またひとつ自分の固定観念に気づく。気づくたびに自分は楽になれるのだ!

「完璧になるのが怖い。正と負がどちらもあると信じてるから上手くいったらマイナスが起こると信じてる。だから大きいダメージが来る前にちょっとだけミスしたりすると何故かホッとする自分がいる。悪癖。」
ある人のこんな投稿が妙に気になった。
自分にもこれに近い感覚があったことを思い出したのだ。
成功の前にどこか手を抜いてしまったり、上手くいくとどこか不安になるような感覚だ。
忘れていた感覚ではあるが、無自覚なだけなのかもしれないと疑ってみる。
もしいまだに持っているのならば、自分の完璧を目指すことを自分自身が拒否している状態でずーっと生きている、ということになる。汗。
それは何と消耗の激しい生き方だろうか!
そうならば大変なことだ!笑。
そんなような感覚は、すぐにでも捨ててしまいたい!
この感覚はどうやってできたものだろうか?
そして、その感覚を捨てずに持っていたのはなぜなのだろうか?
矢継ぎ早に疑問が湧いてきて、気になって放っておけなくなってしまった。
どこから始まった?
このような感覚は既に、子供の頃にはあったんだと思う。
「いいことばかりは続かない、調子に乗るんじゃない。」
そう親に言われたことが始まりだったのかもしれない。
そこから自分がいろいろチャレンジする中で、確かに人生とは上手くいくことばかりではない、ということがわかるようになる。
初めて親から言われた時は納得がいかなかったが、確かに間違いではない、と後からこの言葉を実感するようになった。
そのうち、こんなことも認識するようになる。
宝くじに当たった人が当たり前のように言う、「帰り道、注意します!」というもの。
同様にホールインワンをしたプロゴルファーがインタビューで「帰りの運転、気をつけます!笑」と最近もまた言っていた。
これらは昔と何も変わっていない光景だ。
ラッキーなことが起こった時にすぐさまアンラッキーに備えることが、(日本では?)常識になっている。
これらを更に補強するかのように、陰陽説というものが存在している。
この古代中国の考え方は、万物はすべて「陰」と「陽」という2つの相反する性質を持つものから成り立っていて、陰陽は互いに依存し、対立し、そして変化し続ける中で、バランスを保って存在すると考えられている。
この陰陽説からすると、良いことがあるとバランスを取るように悪いことが起きる、と捉えることができるわけだ。
私は、このような情報によって、正(陽)が起これば負(陰)が起こる、ということに自然と馴染んできたように思う。
良いことと悪いことは同じだけ起きるのか?
さて、ここまでを振り返ってみて、今一番引っかかるのは、良いこと(正)と悪いこと(負)は人に同じだけ起こるものなのか?ということについてだ。
人生、良いことも悪いことも起こるものだ。
確かにそうは言えるんだろうけど、良いことが起こった分だけ、悪いことが起こる、とホントに言えるんだろうか?
ひとつの良いことが起こった後に、悪いことが起こる可能性は何%高まるというのだろうか?笑。
そして、悪いことが起こる確率が高まったとして、宝くじが当たったという良いことの直後の帰り道にキレイに対応するように悪いことが起こるものだろうか?笑。
人生はそんな工場のように整然とされたものではあるまい。
もしそうならば人生はもっと楽で退屈なものだろう。
更に言えば、良いことと悪いことが同じだけ起こってバランスが取れていると言った時に、良いことと悪いことは同じ数だけ起こるんだろうか?
数ではないのならば、良いことと悪いことの程度でバランスするんだろうか?
程度でバランスするものならば、その程度というものを測る基準はどんなだろうか?
少なくとも私が世の中を見渡した時に、不幸なしで生きている人はさすがにいなさそうではあるが、みんなが幸と不幸が同量だとも思えないし、同程度あるともとても思えないのだが・・・。
陰陽説を今一度疑ってみると・・・
そもそも陰陽説の正負が同量あるという意味合いは、単純に正負が同じだけ起こる、と言っているのではなくて、正が起こった時点で既にそれに負がセットされているという意味合いではないだろうか?
例えば、宝くじに当たったという正が、お金にたいする価値が以前と変わってしまって結局散財してしまうという負とセットになったり、仕事に真面目に取り組めなくなる、といった負とセットになるようなことだ。
あるいは、タクシーが偶然つかまった、という事象では、歩かなくて楽という正、早く到着できるという正、同時に、お金が減るという負、足腰が弱るという負、などが同時に含まれる、というようなことだったり・・・。
微妙ではあるが、この捉え方の違いは非常に大きいと感じる。
こうして私は、良いことと悪いことは人に同じだけ起こる、ということを徹底的に疑ってみないと気が済まない。
「調子に乗るんじゃない」に込められているもの
親が「いいことばかりは続かない、調子に乗るんじゃない。」と言った意味合いについても、振り返ってみたい。
宝くじに当たった時、あるいはホールインワンを出した時に、人は舞い上がっていつもの自分ではなくなってしまう、というようなことはよくあることだ。
だから、注意散漫になって事故を起こしやすくなったりもする。
これは理解できる。
そういう意味で言えば「帰り道注意します!」というのは、理にかなっている。
良いこと(正)による浮ついた精神状態が、悪いこと(負)が起こる確率を高めているのだ。
「帰り道注意します!」は、散漫になってしまわないように自分を引き締めるという意味で、ある種の自分への暗示として有効だ。
混同しやすいが、決して正と負が同じだけ起こるから、注意喚起が必要なのではないことは、繰り返し言っておきたい。笑。
そしてこのことと同様に、「いいことばかりは続かない、調子に乗るんじゃない。」は、散漫にならないための注意喚起なのだ。
また別にもうひとつ思い浮かぶのは、「いいことばかりは続かない、調子に乗るんじゃない。」は、「出る杭は打たれる」ということに対する保険だったのではないか?ということ。
私の田舎もご多分に漏れず、嫉妬というものが蔓延する場所だった。
日々いいことばかり、と言わんばかりの顔をするだけで、その嫉妬から警戒されたり嫌がられたりする。
そういったある種の恐怖を避けるために、周りと協調しようとするから、私なんか・・・という具合に謙虚さが無意識に働くようになって、完璧を壊すためにわざとミスを自分で手繰り寄せるまでになったのではないか?
そう考えると、「いいことばかりは続かない、調子に乗るんじゃない。」は、表の気の緩みに対する注意喚起に対して、裏には周りとの調和の強制が含まれていたように思う。
ーーーーーーーー
完璧によって起こってしまうと思い込んでいる悪いこと(負)を恐れてわざとミスをするなんてことはもったいないことで、それよりは、完璧に仕上げた後に、それに浮つかないようにする方がよっぽどましのように思う
ここまで考えることで、やっとそう思えるようになる。
頑固なことに、私はここまで考えないと染み付いた感覚から抜けることができないのだ。汗。
固定観念から自由になる
さて、ここまで相も変わらず、四の五のと言ってきたわけなのだが・・・汗。
それであらためて気づいたのは、やはり私という者は周りに協調するために知らず知らずのうちに自分を犠牲にしてきたということ。
そして、雑に拙速に周りで言っていることを鵜呑みにして、その惰性によって今も生きているということだ。
その結果、正負が人に同じだけ起こるというような固定観念を自分の中に作り出してしまったのだ。
今回のことで、私は恐怖を避けるために、故事成語を盾に物事を単純化して、簡単に固定観念というものを作ってしまうものであることがわかった。
固定観念は簡単にできてしまうから、まだまだ自分の中に固定観念が隠れているに違いない。
この固定観念が良くないのは、それに気づかないまま、ということがよくあることだ。
そうなると意味もわからず結果が出なかったり、シンドイまま生き続けることになる。
これからも、事あるごとに自分の固定観念に気づいてもっと楽になりたいものだ。
「一体どこまで楽になれば気が済むんだ!?」
そう知り合いに突っ込まれそうではあるが、そう思ったのだからしようがあるまい。汗。
追記
冒頭の「ちょっとだけミスをする」で思い出したのが、日光東照宮。
「未完の美」という思想があって完璧は神の仕業で、人間の仕業と敢えて区別するために、宮殿を完璧にせずにミスを残した。
そしてそれが転じて、「建物は完成と同時に崩壊が始まる」という言い伝えが広まったらしいのですが・・・。
こうしてみると、この思想も宝くじが当たった時とと同様に、人間に対して、「浮つかずに常に謙虚でいなさい」という注意喚起しているように感じてくるのです。
UnsplashのBrian Lundquistが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
コメントを残す