RYO SASAKI

矛盾する2つの視点を自分に共存させて生きる。

現代の人間社会というものをどのように捉えて生きていくのがいいのか?

これについて、群れ、群集心理、絡合などに焦点を当てて未来を予想して考えてみたい。

みんな幸せに生きたいと思っているはずだ

以前書いた記事では、人間を生物学的に捉えることで、人間のいろいろな行動を理解してきたつもりだ。

すべては生きながらえるため。

なぜ、人は人を許せないのか?(そして傷つけ合うー正義中毒)

なぜ、人は人を瞬時に判断するのか?(そして判断を間違うー確証バイアス)

なぜ、人は組織の方針の言いなりになるのか?(そして自分を犠牲にするー付和雷同)

これらの疑問についての解答は「すべては自分が生き流れらえるための判断(能力)である」というものだった。

では、逆に、

人をすべて許せるようになればいいか?

瞬時の判断をなくせばいいか?

組織の方針のいいなりにならないようになればいいのか?

と問うてみると、そう、とは言い切れない。

場面や行き過ぎの度合によっていろいろな問題が起こっているだけで、必要な時にはまま残しておきたい能力だと思う。

厄介なことに、場面場面によって、程度を調整する必要があり、微妙なラインを目指さなければ人間自身が納得しない非常にデリケートなもののようだ。

書籍『群集心理』

created by Rinker
¥1,100 (2021/10/26 17:25:05時点 Amazon調べ-詳細)
oshinworld-22

は、「群集心理は精神の未熟ゆえのもの」などと激しく警告している本なのだが、群衆心理、付和雷同なども、同様に生物学的に説明できる。

群衆はよりよい生活を求めて(生きながらえようとして)市民運動を起こし、時に過激になる。

著者ギュスターヴ・ル・ボンの批判は理解できるところもあるが、精神の未熟な人がいない社会を、どうやったら実現することができるのか?と疑問に思ってしまう。

例えば、フランス革命などは襲撃から始まり、王族が処刑され新しい体制に変わった。

そこに群集心理の付和雷同も存在していたとは思うが、この群衆心理をすべて悪い、とは言えないはずだ。

いずれにしてもそれによって歴史が動いた。

明治の思想家の大杉栄は、

「自発的な奴隷は人間の脳髄に組み込まれたものであって、人間は生物学的にそうなる性質を有している。」

という。

今の時代は、物理的で明確な奴隷はなくなっているが、心理的奴隷は存在していると言われる。

長いものに巻かれる、ということもよく起きることだ。

奴隷という言葉の印象は悪いが、これも、楽に長く生きるためにベターだという判断をする、DNAが刻み込まれているから、と言われれば違和感はないし、それが生きながらえるために必要な能力のひとつだという理解もできる。

(暴力による強制奴隷のことではなく、意識しづらい心理的奴隷のこと。)

一方には、人には統制すべきという主張=正義がある。

法を守ること、ルールを守ること、マナーを守ること、平和に社会が回るために統制されるべきことがたくさんある。

統制のために、同調圧力などが起こるのだが、統制することも組織全体が、そして、その中にいる自分自身が生きながらえるためにそれを行っている、はずである。

人それぞれの才能は別々だから、統制する側を選択するか?統制に協調する側に回るか?フィットする方を選ぶわけだが、ほとんどの人が、自分(自分の家族や近い人々など)が平和に生きながらえるために、主張をもって判断をして動いている。

宗教間の争いも、思想間の争いも、最近の様々な分断もそれぞれが、自らが生きながらえるための能力をもって起こったものである。

昔も今も形を変えて、幸せに生きるための争いは続いている。

多くの人は、自分の身に危険があることを望まないのだが、だからと言って、全く争わない平和社会は実現するのだろうか?

それぞれの生きながらえるための争いは、どこかでなくなるものなのだろうか?

絡合

絡合の意味は、

ー互いにからむこと。もつれ合うこと、また、物事の関係し合っている具合。

例えば、イワシの群れできて、時に一糸乱れずに急な方向転換をするのだが、その時どのイワシのどんな号令で方向転換しているのだろうか?

イワシの身体の、頭から尾にかけてある1本の線「側線」は水流の圧を感知して、ぶつからないようにして、仲間を感知しているらしいが、どういうキッカケで群れ始めるのだろうか?

その詳細はわかっていない。

この見えない何かによって関係しあって、規則的な行動が起きる(統制される)ようなこと、これが絡合のひとつの例のようだ。

群れをなす目的はちゃんとあって、群れ全体で相手を威嚇できて、大きな魚から食べられてしまうことを避けるようにしている、という。

参照:こんなにうじゃうじゃいるのはなぜ? 野生動物が群れる理由とは

ここにも生きながらえるための力が働いている。

人間社会に照らし合わせてみると、組織をつくって協力することも、ルールを作って統制しようとすることも、他の思想を攻撃することも、組織の言いなりになることも、群衆心理も、このイワシの群れをつくることと同類に見える。

これらはイワシより複雑ではあるのだが、人間にもこのような絡合が存在していても不思議はない。

イワシの群れができるのは、イワシ一匹一匹の意志によるものなのか?

イワシ一匹が、周りのイワシに影響を受けるからなのか?

細かいしくみがどちらであっても、結果的にイワシの群が一つの生命体のように見える。

人間社会は一つの生命体として動いているように見えるだろうか?

一つの方向に向かう時もないではないが、常に分断して争っているように見える。

人間は自分の意志だけで、動けているのだろうか?

無意識の見えない力、例えば集合意識のようなものはどこまで働いているのだろうか?

絡合は働いているのだろうが、その程度はものすごく大きいようには私には感じられないのだが、どうだろうか?

みなさんはシンクロニシティーなど、見えない力を感じたことはあるだろうか?

人間という種は個性をもつように特徴が分かれていく。

これは、同じ性質だと環境適応ができずに絶滅する可能性があるから、多様性をもつ選択をしている、ということになる。

この特徴が分かれていくことは、見えない力(絡合)のひとつではないかと私は思ったりもする。

人間社会をこのように見る

ここからは、ここまでの内容を踏まえて、私なりの人間社会の見方を書いてみたい。

前提として、人間の数に対して資源(食べ物など)が不足すれば、奪い合いが起こり、殺し合いが起こる、という、物理的・生物的にみた必然を上げておきたい。

人口増に資源の供給増が追いつかない、という状況も想定される。

そうなった場合には、法的にNGと言われても我慢には限界があるものだ。

歴史を遡って見ると、貧富の差が大きくなることが、争いの原因になっていたりする。

次に、情報量が増えることで、人間の知識や考え方の差が拡がり、人間のもつ多様性に拍車がかかっていく。

人間が別の思想を持ちやすく、意見の食い違いが起こりやすくなるということだ。

現代の情報は多様性によって生きながらえようとする種に加担しているように感じる。

更なる多様性、これが未来の傾向であるように思う。

以下は、ここまで書いてきた人間の特徴や物理的必然についてのポイント。

①みんな自分が幸せに生きようと思い、争う。

②足りなくなれば奪い合い、殺し合う。

③種をつなぐための、人間の多様性が広がる。

これら3つのことから類推されるのは、未来において人間の争いはなくならない、むしろ、激しくなる方向なのだ、ということだ。

この3つは、実にどれも人間が生きながらえるための動きである。

人間が生きながらえるために争いが必要ということになる。

人間の人数が少ない時代、あるいは、少数の団体を考えた場合、その中では助け合って生き延びようとするだろう。

助け合うベクトルも人間はもっているのだが、とらえられないくらいの多数になった場合、逆のベクトルが働きやすいようだ。

飽和すると、争って人口減少に導かれる、これは一種のスタビリティー(安全装置、復元装置)が働くかのようにも見える。

これを人間の絡合とも言えるだろうか。

私たち個人にとって、争い自体が避けたいことであって、ましてや、それによって命を奪われる、なんてことは、不幸そのものであり、一番避けたいことでもある。

その避けがたい不幸が、皮肉にも生きながらえようとすることによって生み出される。

構造的に見るとこのパラドックスが存在する。

我々個人の集合体が人間社会のはずだが、まるで、個人と全体が全く別の意図で動いているようだ。

人間をマクロ的に見た時と、ミクロ(個人)で見た時で景色が変わる。

個人は多様性に拡がり、人間全体は生き延びる可能性が高まるが、多様な特徴で生まれた個人がすべて生き残るわけではない。

各個人は、捨石、犠牲になる役割をもって生まれてきているようにも感じる。

これはアポトーシスに似ている。

アポトーシス:生物の体全体を助けるためのひとつの細胞が自殺する行為。

個人は、全人間という生命体の中の細胞のひとつのようにも見える。

2つの視点で捉える

まず、自分の中に確かにあるひとつの視点は、生きながらえようとする自我をもった個人の視点である。

これは多くの人が普段考えている普通の視点だと思う。

もう一つは、人間社会全体を眺めるマクロ的視点。

そのマクロ的視点には、自我がなく、「神の視点」など、宗教家の言うものと近いだろうか?

自我をなくして、悟った人というのは、こういう視点なのだろうか?

ところで、マクロ的な視点で眺めることに何の意味があるだろうか?

・「未来は争いが多くなる」という予想によって、生きる勇気が削がれるだけではないか?

・犠牲となるための個人として生まれてきたというものは、無力感を感じるだけではないか?

・構造を理由に、打開策を考えずに、自分や世界の未来をあきらめているだけではないか?

しかし、あきらめることに意義はあると私は思う。

人にはできることとできないことがある。

したいことはどこまでの広げることができるのが人間の空想力でもある。

したいことはどこまでも広がる。

人ができることは自分もやりたくなる。

一方、自分のできることは限られる。

人にできて自分にできないことがあるように産み落とされることが、種が生き延びるための人と人の違いになる。

人には、それぞれ役割がある。

あきらめによって、無理なことをやりとげなければならない、という苦しみから解放される。

運命に身をゆだねる感覚で楽に生きる人もいるだろう。

人生はあきらめから始まる、と言ってもいい。

夢破れて、自分のできることを探し始める。

物心がついた頃からその旅が始まる。

自分で様々なものをコントロールすることも喜びであるのだ、コントロールできないものがたくさんある。

いくら気を付けていても、天変地異、事故、人間の争いにより、不幸にも命を落とすことがある。

ちなみに、人生で個人がする様々な選択は、正解か不正解がまたわからない。

成功と思った後に、しっぺ返しが来たり、失敗だと思った経験がその後の人生の役に立ったり・・・。

ただ、選択が分かれてさえいれば、人間全体として種の寿命が延びるということなる。

極論すると今、起こっている世界の対立にも、どちらが正解ということはない。

種が生き延びさえすれば、正解も不正解もない、ということになる。

これも神の視点ということになるのだろうか?

もちろん、個人は対立のどこかに組み込まれ、血を流すこともあるだろうが、種全体はそのことに興味がない。

耐性がある種を探究するイベントがそこここで繰り広げられてるだけにすぎない。

この考え方は、人間社会に対して納得できるひとつの考え方でもある。

これらのことから、人生が楽になり、一方で不幸へ覚悟ができる面もあるのではないだろうか?

争いが大きくなる未来に対して、本腰を入れて向き合う覚悟もできる。

自分のコントロールできない様々な物事をあきらめて、出会うことを受け入れること。

同時に、自分のコントロールできること、自分の役割を推し進めること。

この矛盾する意志をもつ2つの視点を自分の中に共存させて生きる。

どちらが欠けても人生は難しくなるのではないだろうか?

人間は、絡合や無意識といった自分では意識できないことに影響されているところが大きいのかもしれない。

前向きに、受け入れることで人生がまた愉しめる。

私は今、そう思う。

Photo by Vincent van Zalinge on Unsplash

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

「ネガティブはポジティブを生み出し、無責任には責任が含まれている」

今回の記事を書いていて、この陰陽というかパラドックスというか、をまた感じた次第です。

以前に書いたこともありますが、陰陽をテーマにしたものをまたどこかで書いてみたいと思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

幅を愉しむwebメディア「RANGER」に対するご意見やご感想、お仕事のご相談など、お問い合わせからお気軽にご連絡ください。

最後まで読んでくださりありがとうございます。