ずっと憧れてきた「人としての強さ」というものを獲得する方法
私には特に贔屓の女子プロゴルファーがいて、それは稲見萌寧選手、渋野日向子選手の2人である。
現在の主戦場をアメリカにしている渋野選手が、昨年に唯一帰国して参戦した試合があったので、迷いもなく現地に赴いた。
自分にこれほどの熱があるとは自分でも意外だった。
ずいぶん早い時間から練習場の一列目という好位置をキープして待っていると、そこにまず稲見選手がやってきて、私の真ん前で練習をスタートさせた。
その後に渋野選手が稲見選手の隣の打席に来て、私は真ん前でご贔屓の2人の練習を観ることができた。
打席総数が15くらいだったので、その確率は1/15打席✖1/14打席でなんと0.48%。
相変わらず私は運が強い!?
この強運に有頂天になったのだが、ただ感謝してすごせば幸せなものを、このツキが宝くじに回わってくれはしないものか?などということが頭をよぎってしまった。
これはよくあることで、自分という者は何と欲深いのだろうか?といつも思う。
調べてみると、宝くじで100万円以上の賞金が当たる確率は0.002055%。
とても届かないことがはっきりして、私は強運である、と思えなくなって私の有頂天は長続きしなかった。
ところで、なぜこの2人を応援したくなったのか?
共に実力のある人気選手であるが、他にも人気のあって魅力的な選手はたくさんいる。
また、2人の外見、性格、プレイスタイルにも特に似ているところが見当たらないように思うのだが・・・。
共通するところはすぐにわかった。
稲見選手は東京オリンピックで銀メダルを獲得、オリンピックのゴルフ競技で日本人初のメダリストに輝いた。
一方の渋野選手は、2019年全英女子オープンゴルフで優勝、42年ぶり日本人2人目の海外メジャー(世界の最高峰の四大タイトルのひとつ)制覇を成し遂げた、ということ。
私が応援する理由は、世界に通用するホントの強さにあった。
言っておくが、オリンピックや海外メジャー大会といった権威的なものに心酔するミーハーだからだ、とかは絶対に言われたくない。
それはともかく、確かに私は子供の頃から「強くならなければならない」と何度も吹き込まれ、それによって「強さ」というものにずーっと憧れ続けて生きてきたように思う。
憧れてきただけで、未だに自分の弱さに辟易するようなことが残念ながらあるのだが。
外に憧れるんではなくて、自分自身が強くなるというのはもはや手遅れなのだろうか?
2選手を贔屓する理由をあらためて確認したことで、そんな疑問が浮かんできた。
判官贔屓
強さに憧れがある自分だから、強い人が好き。
自分というものは、やはりそんな単純なものかと思ったのだが、必ずしもそれだけではないことに気づいた。
判官贔屓(弱い立場の者に対して同情して味方をし、援助すること。)という言葉がある。
渋野選手は、2019年賞金ランキング2位に入り、片や稲見選手は2020年ー21年シーズンに9勝を挙げて賞金女王を獲得するなど、2人とも手が付けられないほどの強さを示したのだったが、その後双方ともにスイング改造に取り組んたこともあり、以前よりはランキング上かなり失速してしまう。
今やホントに強いとは言いづらい2選手なのだが、ホントに強かった時よりも私の応援したい気持が強くなったのだ。
子供の頃、当時無敵だった横綱北の湖が全く好きになれずに他の力士を応援していたことを思い出す。
前言撤回のごとく、今度は弱い立場の2選手を応援するようになって、自分に判官贔屓が発動したように感じられた。
少し前のホントに強い時期の残像を引きずっていることもあるのだろうけれど・・・。
私の感覚はかように一貫性がなくてわがままで、強い人に憧れもあるが、弱い人が立ち向かう姿にグッときたりもするようなのだ。
強い人、弱い人
スポーツに限らず、社会では弱い立場の人を応援したり、弱い立場の人に悪いことは言わない(言えない)、弱い立場の人を貶めない、という不文律があって誰しもがそんな感覚を持っているのではないかと思う。
社会一般に言われる弱いものとしてわかりやすいのが、女性、子供、お年寄り。
一方の強いものは、男性、大人、若者。
更に強いものを広げてみると、権力がある(権威がある)もの、有名なもの、お金持ち、経営者、上司、大手企業・・・。
それに対応する弱いものに、貧乏人、従業員、部下、中小企業・・・というものがある。
男性が女性を「力が弱くてどうしようもない」などと批判しようものならばシャレになっていない、と周りから総スカンになる。
子供とガチで競争してしまって大人が勝ったりなんかすると、大人げないと批判の的にされる。
逆に政治家というものは、権力を持っているし、建て付け上は我々の代表ということになっているから、クソミソに批判されることが許されている最たる者だ。
有名人は強い者?というより、羨ましいものとしてみられてそこに嫉妬が発生しやすい。
同時に、影響力があるから言動に責任あると見なされて、非常に批判を受けやすい。
やはり、強い者にはなかなかの大変さがあるのだ。
それでも強い者に噛みつくという行為、それが許されるのは、世の中にある弱さと強さを安定化させる社会のスタビライザーであって、必要な機能であるように感じる。
このスタビライザーだけで、すべてが安定するとは言えないけど・・・。
弱い、強い
ところが、この機能にもまたいろいろと問題がある。
政治家に対してどこまでも汚ない言葉を浴びせていいのか?限度があるだろう。
また、有名人になってしまったことで、誹謗中傷にさらされて病んでしまう人もいる。
若者は多感で壊れやすいなどと言われるがあのエネルギーと無知が合わさった無謀な強さは、今の私にはなくなってしまっている。
女性というものは、腕力は男性に劣るものの、口では優っているし、長生きするし、女の勘?なるとても鋭いものも持っている。
にもかかわらず、ホントに女性は弱いという箱に一括りにしてしまってよいものだろうか?
男尊女卑の歴史がここまで女性を弱くしてしまっているだけで、この先女性の本当の強さが際立つようになって、逆に男性の方が弱いから、男性に対してはホントの悪いことを言うとシャレにならない、そう言ったような時代がやってくるのではないか?
イヤ、既にそんな家庭がたくさんあるのかもしれない。
私は先行して勝手にそんな危惧をし始めている。
それはともかく、強いと言われるのはその立場なだけであって、それとは別で本人自身が必ずしも強いとは言いきれない。
その逆も然りで、弱い立場にいる人でもその本人自体が弱いとも言いきれない。
また、貧乏に生まれると我慢強くて逆境に強いが、金持ちに生まれると逆境に弱いというようなこともあったりする。
ならば我慢強さがホントに強いのか?というと一過性のものに過ぎず、行き過ぎると体に支障が出て弱くなることもある。
鈍感な人は動じないから強く見えるが、本人は自分のことを強い、とは気づかない。
逆に敏感な人は、いろいろ気づいてしまって周りからは弱く見えるし、自分を弱いとも思うものだが、危険察知能力が高いってことで結果的に強いと言えなくもない。
このように、強い、弱い、はゴルフのようにルールが決まっていて勝ち負けがはっきりするものならばわかりやすいのだが、人間としての強い、弱いというものになるとなかなかわからないものだ。
更に難しいのは、人は強くあろうとして強がったり、弱いふりをして同情を買おうとするなど、巧みに振る舞うものである、ということだ。
意識してやっているうちはまだマシかもしれないのだが、無意識でそれをやってしまっていることだってある。
自分を騙していることに本人も気づいていない。
三島由紀夫は、太宰治のことを「弱さを最大の財産にして、弱い青年子女の同情共感を惹いた」と評していた。
これに関しては、強がるのは弱さの現れであって、弱いふりという狡さは強さの現れである、という風に実際は逆だと捉えた方がいいように思えたりもする。
強さを獲得する方法
考えれば考えるほど私が憧れていた「強さ」というものがわからなくなる。
それでも、人間をひとつの生命体として捉えた時に、見えてくるものがある。
生まれてきたということなのだから、それぞれが生きる強さを最初から持ち合わせているということだ。
その強さにも個体差はあるんだろうけれど・・・。
そして、同時に生まれながらの弱さも持ち合わせているはずだ。
人は立ち向かって戦う強さと、危険から撤退する臆病な弱さの両方を持ち合わせている。
そのどちらもが生きるために必要なのだ。
そう考えると、世の中に強い人がいるのではなくて、弱い人がいるのでもなくて、その人の中にある強さと弱さの両方があって、それが波のようにやってきて、強い時と弱い時があるだけなのではないだろうか?
自分を弱い人だとか、自分を強い人だというのは思い込みであって、弱い人間が強くなるのでもなくて、今は弱さが現れているのだ、とか、本来の強さを表せるようになったのだ、などと捉えた方がむしろ本質的なのではないだろうか?
自分がここまで弱かったとしても、それは何かの影響で強さを出すスイッチがオフになっていてしまっているだけなのではないか?と。
本来の強さが、教育という名の元で周りの圧力によって圧し殺されてしまうようなことは、良くあることのように思う。
そんなことを考えているともともと人が持つ強さを惜しみなく外に出せているなあ、と感じられる職業にフラグが立った。
それは、お笑い芸人のボケ役である。
可笑しなことをやって、周りに(例えば合い方に)ツッコまれたり、バカにされたりして笑いをとる。
バカにされて笑われることが喜びになる、という類まれに見る職業である。
そこに、どれだけバカにされても一切恥じることのないという微動だにしない強さを感じるのだ。
このボケ役の強さから学ぶことは、自分の失敗や無知など恥ずかしいことを変に隠し立てしないで、いわゆる自分の弱さを知って、その弱さを自分で真正面から受けて容認する。
これが人の強さである、ということだ。
それにしても弱さによって強くなる、とは何とも逆説的で興味深い。
私が憧れる「強さ」というもの、この考えれば考えるほど得体の知れぬものを獲得する方法はどうしたらいいだろうか?
ボケ役からヒントを得て結論を出したいのだが・・・。
強くなるために、ボケの訓練をしていきたいとさえ思うのだが、その結論では弱いかな。
・・・
そうか!わかった!
20代そこそこの稲見選手、渋野選手の「強さ」に憧れるのはやめましょう!(←大谷翔平風)
イヤ、その強さに憧れる必要なんてない。
なぜならば、私は元々強さを持ち合わせているし、今やその強さが十分に現れているからだ。
私の方が、彼女たちの笑顔よりも自分の笑顔は引きつっていて醜い。
私はその自分の弱さを知っていて、それを容認しているのだから、彼女らよりも強いのだ!
私の方が、彼女たちよりも体の動きがとてつもなく鈍い。
私はその自分の弱さを知っていて、それを受け入れているのだから、その点では私の方が彼女らよりも強いのだ!
そして私のゴルフはこれ以上上手くならないとキッパリと諦めて今もプレイすることなく我慢できている。
だから、その英断、そして我慢が効くという強さにおいて私の方に分があるのだ。
つまり、どんな形であっても長らく生きているということ、それは老化を受け入れる行程であって、もうそれだけで人は強さを出せているということなのである!
だから、これからも自信を持って長生きすればいいだけだ。
それだけで強くいられる。
これをオッサンの屁理屈、あるいは、悪知恵などと言う勿れ。
屁だろうが、悪かろうが、理屈も知恵も強さのひとつなのだから。
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
稲見選手はTOTOジャパンクラシックで久々の今年度初優勝を果たしました。
この大会は日本で開催される唯一のアメリカツアーのひとつで、優勝者には来年のアメリカツアーの参加資格が与えられます。
彼女はこれまでは海外ツアーに参戦しておらず、アメリカに渡ることはないと思われたのですが、意外にもアメリカ参戦を表明しました。
その理由が、「引退後を考えた時にアメリカツアーの経験は意義を持つから」というものでした。
確かに選手生命は長くはないが、人生は長い。
何とも冷静で今の若い人は賢いなあと思います。
私は既に強いのだから、憧れるのではなくて、プレイに酔いしれながら、若い彼女らの人生?を応援したいと思います。
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