ごく自然な愛情を求め、飲食店をさまよう~私の飲食店選び~
振り返って見ると、私はこれまで数々の飲食店にお世話になってきている。
若い頃は今よりも格段に外食が多かった。
そんな飲食店ではいくつもの印象に残るやりとりがある。
ある時、行きつけの飲食店の店長に私が「長時間立ってられてすごい、私にはとてもできない」と敬服の意を伝えると、店長から「私は逆にそんなに長く座ってられない(私がパソコン相手の座り仕事が多いことに対して)。」と返ってきた。
お互いに長所があるということか?そう思ったのも束の間、日本人が座っている時間が世界ナンバーワンになって、最も不健康な民になってしまったというから、店長と私のどちらが健康であるかを思い知らされた。
その店長から、近くの和食店が閉店した、という話を最近聞いた。
閉店したのは2年以上も前のことだという。
その店は、私の住まいからもっとも近い和食屋さんで、住宅街にあった。
2年もの間、閉店に気がつかないくらいの店ではあったのだが、以前はよく通っていたので閉店と聞いてどこかショックだった。
コロナ禍を過ぎて、たぶんコロナの影響だろうと思うが、知らないうちにあちらの飲食店がひとつ閉じてこちらでひとつ閉じて、と街が歯抜けのようになっていることに後から気づいた。
飲食店というものはなかなか大変な商売だとあらためて思う。
素人の私が、軽はずみに言うのは憚られるのだが・・・。
和食店の閉店を聞いたことで、今までお世話になってきた飲食店が走馬灯のように私の頭の中を駆け巡り始める。
そんなキッカケで今回は、これまでに印象に残っている飲食店の話をしてみたい。
それは自分がどんな店に引き寄せられるか?というところにつながるものになった。
対照的な居酒屋さん
まず思い出したのはずいぶん前に住んでいた家の最寄り駅にあった居酒屋さんのことだ。
閉店した和食屋さんの前に、こちらの話から始める。
対照的なお店が目と鼻の先にあった。
1軒は、大手チェーンの系列店。
切り盛りする厨房3名とホール2名は誰もが若い。
彼らの特徴は高いモチベーションをベースにした頭と体の高速回転だ。
来店時には過剰に感じられるほどの複数の元気な声で迎えられ、着席するやいなや、おしぼりとメニューが提供される。
「お決まりになりましたら声掛けください。」という言葉が私の「とりあえす生!」という注文の後のわずかな間を察知して巧みに挿入される。
その後も、グラスが9割ほど、そしてアテも9割ほど食べつくされた最高のタイミングでそれぞれ「おかわり(追加何か)いかがですか?」と声をかけられる。
さずが大手、実にしっかりと教育されている。
誰一人遊ぶ瞬間もなく、5名のコンビネーションは見事なもので感服したのだった。
ある時、そんな店にも不測の事態が訪れる。
ひとり来店した年配の女性客が会計時に、「財布がない」と言い出した。
財布を、最初から忘れてきたのか?あるいはこの店の中か、この店に来る途中で落としたのか?
ひとりのスタッフがその女性に付きっ切りでやりとりするが、反応がどうも曖昧で時間がかかっているようだ。
あまりにも曖昧なので、確信犯なのではないか?と疑わしくすら思えてくる。
ずーっと押し問答が続いた末に、最後は警察を呼ぶことになったように記憶している。
1人のスタッフが女性に付きっ切りになることで、お店が誇る?見事なコンビネーションは崩れてしまい、私のグラスが空いても追加注文を取りに来るスタッフはいなくなった。
なるほど、この店の完璧なフォーメーションは余裕があるように設計されていない。
平時用の設計は有事では脆い。
しかし、最初から有事用に設計するわけにもいかんのだろう・・・。
次の杯まで時間を持て余す私は、飲食店評論家にでもなったかのように素人分析をひとり脳内で繰り広げ、悦に浸るのだった。
対するもう1軒は、高齢のご夫婦中心の家族経営の居酒屋さん。
小上がりもあり、家族数人ではとても回せないような、だだっ広い店だ。
大丈夫か?と心配したが、着席してすぐに合点がいった。
メニュー脇に「料理にはお時間がかかります。」という表記があったのだ。
チャンと上手く帳尻を合わせるものだ。
そこに「時間がある人だけいらっしゃってください」という裏の意味を感じた。
案の定、ドリンクが運ばれてくるまでも数分かかって、その後も時間はゆっくりと流れた。
店員も焦る様子は全くなく、常連さんとにこやかに会話している。
常連さんもじっくりとその時間を楽しんでいるようだった。
さて、この2軒を並べてみると・・・・。
当時の私はというと、多忙を極めていたため、スッと食べてチャッと帰りたい。
そんなだから手際のいい大手系列店が素晴らしく映っていたのだと思う。
確かに家族経営店では相当イライラして、その後平日に入ることはなかったと記憶している。
それでもこの家族経営の店のことは、なぜだか今でも鮮明な記憶として残っている。
閉店していた和食屋さん
ここで冒頭の閉店していた和食屋さんに戻る。
こちらのお店は料理も美味く、日本酒も数多く揃えていたこともあり、近くにこんな店はないから、当時私のお気に入りだった。
若いご夫婦が切り盛りしていて、日本酒ソムリエ(利き酒師)の資格を持つ奥さんが日本酒についていろいろ教えてくれる。
山廃仕込み(米や米麹をすりつぶす工程を取らずに乳酸菌の力だけで発酵させる製法)の日本酒は、鯖塩焼きには味が強すぎるが、鯖みそ焼きによく合った。
※山廃仕込みは、概ねコクや酸味が強い印象のお酒だ。
これを食べ比べと呑み比べで体感させてくれたのはこの店だった。
ところが、いつからか足が向かなくなっていた。
それは早コロナ以前だったようで・・・。
だから、閉店して2年経っても気づかなかったのだ。
思い返してみる。
すると、たわいもないことが浮かんできた。
こちらの店で料理を担当している旦那さんは、無口であまり愛想がない人だった。
それでいて、奥さんに対してすごく厳しい人のようでもあった。
料理に対して、あるいは時にお酒に対しても、奥さんが間違ったことを言おうものならば、冷たく訂正してしまう。
これぞ厳しいプロの料理人という感じ。
ほとんど笑った顔を見たこともなかった。
ある時、私が日本酒の説明を受けて、奥さんと話が盛り上がっている時、厨房の旦那さんの目線から感じるものがあった。
私が感じたもの、それは、奥さんが私(というよりお客さん)と盛り上がることを好んでいない、といったような感覚だった。
私のただの勘違いだったのかもしれないのだが、そのことをキッカケに私はこの店から知らず知らずのうちに足が遠のいてしまったのだった。
自分が「好まざる客」であると認定されたように感じて、店の敷居は一気に高くなったのだと後から振り返ることになった。
最高のお店
最近、「最高!」と感じたお店があった。
とある有名な餃子専門店だ。
久しぶりに入店したところ、そこの野菜炒めが美味しくて、ビックリした。
家でも野菜炒めはよく食べるが、味付け、炒め具合が全然違う。
”美味しい”をしっかり感じるには、やっぱりこれまでどおり、普段あまり美味しいものを食べないでおくことに尽きる!そう確信した。笑。
この人気店はひっきりなしに入ってくるお客さんを5名の中国人が迎える。
私が入店した時はまだ忙しくなる前だったからか、注文して約20秒後に飲み物が、1分を待たずに餃子が、そして2分を待たずに野菜炒めが届いた。
もちろん混雑時はこうはいかないのだろうけど・・・。
私が最高の店というのは、味の美味しさや手際の良さのことではない。
この店の店員さんの放つ空気感とでもいったようなものが最高だったのだ。
お客さんを常に観察していて、お客さんの頭が動き目線が変わったと察知した瞬間、「何か御用ですか(追加ですか)」というような視線を合わせてくる。
注文を受ける用意は常に万端というところだ。
このような気遣いーそれは最近私は忘れかけてしまっていてほとんど店員さんに期待しなくなっていたーが、この店にあった。
しかもそれが、高級店で客数が限られる店ならばともかく、大人数がやってくる店に見つかったのだ。
そしてこれは私の偏見だろうけど、私は中国人の店員さんにどこか「ビジネスライク」といったようなものを感じていて、とりあえずお金のために働く、ということに割り切っているからか、無駄なお客の目線の動きなど見やしないものだ、という相場がどこか出来上がっている。
そうは言ったものの、最近は日本人だからと言って変わらないなあ、とすかさず自分相場を修正する・・・。
ともかく、この店は私にできていたこの相場を見事に打ち破るお店だったのだ。
更に、お店は厨房の中まで見渡せるつくりになっていて店員さん全員の顔が見えるのだが、真剣な中にもところどころに挟まってくる会話とともに笑顔がある。
気を抜かず気遣いをしていながらにして、今を楽しんでいる、今を満足してる、どこにも文句がないような雰囲気。
一瞬一瞬を満足しているから、余裕があってお客の目線に抵抗なく気が付くような感覚とでも言おうか・・・。
このような余裕が感じられた。
一体この余裕はどこから来るのだろうか?
やはり、経営者の方針だろうか?彼らの能力からだろうか?商品の素晴らしさの誇りからなのか?待遇からなのか?彼らの絆ゆえなのか?
繁盛店においてこんな空気をまとっている店が他にあるのだろうか?と考えた時に全く思いつかない。
このような普段の当たり前のような余裕ある平和をまとった店は都内にはもうなくなってしまったのではないだろうか?
そんな妄想をしていると、追加餃子がたぶん外の工場から木箱に入って届く。
運んできた男性は、木箱を渡す時に「この木箱は新しい、手をスライドさせると棘が刺さるから注意して・・・」と一声かける。
またここにも当たり前と言えば当たり前の配慮と、そしてその配慮ができる余裕が感じられるのだった。
何をもって飲食店を選ぶのか?
ここまで私がお世話になってきた数々の飲食店。
その飲食店にはそれぞれの個性があり、どんな人と何の目的で入るか?によって選択が変わったりするものだ。
それでも繰り返し通いたいと思う店には、それなりの理由があることに今回いろいろ思い出してみて気づかされることになった。
まずは、「美味しい」だけで店を選択していないということだ。
他に大好物の料理が置いてある店、好みのお酒を置いてある店、など魅力的で美味しい店はいろいろあったのだが、行かなくなってしまった店も多々ある。
極端なケースをあげると、何回行っても店主がウェルカムモードにならず、扱いが初来店と同じままだった店、店主に何度声をかけても無視される、という徹底した店などなど・・・。
やはり自分の感覚は、人で店を選んでいるようだ。
少なくともお愛想でもって私自身が受け入れられるということが、食欲を上回るのだ。
そして、加えて言えばそれがどこか無理なく自然体のうちにある、ということになるだろうか?
紹介した大手系列店と最高の餃子専門店。
どちらもお愛想があってお客さん対応は申し分ないのだが、大手系列店のあのテンションとスピード、片時も気を抜いていない状態、合間に緩んだ笑顔がない状態は、生理学的に長く続かないだろう、という感覚がある。
この店は若い彼らにとっては、将来自分の店を構えるための修行期間なのだろう。
それゆえに無理をしている。
若さと目標が無理をさせている。
今になってはそんなように感じてそこに不自然さを感じるようになった。
これは私が特にグウたらだからそう思うだけなのかもしれないが、一方の餃子専門店はとにかく自然に感じられた。
過剰なお愛想はないが、目線への気遣いが普通にあって、時々冗談っぽいことを言ってはニコニコし合っている。
これが何とも自然に感じる。
最初に紹介した家族経営の居酒屋も、そのゆっくりした切り盛りが今になっては自然に感じられて、餃子専門店と共通するように思えてくるのだ。
余裕のない設定が利益を生むんだから、このあたりが、ブラック企業なのか、ホワイト企業なのか、そもそもの資本主義というものの永遠の課題といったところなんだろう。
さて、「愛想」という言葉の英単語を調べると「affection」となり、逆に「affection」の和訳は「愛情」となっていた。
「愛想」というとあくまでも商売上の愛情というニュアンスも感じられるから、英語にピッタリする言葉はやはりないんだろうが、英訳すると逆に物事を単純にわかりやすくなる。
単純になるがゆえにストレート過ぎてこっ恥ずかしくもなるところがあるのだが・・・。
敢えて、ストレートに捉えてみよう。
飲食店が提供しているものとは、料理に込められた愛情とその料理の周りのおもてなしの愛情である。
商売上の愛情ではあるが・・・。
私という者はどうやら柄にもなく飲食店におもてなしの愛情を求めている、と言えるのではないか?
何も格別丁寧に扱われたいのではない。
ただ、ただ、普通にほんの少しだけ喜んで受け入れてほしい、ということだけなのだ。
たぶん、今周りにいる人々からの愛情(愛想)だけでは、足りないほど私と言うものは欲が深いということなんだろう。汗。
だから飲食店にも愛情(愛想)を求めてさまよい続けているのだ。
しかも、その愛情が無理なく自然であって欲しい、などと更に欲深い・・・。笑。
たぶんこの先も変わらずこのような自然な愛情(愛想)を求めて店を選び、さまよい続けるのだろう。
今回こんなお恥ずかしいところに着地してしまうのだった。
さて、ここまで書いてきて、飲食店に対して自分の「欲」を一方的に振りかざしてきてしまった、と感じてかなりバツが悪くなる。
お店の方だってお客さんを選ぶんだよ、と・・・。
飲食店から愛情をいただくには、飲食店をどうこう言う前に、私自身が受け入れてもらえる者でないとならない。
調子こいて「招かざる客」になってはいないだろうか?
うーむ。
「自分の方こそ、お店の方に愛情をもって接しよう!」
そんなことを最後に強く自分の肝に銘じるのだった。
繰り返すが、愛想を愛情に変換してしまったことでより柄になくなって、全くこなれてない宣言で終わってしまった。恥。
【著者プロフィールと一言】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
今回書いてみて、飲食店に限らず自然に振る舞う、あるいは自然体で過ごす、ということはかなり難しいことなのではないか?
そんな風にも感じられました。
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最後まで読んでくださりありがとうございます。
これからもRANGERをどうぞご贔屓に。