解や成功は自分の外にあるもので、これだけを求めると自分の”心”からかけ離れたものになる。

これがうつの原因になる。

世の中は、価値がある、お金に換金できるという正解や成功だけを求めるようになってしまっているのがまた、やっかいなところだ。

心で思うことには、世の中でいう価値とは別だから、人は”心”を塞いで”頭”だけで生きるようになる。

それは外にある評価基準に依存する”心”を失ったロボットのような生き方である。

人であるならば、”頭”を主人にするのではなく、”心”を主人にして”頭”を家来として使わないと満たされない。

人生で現れる解決するべき”問題”について。

これも、多くは頭が作り出した”問題”であって、自分の外にある。

解決するどころか、そもそも問題すらない場合がある。

放っておいてもまったく問題がないものもある。

その問題はホントに”心”が解決したい問題なのか?一旦疑ってみる必要がある。

また、努力とは、「~ねばならないもの」をがんばることで、頭が主導するものだ。

これに対して、心が主導するもの、心がやりたいもの、これは”熱中”という言葉がふさわしい。

努力ではなく、熱中して生きる。

結局、「熱中して心が長く満たされ続けることが幸せな人生である」というところにたどりつく。

そのためには、湧き上がる思いが、心の叫びなのか頭の叫びなのかの判断が必要になる。

外にある情報を入れないのではなく、情報を真に受けない、情報との距離をおく。

その情報に対して心がどう思うのか?納得いくかいかないかをチャンと感じる。

ハッキリと説明できないとしても、その違和感を大切にして生きる。

自分の感覚を何よりも優先させて、情報に対して自分なりの解釈をもつ。

客観的に見たら自分は頑固だと思うかもしれないが、それも”頭”の所作なだけなので無視する。

他と比較する客観性も自分を牢獄に縛りつける材料なだけだ。

親がそう言ったから、教科書に書いてあるから、老子がそう言ったから、イエスがそう言ったから、世間が騒ぐから、に左右されずにすべてを一旦疑って自分で見る。

そして、嫌なことは極力しない。

嫌なことには自分の中に何かの意味がある。

基準を外から決めさせない。

基準が外にある限り、ずっーと外にある基準を追っかける人生になる。

自分の心の基準で判断する。(自分の頭の基準ではない)

自分が出来が悪いと思っても、トンチンカンだと思っても(これもあなたの頭=外の誰かが決めたこと)自分の思いを大切にして生きる。

人は、何かになるために、未来のために生きるのではなく、瞬間瞬間の自分を大切に今を生きる。

自由に生きるということはそういうことであって、それが自分の人生を生きることであり、その瞬間瞬間の積み重ね自体が幸せそのものなのだと思う。

「自分の人生を生きる」ことは、周りとの軋轢も起こるだろうし、世間の評価や自分の固定観念との静かではあるが激しい戦いであるから、かなり難しいことだ。

自分の中にある思いが、心からくるものなのか?頭からくるものなのか?区別することもまた難しい。

「自分の人生を生きる」人をたまに見かけるのだが、その人たちは飢えへの恐れがない。

食べるよりもしたいことが上回り、目がキラキラしている。

この恐れないということも難しい人には非常に難しい。

これらのことからも「自分の人生を生きる」ということは、非常に崇高なことなのだと思う。

自分は、世間や常識が沁みつき過ぎていて、もう色落ちもしないくらいに長らく生きてきてしまったかもしれない。

それでも明確になった今、遅ればせながらこの崇高な生き方にチャレンジしていく。

<参考書籍>

created by Rinker
青灯社
oshinworld-22

Photo by Aziz Acharki on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

教育や労働や和や努力は不要というつもりのものではありません。

これから自分のピュアな心をどれだけ発見できるか?楽しみです。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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