今年一年を振り返る。浮き立ってくる自分の世界線を生きる!
店で食事をしていた時、入口付近で歓声があがった。
どうやら競馬を獲った人が店に入ってきて、先にいた仲間に合流したらしい。
一方で負けた様子の仲間たちが、
「シャンパン、入れろ!」
と煽るのに対して、
「今年通算はマイナスなんだよ!」
と獲った人が抵抗する。
そう言えば、今日は有馬記念!
このやりとりで年の瀬が迫ったことにやっと気づいた。
競馬をやらない私ではあるのだが、有馬記念のスタート前のファンファーレのシーンは、年の瀬の物悲しさに一年を終えた安堵が混じったような感覚と強く結びついている。
今年も終わりを迎える。
1年単位で人生を捉えることにどれだけ意味があるのだろうか?
そんな疑問を持ったこともあったが、そんな疑問では太刀打ちできないくらいに、当たり前に1年という単位に意味付けをしよう!という感覚が自分に染み付いていることにも気づく。
加齢とともに四季(1年)の気温の変化が身に染みるようになってきている身だから、この感覚を余計に感じるのかもしれない。
では自分のこの1年に意味付けするとすると、一体どんな風になるのだろうか?
サラッと振り返るだけでは、目に見える大きな変化も、特別なイベントも何も思い浮かんでこない・・・。
そんな地味な年でも・・・いや地味な年だからこそ、敢えて意味付けして一年を締めくくってみようと思う。
世界線が浮き立つ年!?
最近、『世界線』という言葉をよく聞くようになった。
アニメで出てくる言葉だろうか?
自分の現実とは程遠いカッコいい響きがある。
「この人とは世界線が違う」と若い人が使うらしい。
これは、人生観や価値観があまりにかけ離れている人について「到底わかり合える気がしない」という意味合いだ。
あなたとは一緒にならない、という交わることへの拒否感が垣間見れる。
そして、交わらない線がパラレルワールドを連想させる。
人は同じ次元にいたとしても、別次元を見ているようにそれぞれに見えている世界が違う。
「世界線」は、これらのことを表現する上手い言葉だと感じる。
前に言ったことの繰り返しになるが、大量の情報がネット上を飛び交う現代は、何の情報を掴むかによって価値観が明らかに分かれる。
これからもドンドン価値観が分かれ、人は多様化するのだろう。
周りが「世界線が違う」人ばかりになるのが必然なのだ。
これからドンドン進むであろうこの社会現象、とでも言ったらいいのか、それを表現する言葉『世界線』。
この出現もまた必然だったのだ。
そんな風にも感じる。
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私の一年を細かく振り返ると・・・
無難なことよりも自分が言いたいことを言おう!そう心がける。
感じるままに思うままに言動すればするほど、周りに私の曲者ぶり(変態性)が漏れてしまう。
そして周りを不快にさせてしまう。
だからなるべくご迷惑をかけないようにしよう!
敢えて言いたいことを言って、反省して今度は言いたいことを抑えてみたり・・・。
今にして思えば、いろいろ葛藤しながら自分の素直な感覚を口に出すことを都度都度試していた年だった、そんなように思う。
言いたいことを言い始めたのは、ここ数年のことで今年に限ったことではないのだが、意図的に試すという感覚は今年特にハッキリしたように思う。
「変なことを言うようだけど・・・」
「変態の話なんだけど・・・」
とはじめに断り書きを置いた上で話しをする機会が増えた。
だがこれは、自分の曲者ぶりを何とか緩衝できないか?という浅知恵であり、気の弱さとまだまだ常識人でありたい思いが漏れているだけなのかもしれない。汗。笑。
ともあれ、この言いたいことを言うということが、まさにこの若い人が言うところの「自分の世界線を生きる」ということなのではないか?
ならば私にとっての今年は、自分の世界線が浮き立ってきた年とでも言ったらいいのだろうか・・・。
世界線が浮き立ったということは、同時に私はより他人から理解されなくなったということになるわけだが・・・笑。
何とも地味な一年だが、一番にくる意味付けはこんなようなところだ。
自分の世界線を生きるしかない
自分の言いたいことを言う。
こんな単純なことがこれまで自分にはできてこなかった・・・。
これではいい歳してあまりにも情けないので、保身のためにこう言い換えさせてもらうことにする。
いろいろ自分の感覚に向き合っていたら、もっと自分の中に言いたいことがあったのだ、と。
そして、他人に迷惑をかけたくなかったこともまた、言いたいことが言えなかった理由だ。
こちらは、さも他人のためのように書いたが、むしろ自分が変な奴だと思われたくない、とこちらも自分の保身のためである、と言い換えねばなるまい。
これが正しくエンリッヒ・フロムの言う『自由からの逃走』なのかもしれない。
ともかく、今年の試行錯誤でよりハッキリしたのは、自分の世界線が自分なりにわかってきて、それを周りに表現した時に、人に理解されなくなる、という当然と言えば当然のこと。
つまり、自分の言いたいことを言って生きるために、人に理解されることを諦める必要があるのだ。
少なくとも私は言いたいことを言って即周りに理解される、という器でもないし、理解されるまで説明するスキルもない。
また、スキルがあったとしても理解されるまで説明を聞く時間も義理もお相手にはない。
だが、それよりも大きな理由が別にある。
周りに理解してもらうための表現を学習してしまうと、自分の本来言いたいことがおろそかになる。
言いたいことをまずは自分で自分に言い尽くさなければならない。
それが本来目指すところである。
これと周りが理解することとは全く別のことなのだ。
自分が納得したら相手が納得する、という勘違いが当たり前のように起こっているわけで・・・。
自分と周り、この分離が非常に重要である!
言いたいことを言い出してまだ間もない者には特にそう言い聞かせねばなるまい。
言葉を取っ替え引っ替え、言いたいことを言い尽くして、自分をクリアにして十分に確信する。
そうした後にそれが周りになんとなくにじみ出て・・・そこまでいってやっと周りに理解してもらえる力が少しだけ宿る、そんなようなものだろう。
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さて、ここまで今年一年に意味付けをしたものの、やってることと言えば「言いたいことを言う」ということ。
この歳にして何とも次元の低いものではないか。汗。
それを言って終わってしまってはあまりにも一年の締めくくりにふさわしくないので、せめて若者のカッコいい言葉を借りて今年を締めくくりたいと思う。
今年は自分の世界線が見えてきた一年!
来年はその世界線を生きる!
そのためには、理解されないことを厭わず、言いたいことを言って前に進むのみ。
それしかない。
追記~〇〇界隈
SNSなどで最近使われるまた別の言葉に、「○○界隈」というものがあります。
この言葉で、特定の趣味や関心、行動パターンを共有する人々のグループを表現することが新たなトレンドになっているようなのです。
これもまた世界線と似ていて、多様化する社会を表す言葉なのでしょう。
私はお酒が好きなので「酒界隈」に含まれるだろうか?と思いつつ、「酒界隈」をいろいろ検索してみると、「酒界隈」の人の行動は、毎週新種のお酒を探しては取り寄せる、そしえ取り寄せたお酒ズラッと並べた写真をSNSにアップした上で飲み比べをする。
更にはお酒の品揃えのいい居酒屋をはしごする、など華々しいもの。
こんなガチ勢が「酒界隈」の人ならば、私がいくらお酒が好きだといっても、とても「酒界隈」には入れない・・・汗。
そんな風に感じました。
酒好きひとつとっても、とんでもなく行動、そして価値観が分かれる世界・・・。
やはり、これから世界は際限なくドンドン分かれる方向に向かって行く。
だからこそ、この世界線が違う人どうしがどんな風にコミュニケーションしていくのか?
これがより問われるようになるんだろう。
「○○界隈」という言葉にも、そんなことを感じました。
UnsplashのGene Devineが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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