RYO SASAKI

意見の合わない平和で豊かな時代にこそ、人の目的(背景)を知ろう!

タナカ シンゴ

『正解はひとつではない』

このことは今までこのブログに何度か書いている。

この言葉を具体的に意識させられたずいぶん前の出来事を鮮明に覚えている。

官庁に勤める叔父がいて、その叔父には親戚の相談が舞い込むことが多かった。

私が学生の頃だったと思うのだが、その日の相談は、親戚のひとりが家を改装して焼き鳥屋を開きたい、というものだった。

親戚一同が、叔父の見解を知りたがっている様子。

いろいろ話をした末に叔父の出した結論は、

「一度やってみる、ということかな。こんなところだろう。」

という親戚一同からすると意外なものだった。(だったと思う。)

焼き鳥屋はその場所からも、採算がとれなさそう、というのが誰の目にも明らかだったからだ。

※ちなみに、採算がとれない状態が続くようならば、親戚からの借金が必要になる状況だった、と思う。

叔父は採算よりも、人生で一度はやりたい、という思いを大切にしたのだった。

結論を言い終えた瞬間に、叔父が私に一瞥したことを今でも覚えている。

それは、丁度物心がついてきた?私にモノいうタイミングを与えてくれたのかもしれない。

そして、そうしてあげようと思うだけ、私が何かモノを言いたげな顔だったのかもしれない。

私は結局何も言えずじまいだったのだが。

その後、叔父の最後の「こんなところだろう。」という言葉が妙に気になり始める。

その言葉には落とし所のような感じがあり、それが唯一の正解ではないというニュアンスを含んでいるようでもあった。

唯一の正解をテストの穴埋め問題にはめ込み続けてきた私だったからこそ、この時この言葉が、私に印象深く残ったように思う。

そして、子供の頃に自分のやりたいことよりは、むしろ”計算”を学んだ私には、叔父のような結論を出せなかったんだろう、と後から感じたのだった。

決して裕福ではなかった私の家庭環境からしても、採算ベース以外で判断するというのはほど遠いものだっただろう。

ちなみに、その後叔父の結論どおり、焼き鳥屋は開店した。

さて、今回はなぜだか思い出したこの出来事が何かの足しにならないか?ツラツラと考えるうちに、人とのコミュニケーションに使えるのではないか?

というところに何とかたどり着いた。

正解はどんどん一致しなくなる

冒頭の焼き鳥屋の話のように、何を目的にするか、あるいは何の目的を重視するか?によって物事の正解は変わってくるものだ。

採算をとるか、やりたいことをとるか。

食うか食わずかの時代であれば、ほとんどのケースが採算をとることが正解になるのだろうが、そういう時代でなければ選択の幅は広がってくる。

社会が豊かになるから、目的がいろいろに分かれ、よって正解がいろいろになる。

また、社会が豊かになるから、何でも一律の型にはめて効率的に統制する必要が薄れる。

というか、非効率を選択する余裕ができる、といった方がいいか・・・。

こうして多様性が広がって、多様性の尊重が求められるようになる。

大まかにはこんな流れになってるんだろう。

社会が複雑になって見える一因がここにあるようにも思う。

そして正解がバラバラの人々は、災害などの緊急事態になった時、やっとこさ正解を一致させてひとつになることを思い出す。

この循環がもはや通常運転のようにも思えるのだ。

ともあれ、これからの時代、社会がより豊かになるならば、良きにつけ悪しきにつけ、人との意見がより一致しない時代になる予感がする。

日本という国

ヒット曲、adoの『うっせぇわ』

この曲には、社会、大人の常識やルールの押し付けに対する若者の鬱憤が込められているように感じるわけなのだが、これを聞いたアメリカ人たちは、この日本の若者の鬱憤に対してどうやらピンときていないようで、

「日本はそういうところなんだろうね。我々は初めから自由だから・・・。」

という具合に、国民性の違い、というのが歌詞への一番の感想だった。

ここから逆にわかるのが、日本にはルールやあるべきがいろいろとあって、その正解の一致が求められる国である、ということだ。

これは、それが当たり前だとして育ってきた日本人にはあまり感じられないに違いない。

日本は、あまり大きくないいいサイズの島国であり、外からの侵略の経験がなかったから、地政学的にいって画一的な見解になりやすかったのだろう。

その環境下にあったから、逆にそこから変化するのには多くの時間と抵抗を要するはずなのだ。

そんなことをツラツラと考えると、人と会話する時にいろいろと感じるものがある。

私が自分で日頃思い巡らしていることを話せば話すほど、私は周りの曲者になる。汗。笑。

曲者は、今の言葉で言うと

「めんどくさい奴」

このことは自分で認めざるを得ないわけだが、それに加えて、めんどくさい奴でも自分の言うことをわかってほしいという、いわゆるめんどくささが私にまだ残っているのではないか?と自分を疑って反省する。

しかし、このようなことは私に限ったことではなく、周りの人々にも似たようなところがあるのではないか?

そんな風にも感じる。

日本人はそんなに変わらない!?

自分の主張したいことを主張して共感を得ようとする。

あるいは、主張に対しては反論を聞いたりしながら、新しい正解を模索しているような感覚。

人が無意識でもDNAがそれに向かって仕向けているような気がする・・・。

それは、多様性の時代であっても自分の正解こそ正解であると信じる感覚であり、信じたい感覚。

その一方では、みんなで正解を一致させたいという日本の昔のノスタルジーを惜しんでいる、と言ったらいいのか・・・。

豊かになって久しい日本。

その日本に住む人全員に、今多かれ少なかれこんなようなジレンマがあるのではないか?

これは、地政学的、歴史的に見て当然の成り行きだとすら思えてくる。

そして、日本人は意見が合わないことに、もっと慣れる必要があるのではないか?

そんなことまで思えてくる。

意見の合わない時代を生きる

多様性と言えば、ジェンダーだったり働き方だったりが取り沙汰されることが多いが、人それぞれの目的の多様性による正解の多様性というのが、ベースに広がっている、というのも大きいと感じる。

誰とでも共感できることはごくごく当たり前のことしかなくて、それは共感したところで双方に新鮮さも面白味もない。

共感できるかどうか微妙なところの共感に、人の喜びがあるように思う。

それは、多様性によって、共感できないのが当たり前で逆に貴重だからなのだ。

さて、この意見の合わない人だらけの時代を、どう渡って行くのがいいものだろうか?

それぞれの正解の違いをこっちが正しい、あっちが正しいなどと、やり合うのはもはやエネルギー消費するだけでいいことはないだろう。

だからといって、上っ面で共感したフリをするのも私は気疲れする。

ならば、単純な因果の法則にしたがって、正解の違いの原点にさかのぼることが、解決方法にならないだろうか?

人がその正解にたどり着いた背景、そしてその人がその正解に至っている根っ子の目的を知ってみる。

焼き鳥屋の話の私のつたない例で言えば、私には”採算ベース”、採算で結論を出すという目的しかなかったし、家庭環境という背景によって、自分の正解を導き出そうとした。

人は、怖い目に会うとそのことに二度と会うまい、と警戒を強め、避けることを正解に据える。

人は経験したことに強く影響を受けるものだ。

もっと分かりやすい例にすると、借金で苦しんだ経験があると、採算がとれないことをできるだけ避ける方、を正解として(多くの場合は)選択するんだろう。

こんな風に、その結論に至る背景が人には必ずある。

他の人の目的、背景からくる結論を知ることで、自分と異なる結論にも擬似的に共感できる面が出てくる。

自分とは異なる結論ではあるが、人の過程も含めた結論をひとつの物語として共感できればいい。

そうしつつも、必要に応じて自分が違う結論とその背景を語る。

その過程と結果がまた相手から共感されればまたラッキーだ。

ここまでのコミュニケーションができたら一旦良しとしていいんじゃないだろうか?

簡単に言うものの、目的や背景というのは他人に簡単に語ってくれるものではない。

目的が言葉になってなくて、なんとなくの無意識にある可能性もある。

それを引き出すには相応のスキルが必要で、また、人として信頼されないとならないところもあるだろう。

だからどこまでいってもコミュニケーションには難しさがつきものではあるのだが・・・。

このことは厄介なのでここではスルーすることにして・・・謝。

人と人とのコミュニケーションの前提について、いくつかの正解を挙げてみることにする。

人と人とは、永遠にすべてをわかり合うことはない。

人と人は、わかり合ってひとつになれる。

このどちらもある目的に対してはそれぞれ正解のように思う。

そして、

永遠にすべてをわかり合うことはないから、努力は無駄である。

永遠にすべてをわかり合うことはないから、ひとつでもわかり合うように努力をする。

人と人はわかり合ってひとつになれるから、わかり合うように努力する。

これらもある目的に対してはそれぞれ正解のように思うのだ。

だから、人と人とのコミュニケーションの有り様にもいろいろな正解はあるのだろう。

そんなことを前フリにしておいて、最後に力づくでまとめて終わることにする。

私はこのブログにここまで書いた目的(背景)から、

コミュニケーションにおいて、(正解が異なった時には特に)人の目的(背景)に焦点を当てるように心掛ける。

これが私の思う正解である。

さてはて、こんな曲者の正解に共感いただけますかどうか・・・。

UnsplashTransly Translation Agencyが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

『うっせぇわ』の歌い出しは、イントロなしで、

「正しさとは 愚かさとは

それが何かみせつけてや~る~!」

です。

若者の正解を代弁するぞ~~というのろしが上がったように感じました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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最後まで読んでくださりありがとうございます。

これからもRANGERをどうぞご贔屓に。

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