RYO SASAKI

ぐうたらが今度は「きっちりする」を疑い、進化していく時代に抗う。

タナカ シンゴ

最近、映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』がTVで放送されていた。

この映画は2003年に公開された20年以上前のものだが、未だに実写邦画歴代興行収入第1位とのことだ。

当時はかなり人気だったのだろう。

私は見た記憶がなかったので、視聴してみることにした。

公開から20年以上経過した今、20年以上歳を重ねた私は何を感じるのだろうか?

その時間経過による変化に興味が湧いた。

内容は、警察組織の上層部と現場のギャップをテーマとしながら、いろいろなところに笑えるギミックが施されていて、娯楽作品として今でも楽しめるものだった。

その中で私にとって一番印象的だったのは、時代は『きっちり』する方向に進んでいるんだ、というような感覚だった。

そして、このことが『きっちり』する、ということがどういうことなのか?考えてみるキッカケになった。

映画に感じられた違和感

映画の中の違和感を三つほど上げてみる。

日々の変化は気づかないものだが、数十年経過したものは積み重ねによって変化が鮮明になって違和感として現れる。

まず、

・どう見ても好青年である青島刑事(俳優:織田裕二)があちこちでタバコを吸っていること。

→時を経て、私の中でタバコのことがずいぶん悪者になってしまったものだ。

次に、

・ゆるゆるなところ(=悪く言うと荒唐無稽なところ)が非常に多いこと。

→例えば、湾岸署(舞台となる架空の警察署)のセキュリティが甘くて出入り自由なところ。

今ならば、あり得ない、と感じる。

もちろん娯楽映画には、ファンタジーが不可欠で、それを荒唐無稽だと言ってしまえば、どの映画もそうなのだが・・・。

これは今のドラマの方は、いかに娯楽と言えどもリアリティーによるシリアスさを演出するようになっているから逆に感じるものなのだろう。

今の娯楽映画と何か違う荒唐無稽さが全体からにじみ出るような・・・。

それは「どこかピュアで呑気で脳天気で微笑ましい」というような感覚だ。

当時と言えばバブル後まだ日が浅い頃。

この感覚はこの映画特有のものというよりは、この頃の時代というものが映画からにじみ出たものなのではないだろうか?

あまりにも実生活と解離して脳天気なものだと歴史映画としては面白いが、娯楽映画としては浸れない、というところなんだろう。

もう一つは、

・人物が葛藤している無言のシーンにしっかりと時間を割いていること。

→無言のシーンを待っていられない自分に気づき、逆に今のドラマではそこが短くされていることに気づく。

最近の若者はドラマを倍速にして見るというから、今の時代は時短が加速しているということなのだろう。

時代が進む方向

これまでのことから浮かんできたのが、時代の進む方向、という言葉だ。

「悪い」と言われるものが根絶されていく、という方向。

タバコは隅に追いやられ、無駄な時間(ロス)は除去される。

世の中はタイパ、タイパと騒ぐ。

無駄な時間とは、例えば人が葛藤している時間(=悩んでいる時間、それは人が決断できないでいる時間)で、ドラマを見たと言うためならば、何も展開してない無意味な時間となる。

このような進化の過程は、一般的なのだろうから、当たり前と言えば当たり前。

その進化のイメージは『ゆるゆる』から『きっちり』に進むと言ったらいいか・・・。

この映画の「どこかピュアで呑気、脳天気で微笑ましい」という感覚は、以前読んだ江戸時代の生活を書いた本にも類似していたことを思い出す。

どうやら、この感覚はいつの時代でも過去を振り返った時に、共通に感じるもののようだ。

過去を振り返るとそこには現在から見ると必ず無知を感じ、その無知さをピュアで呑気だと感じる。

時代はその無知さを知識で埋めて、のんびりしている時間を知恵で埋めて、ゆるゆる状態が密になってきっちりしていく。

こんな風にしながら時代は賢しくなるのだろう。

『きっちり』はいいことなのか?

時代とともに進化しているにもかかわらず、ピュアで呑気、脳天気な過去にどこか羨ましさを感じるのはなぜだろうか?

その羨ましさは、単なるノスタルジーから来ているものではない。

そう感じるのは『きっちり』よりも『ゆるゆる』の方が身体にあっているからではないだろうか?

つまり今身体は、『きっちり』するために四六時中頑張っているのだ。

例えば、野生の動物は1日2~3時間しか働かないと聞く。

ならば同じ生き物として、人間は働き過ぎなのである。笑。

こんな風に思うのは私の性根がぐうたらだからなのだろう。

ぐうたらついでに更にぐうたらに都合のいいように『きっちり』を疑ってみる。

時代がこれからもドンドン『きっちり』方向に進むと・・・

人は『きっちり』するべきである、という常識が出来上がり、みんなきっちりしないとならなくなる。

人はするべき『きっちり』に追われて忙しくなり、『きっちり』の中には、スキルを習熟しないと成り行きではできないレベルのものがあるからさらには習熟に忙しくなる。

若者は既に勝手に決められている『きっちり』を押し付けられ、そうしたくない自分とのギャップに悩まされる。

『きっちり』のわかりやすいところでいうと、日本の電車時間が正確であるといったようなこと。

合理的で無駄がなく出来上がっている日本という国に外国人はかなり驚くんだそうだが・・・。

これまでの『きっちり』しておかないと、には生命が脅かされるなど我々の生活にクリティカルだから、といったものがあったんだろうが、これからの『きっちり』はより影響が小さいものが多くなるのではないか?

昔よりもメリットが薄まったとしても今は今の『きっちり』を欲し、欲したものを埋めることで経済が回るんだから、『きっちり』が過剰に進む。

そして、人はどっちが『きっちり』しているかで評価され、『きっちり』を競争させられる。

人はこうして『きっちり』するために忙しくなり、精神がさいなまれるのではないだろうか?

このことが、日本人の睡眠時間が減り続け、平均睡眠時間が世界でもっとも短いという調査結果や、交感神経優位状態、更には自殺者数の高さにも現れているように思うのだ。

『きっちり』する時代に抗う

何事も『きっちり』することは素晴らしいことである!

誰もがそういうだろう。

私もそう捉えていたのだが、これがまた私にある偏見だと気づく。

やはり万能なものなど存在はしない。

『きっちり』することの影の部分が見えたように思う。

過剰な『きっちり』は人間の本来から外れ、負荷がかかってしまう、ということだ。

では、これからも『きっちり』に進化していく社会で、どう生きるべきか?

『きっちり』をできるだけ減らすこと。

(  =『きっちり』するものを選ぶこと。)

時間を何かで埋める、など密にしないこと。

(=何もしない時間を作ること。)

もちろん社会で生活している以上、『きっちり』しないとならないものには対応しないとならないだろうから、上記を実現する落としどころは、

何も詰め込まず、『きっちり』していない『ゆるゆる』な時間をしっかり作ること。

これが『しっかり』する時代だからこそ、健康でいるために不可欠なことなのだという気がする。

そのために、私の場合、まずマスト(しなければならないこと)を最小限にしたい。

既に私のマストから外したものは、1日3食、年賀状、お中元、誕生日のお祝い、未読メッセージの開封、不用メールの削除、柔軟剤、リンス、こまめな洗濯、こまめなごみ捨て・・・。

上げてみて大したものがなくて自分にガッカリなのだが、まだまだ数だけはありそうだ。汗。

ともかく、『きっちり』することは人に負荷がかかる、ということを心にとめておいて、軽はずみに『きっちり』に飛び付かないように気をつけていきたいと思う。

こうしてみると、今回もまたなんとも、常識とは真逆の結論になってしまった。

こうして、ぐうたらは、ぐうたらな自分の態度を擁護しながら生き続けるのだ!

UnsplashAdrian Swancarが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

人と出会う毎に、お互いに自分を可能な範囲で「表現」した方がお互いが楽しくて、その方が死ぬ時にも後悔しないのだろう、という勘がはたらくようになりました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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