RYO SASAKI

守破離の「守」を「破」るために”間”を置かずに返答する訓練を始めてみる。

タナカ シンゴ

最近出会った人の中に印象的だった若者(20~30代)が3人いる。

彼らは年齢に幅があるし、出身も性別も性格も異なるのだが、それでも、それぞれと話すうちに彼らにひとつの共通点があることに気づく。

屈託のなく、自信に溢れている雰囲気がとても似ていることがその気づきのキッカケになる。

失敗したこと、ショックだったことを話しても、それに対して後悔の念をにじませることなく、どこか淡々としている。

私の若い頃は、ここまで淡々としていられたんだろうか?

何でも自分で調べられる(ネットでググって)といったことが単純に自信につながっているのか?

そうならば、単に時代の違いがそこに現れているだけなのかもしれない・・・。

そんなようなことを思い巡らしながら、微笑ましく話を聞かせてもらっていたのだったが・・・。

私はあることに思いついて、

『ご両親はどんな風だったの?』

という質問を3人それぞれにしてみた。

すると、その回答が見事に一緒だったのだ。

教育方針

3人の回答はおおよそ、

『ほとんど好きにさせてもらってました。』

というようなものだった。

ああしなさい、こうしなさい、などと親から言われることがほとんどなかったと3人は口を揃えて言う。

サンプル数わずか3ながら、これは平成・令和における教育方針の変化なのかもしれない・・・。

それは放任主義と言ったらいいのか、でもこの言葉には(忙しくて)子供に意識がいかない、とか、子供に興味がない、という意味も含まれているから、子供が愛情を受けていない可能性をどこか感じてしまうのだが、どうやらそうでもないようで・・・。

3人の中のひとりが小学生の頃、その子がクラスメイトをイジメたとして、親が学校に呼び出されたことがあったと言う。

何もないのに我が子がイジメをするはずがない、と確信していた親が、イジメられたと言われるクラスメイトが最初に我が子を、イジメていたのがそもそもの問題だ!と先生に食ってかかった。

先生がそれにたじろぎ、結局何もなかったかのように散会になったというエピソードを話してくれた。

普段子供には何も言わずに、関与していないかのような親が、自分の子を信じていて、守るべき時には守る。

愛情を持っていながらも自主性を尊重して普段は距離を置く、そんなような親の像が見えたように思う。

そして、こうしろ、ああしろ、と自分を否定される時間が少ない子には、当たり前に自信が備わるように感じられた。

逆も浮き上がる

そんな若者に出会うと、今度はその逆の人が浮かび上がってくる。

ずいぶん前になるが、非常に謙虚で周りに気を使える優しい感じの若い(たぶん30代)男性に会った。

今にして思えば、男性は何事も断定せずに、その話し方が、あたかも自分が意見を言った後に必ずやってくる反論に備えているかのように感じられた。

そして、質問すると回答にホンの少し間があることが、冒頭の3人との大きな違いとして感じられた。

冒頭の3人の方は、何の事も間髪置かずに自分の意見を言う印象が強い。

後から思ったことだが、この間に男性は何かを考えている・・・のだ。

私はその男性の雰囲気に思い当たることがあって、また同じ質問をしてしまっていたのだ。

『ご両親はどんな風だったの?』

その男性はとにかく自分は大事にされていた、と話し始めたところで、隣にいた同級生が『こいつはイイトコの子ですよ!』

と横からチャチャを入れる。

後から聞くところによると未だに実家暮らしで、門限まであるんだそうだ。汗。

そんなことを聞くにつれ、その男性が作る”間”は、ご両親の期待に背かないような言葉を探すための時間なのではないか?と感じてくる。

そしてそれは、政治家や会社の上役が、いろいろなところに配慮して、言葉を選んでいる時間と似ているのかもしれない、などというところまで思いが巡る。

ひょっとしたら間を空けるのは、自分も一緒ではないだろうか?

この男性と似ているまた別の男性を思い出した。

すでに70代?と思われるその男性には、とある呑み屋で何回かお会いしたことがあった。

会話の中で言葉がスッと出てこない。

たわいもないやりとりにもかかわらず、ひとつひとつを熟考するように時間をかけて、何とも無難な言葉が返ってくる、という感じ。

最初は警戒されているのか?と思ったのだがそれだけでもなさそうで・・・。

上手く伝えられないが、その男性も何かの正義(正しさ)に縛られて言葉を選んでいるように感じられる。

誰に対しても同じように配慮しながら常識的に返答する。

その正義は親によるものかどうかまではわからなかったのだが、遊びがなくてとても窮屈な生き方のように感じられてしまったのだ。

親の言うことを始めとして、周りからの正解に縛られることで人は窮屈になるものだ。

相手からの質問に“間”が空いてしまうのも、その窮屈さの現れだと思うのだが、本人にとってはそれが当たり前でもはや窮屈だという自覚はないんだろう。

冒頭の3人とは対照的だった。

私はどうやら知らないうちに、人と会うとその人の親がどんな人なのか、気になるようになってしまったようだ。汗。

守破離に照らしてみる

冒頭の放任主義の3人とその次の箱入りの男性、どちらも行き過ぎには問題があって、一長一短があるだろうと思う。

それでも私が正解に縛られることの窮屈さを上げたのは、放任主義のメリットの方が生涯において大きいと今感じているからだろう。

そしてなぜそう感じるかというと、私の親がどちらかというと放任主義ではなかったからなのかもしれない。

隣の芝はいつだって青い。笑。

私は親のああしろ、こうしろのおかげで何とか全うに生きて来れたと思っているのだが、その一方では、放任主義だったらどんな人生だっただろうか?

そんなことも思う。

子供にとって親の影響は非常に大きなもの。

それでも子は親を選ぶことができない。

『親ガチャ』と呼ばれる由縁だ。

親ガチャ : 親や家庭環境を子供が選べないことをスマホゲームの用語で皮肉ったもの。

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そんなことをツラツラと考えていると、ふと”

守破離”という言葉が思い浮かんだ。

守破離は、茶道や武道の修行のことの印象が強い。

でも、生きること自体が修行なのだから、親との関わり合いに照らし合わせてもいいんじゃないか?

親から言われるああしろ、こうしろに従う段階が、『守』。

親に反抗して違う方向に歩み出すのが『破』。

親から独立して距離を置くのが『離』。

とでも言えるだろうか・・・。

そうした場合に、親との関わり合いが茶道などの修行と明らかに異なるのが、『守』『破』『離』のそれぞれの段階を経て順番に進む、という具合に単純でないということだ。

ずっと『守』にとどまることを強制させる親、一方、小さい時から『離』で始まる(放任主義の)親・・・。

『守』ばかりだとある意味安心だが窮屈のまま。

『離』ばかりだと自由だが、どこかで社会のルールを強制される時がやってくる。

『守』や『離』が親ガチャで割り振られるもので選べないものだとすると、『守』『離』そしてその間の『破』すべてを経験することこそが、修行の大切な要素であるように思えてくる。

『守』の経験しかない人には『破』からの『離』を『離』の経験しかない人には『破』からの『守』を。

自分を俯瞰して、不足している経験を重ねていく。

そうすると上手く生きやすくて、楽しく生きやすい!そんな風に感じる。

また別に言えば人生は、強制的に与えられた環境から、離脱して器を広げる修行なのかもしれない。

間を空けない

さてここまで書いておいて、守破離なんてものを持ち出して、親との関わりに照らし合わせるなんて、何とも大袈裟で無理があるように思う自分がいる。

私が今さら、守破離を言い出すのは、遅きに失する感じもしてくる。汗。

それでも折角なので『守』り?に入らずに、少し試してみたい。

”間”を空けずに言葉を返してみる。

これが手っ取り早い『守』からの『破』ではないだろうか?

これが、放任主義で育った若者らから感じたもので、私でもこれからやれるんではないか?と思ったものだ。

何とも安易なのだが。笑。

それは、これまで”間”を開けずに即答することが少なかったという自覚から無理くり出たものなのかもしれない。

それでもとにかく思ったことを瞬間に加工せずに返す。

やろうとするとこれが意外と怖い。

人を傷つけてしまいそうな気がする。

日頃悪いことばかり考えているからか・・・。汗笑。

それでもそれをやった方が若者が腹を割ってくれるような気もする・・・。

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最初に試してみたのが、よりによってこんな場面だった。

時々訪れるようになったある店の女性店主が、雑誌に紹介されていて、その写真を見て一言。

『向井理(イケメン俳優)かと思った!』

残念ながら、ホントにファーストインプレッションがこれだったのだ・・・。

女性店主からは少し間があって、

『それ、褒められてないですよね!?』

と返ってきた。

やってしまった!と思い、焦ってボーイッシュなベっぴんさんだから、などとフォローするも後の祭り。

どうやら、女性を男性に喩えるなんてのは(ルール的には)いけないことだったのだ。

遅れて我に帰る。

店主との関係性がまだそこまでに至っていなかった?

そもそもそんな会話を好まない店主だった?

などいろいろ見えていなかったかもしれない。

いやこれらのことを、瞬間に折り畳まれなければならないとしたら、それを『破』と言えるんだろうか?

そんな疑問に襲われる。

そしてそれに続いて、こんな返しが私の『破』だと言うのか?

今度は自分の『破』の質についての不信が自分を襲ってくる・・・。汗。

そんなこんなで生煮えのまま、ここに持ち出してしまったことも後悔しつつ、自分にはまだまだ“訓練が必要なのだ、と反省する。

一方で、女性を男性に喩えるのがいけないっていうルールは一体なんなんだ?

この世の中は、こんなようなルールが一杯ではないか!?

そう、ならば『破』にはこんなような壁が付きもんだろ?と自分を奮い立たせつつ、それが周りと調和した時にはじめて『破』れるんではないか?と期待しつつ、訓練は続くのだ・・・。

UnsplashAndrea Sánchezが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

「間が大切!」

役者さん、芸人さんが言うのを聞いたことがあります。

主旨は異なりますが、これから自分も”間”を意識していきたい、そう思いました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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