「影のあるところに光がある」私の苦痛(マイナス面)の裏側にあるプラス面を探る。
約1年ぶりになるが、今回も私事の股関節痛について書こうと思う。
そう思ったのはまた少し自分の体にいい変化が出てきたからではあるのだが、それに加えてこの苦痛を伴う私の不幸な出来事に、もしプラスの面があるならば、それはどんなことなんだろうか?という興味が湧いてきたことが大きい。
んっ!?ずいぶんお行儀よく書いたものだ。
実体は、
「何でこんなに長い間、辛い思いをしなければならないんだ。
プラス面でも見つけないとやってられるかい!」
といった怒りのエネルギーが沸々としている、というのが正直なところだ。汗。
私は、この怒りのエネルギーを昇華させる場所を探しているのかもしれない。
「光あるところに影がある」
この言葉が後押ししてくれる。
世の中は、ある事はプラスのことであり、ある事はマイナスのことである、なんてシンプルにはできていない。
世の中のすべての物事にプラスとマイナスの両面がある。
何事にも、光があれば影もある。
影があれば光もある。
物事を光として、あるいは、影として、いろいろな角度から見ることができるはずなのだ。
今回はこの言葉を借りて、私の股関節痛という不幸な出来事のプラスの部分を何とか探ってみたい。
ちなみに、股関節痛は私固有のものなので、固有なところに深く入らないように、読む方ができるだけ退屈にならないようなものにしたいと思う。
股関節治療から学ぶこと
私は、私の股関節痛の原因を、体全体の骨格の歪みにある、と捉えてここ数年カイロプラティック的な治療を行っている。
体全体の骨格の歪みをとって、正しい姿勢になれば痛みは軽減するはずで、少しずつではあるが改善に向かっているように思う。
これは以前書いたものと変わらないのだが、私の歪んだ骨格とは、単純に言うとつま先重心で腰が引けた状態ということだ。(下の写真の右から2つ目の図)
これが、今は踵重心(正確には両くるぶしの間あたりが重心)になって骨盤が立った正しい姿勢(下の写真の〇の図)に向かっている。
出典:かかと体重®で歩くとスリムな脚に! 美脚大作戦vol.3 ~立ち方をマスターする~
言葉でいうのは簡単なのだが、これまでの骨格の変化は私にとってかなり苦しくもあり、違和感を抱えながらのものだった。
大げさな表現だが、例えば蝶が変態(メタモルフォーゼ)で大きく生き物自体の形が変わったように、体の使い方が大きく変わった。
それだけ歪んでいたようなのだ。
思うに、正しい立ち姿勢なんてものはネットを見れば画像、動画がいくらでも出てくる。
それを見たらわかるはずなのだが・・・。
そう簡単にはいかない。
長い時間をかけて歪んできた私は、歪んだ骨格に慣れ親しんでしまって、既にどこが正しいのかわからなくなって、そこに戻れなくなっていたのだ。
最近、体が正しい姿勢に近づいてきたことによって、やっとそれがわかりやすい正しい姿勢の説明だ、と感じたものがある。
正しい姿勢とは・・・
・脛骨(スネの骨)が地面に垂直になった状態で、脛骨の真下、両くるぶしの間に重心位置がある。
・肩甲骨が後ろに出っ張らない胸の位置。
※胸がかなり開いた状態になる。
・力を抜いた状態の舌が、上あごに自然にピッタリとくっつく頭の位置。
出典:子どもの脛骨骨幹部骨折
今まではどうもピンとこなかった。
体がわかったことでやっと頭でわかる。
歪んでしまっている人にはわからない。
歪んでしまっているが苦痛が特にない人は分かろうともしない。
脛骨の真下が正しい重心位置。
そうすると、ほとんど骨だけで脱力して立ってられて、要らぬ筋肉は使われない。
重心位置がそれより前になっても後ろになっても骨や筋肉に負荷がかかり、緊張が生まれる。
そして、徐々に骨格の歪みが積み重なっていく。
後から言われて見れば当たり前のように思うのだが、痛みが出るまでは自分はチャンとやれているだろうと高をくくっていてその歪みに気づかなかったのだ。
長寿社会の光と影
私に限らず、日本人の多くがつま先重心になっているという。
最近はそのつま先重心を助長するように、頭が前に出るストレートネックも増えている。
出典:ストレートネック
まあ、骨格に多少の歪みがあってもすぐに痛みが出るわけではないし、歪んでも問題ない幅がある程度あるのが人間の凄いところでもある。
また、個体差もあるから、私のような股関節痛の症状が出る人ばかりがいるわけでもない。
それでも、長生きになった現代では、正しくない姿勢の時間も長くなってしまい、その時間の積み重ねによって、遅かれ早かれ歪みが閾値を超えて、痛みが出てくる結果になってそうなのだ。
痛む場所も、頭痛、肩こり、腰痛、ひざ痛など人それぞれだ。
もし、人生が60年くらいで幕を閉じるならば、あまり気にする必要のないことだったのだと思う。(私の場合はもっと早かったのだが。)
長寿という光があれば、骨格の歪みという影が現れる。
長寿という光を享受するならば、影も一緒に受け入れなければならない。
日本人の多くが、つま先重心になってしまう要因を上げてみる。
まずは、椅子に座っている(特に腰を丸めた楽な座り方)時間が長くなったこと。
そして、言わずと知れたパソコンやスマホの使用時間が長くなったこと。
意外なのは、健康にいいとされる登山。
リュックを背負って長時間歩くから、バランスをとるために前のめりになってつま先重心になる。
そして、靴やシューズの底面がつま先側に傾斜した作りになっている、なんてこともある。
その最たるものが、女性が履くハイヒール。
ほとんどの靴が前に歩く推進力を上げるためにつま先に傾斜して作られている。
前に歩く推進力を上げるという光のためにここにも影が現れる。
もうひとつ要因を追加すると、これは私に限ったことになるが、前向きに頑張って生きてきたというマインドによるもの。汗。
思えば私は常に臨戦態勢で焦っている状態にあった。
いつでも早く仕事ができるように・・・、目的にいち早く向かっていけるように・・・、いつも前がかりになっていた。笑。
これは冗談のように聞こえるかもしれないが、このマインドによってつま先重心の姿勢を沁みつかせてしまった、ということについて私はまんざらでもないと今感じている。
もっと落ち着いた人生を送って来れたら良かった・・・。汗。笑。
そのマインドによって成し遂げられたこともあったではあろうけど・・・。
いずれにしても、世の中の様々なところに光があるということは、影もたくさん存在するということなのだ、つま先重心のように・・・。
股関節痛のプラス面を考える
さてここから、私の股関節痛のプラス面をできるだけひねり出してみたい。
①身体のしくみに詳しくなった。
先ほど紹介した正しい姿勢をはじめとして、筋肉の名称や使い方などなどを覚えた。
これらは長い治療から学習せざるを得なくなって勝手に身についたものだ。
そして、そこから派生して健康全般についての学習にも自然と注力するようになった。
もし痛みがなかったならば、例えば、胸鎖乳突筋(きょうさにゅうとつきん)といったような筋肉も覚えることはなかっただろう。笑。
行きつけの美容院の美容師さんがストレートネックとのことだったので、曲がりなりにも正しい姿勢と簡易な矯正法をレクチャーして感謝され、少し人の役に立ったような気になった。
②自分にも他人にも優しくなって、大切にするようになった。
痛みによって素早い動きができなくなった。
だから、無理に動かすことなく体を丁寧に動かすようになった。
それがまた派生して、自分の体全体、そして行動、更には心持ちまでを慎重に大事にするようになった。
以前より、無理をしなくなった。
開き直って、以前より焦らなくもなった。
約束した時間に対しても余裕をもって計画するようになった。
以前は時間ギリギリ男だったのだが・・・。汗。笑。
自分の鈍い動きを経験しているから、例えば年配の方の緩慢な動きを以前よりイメージできるようになって、そこから派生して周りのすべての人々に対して以前より配慮ができるようになった。
自分に痛みがなくても配慮できる人はたくさんいるだろうが、私の場合、痛みがあったことでよ~くわかった。汗。
③周りの優しさが身に沁みた。
私の傍目は、股関節の痛みによって残念ながらどうしても痛々しくて可哀想に見える。
だから周りの人が、稀に電車で席を譲ってくれたり、荷物を持ってあげようとしてくれたりする。
最初の頃は、サポートされることに寂しさを感じ、助けを借りるまいと片意地を張ったようなところがあった。
でも今は、周りの人がサポートしようとすることはどう見ても自然な行為であるのだから、抗うことを忘れてサポートを受け入れるようになった。
その優しさが素直に大変有難く、心に染みるようになった。
私は、高齢になる前の高齢者の予行練習を、している、と言っても過言ではないのかもしれない。
④恥や外聞を気にする気持ちが薄れた。
傍目にみて痛々しくて可哀想な私ではあるのだが、そう見られているということを考えなくなった。
これもひっくり返っても急には変わらないから、どうしようもなくて、開き直ったと言ったらいいだろうか?
そんなことを気にする余裕もなく、自分のことで精一杯ということなのかもしれない。
そしてそれがまた派生して、他の様々な私に対する外からの見え方についても気にしなくなった。
あまりにも気にしなくなってしまって、今はもう少し身だしなみをしっかりした方がいいのでは?と不安になるくらいだ。汗。笑。
⑤言いたいことを言えるようになった。
昔から言いたいことは言っていたかもしれないが、それに輪をかけてという意味合いになるかもしれない。
失礼な口も叩けるようになった。
言うのをためらわれることを、白状することにする。
周りから痛々しくて可哀想に思われている者は、ある程度失礼な口が許されるのだ。汗。
毒舌漫才のウエストランド井口さんの、「(周りに毒を吐いて炎上することについて)見た目でまだ助かってる部分あるんでしょうね。俺なんかチビでどうせモテないって思われてるから、そんな奴には言わせておけ!ってなる部分があるんですよ。これがもし高身長のイケメンだったらこう(毒を吐くこと)はできないでしょうね。」という話を聞いて、なるほど自分も同じだ、と思った。
ここで断っておくが、私はだからそれに乗じてこれ幸いに失礼な口を撒き散らそうとしているわけではない。汗。
プラス面をひねり出そうと考えて考えてこれに突き当たっただけなのだ。
後から見れば、私の多少の失礼な口も周りが寛容な気持ちでもって包んでくれてたんではないだろうか?
そして言えるのは、可哀想さ、それは弱さという影、その影があるということは、同時に強さという光が差している、というのが真理ではないだろうか?
話は変わるが、④と⑤は、どちらもありのままに生きるということで共通していると感じたことを加えておく。
最後にまとめてみる
さて、今回の試みによっていろいろなプラス面に気づくことができた。
これは当初の想像以上の収穫だった。
わたしの股関節痛は、今すぐにでも取り去りたい迷惑な苦痛ではあるのだが、この苦痛があってよかったようにも思えてくる。
この苦痛は私が、
自分の弱さを知るための、
人を大切にすることを知るための、
優しさというものを知るための、
ありのままというものを知るための、
メッセージであるようにも感じられたのだ。
別の角度からも見てみる。
この試みは、
「影のあるところに光がある」
という言葉について実感と確信を得るためのものであった。
そしてまた、不幸に幸福を見いだす(多様な見方をする)という訓練でもあった、と言えるのではないだろうか?
不幸に幸福を見いだすには、訓練が必要だ。
逆に言えば訓練すればできるものだ、ということだ。
こうして少し上機嫌になって怒りが静まってきた私は、欲深くも更にこのことを人生の教訓として生かそうと試みる。
ずいぶん都合がいいのだが、早々と歪んだことで姿勢の大切さに気づいた私は、これから高齢になるまで正しい骨格を維持できる可能性がある、ということ。
つまりこれは、ミスは悪いことではない、早くミスすれば、するにこしたことがない、という教訓だ。
次に、脛骨が地面に垂直になるという立ち位置は、まことにバランスのいい位置であって、これがまさに中庸(不足がなく調和がとれている状態)のポジションと言えるのではないか?
やはり、人生において中庸が大切なのだ・・・。
鼻息は荒いが、どうにもこれ以上は進まず、浅い話になってしまった。汗。
締まりが悪いので、ここまでにして最後に思いを放って終わることにしたい。
私の不幸(苦痛)こそ、私の個性。
個性を生かし、ありのままの自分を、私は生きる!
私は、貪欲にも不幸すらも幸福の材料にして人生を味わい尽すのだ!
ずいぶん仰々しい宣言になってしまった・・・。笑。汗。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
1年前の股関節痛の記事を読み返してみると、恥ずかしながらそこに自分の「青さ」が感じられて、裏を返せばそのことがこの一年の私の成長の証なんだ、と感じました。
そして、このように過去を振り返ることができるのが、田中新吾さんが常々言っている、ブログの素晴らしさなんだなあ、とも・・・。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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