田中 新吾

「相思相愛」から「相思相敬」に座右の銘がアップデートされた話。

タナカ シンゴ

自分の話になってしまい申し訳ないが、私の「座右の銘」についての話である。

つい最近まで私は以下の3つを「座右の銘」としていた。

人生一生自己紹介

照一隅

相思相愛

一般的には、日々の生活において常に自分に戒めとする言葉は一つだけのように思う人が多いのかもしれない。

しかし、個人的には、誰かから聞かれた時に「たとえばひとつだけ答えてください」と指定された場合のみ選べばいいので、いくつ持っておいても良いのではないかと考えている。

以前、宣伝会議のコピーに「言葉を君のエンジンに」というものがあったが、一つのエンジンでよく動く人もいれば、複数あった方がよく動く人もいる。

私の場合は完全に後者だ。

ただ、あればあるほど良い訳でもない。

10個20個あっても宝の持ち腐れになってしまうと思うところから試行錯誤の末に「3つ」という枠を設けている。

ちなみに、この枠の運用についてだが、入れ替わりはOKとしており、実際過去に座右の銘としていたものが今は外れているものもある、といった具合だ。(例えば、一張一弛など)

そうしてこんな具合に運用をしてきたところ、最近になって「新しく面白い体験」をしたのでここに書き留めておきたいと思った次第である。

何かと言えば、座右の銘が「入れ替わる」のではなく「アップデートされた」のだ。

具体的に言えば「相思相愛」が「相思相敬」に成った。

本題に入る前に、他二つの座右の銘についても少しだけ書かせていただきたい。

まずは「人生一生自己紹介」から。

この言葉は私が以前お世話になっていた経営者の方が持っていたものなのだが、現時点でこの考え方に心から共感するため座右の銘にさせてもらっている。

以前記事にもしたことがあり、最近始めた音声コンテンツでもお伝えしているとおり、人生というのは本当に自己紹介の連続だ。

自己紹介を起点に出会いが生まれ、その出会いの応対によって関係性が構築されていく。

言いたいことが同じだとしても表現の仕方一つによって出会い方は本当に180°変わる。

だからこそ出会いや関係性の起点となる「自己紹介」にこそ傾注してそれを一生を通じて行っていくべし。

「人生一生自己紹介」はこんな考え方のものという解釈でいる。

関連記事:「人生一生自己紹介」を「アウトプット中心の生き方」だと捉えたら、腹に落ちた話。

こうして習慣的に書いている記事も、最近はじめた音声コンテンツの配信も、Twitterの運営も、仕事における日々のアウトプットも。

どれにも共通して「人生一生自己紹介」が根底にあるといった具合だ。

そして次の「照一隅」もある方からの影響によって座右の銘としたものだ。

「中村哲医師」という名前を聞けばピンとくる人も多いのではないだろうか?

ご存知のとおり、アフガニスタンにおいて数十年にわたり、恵まれない人々に医療を提供してきた人物であり、多くの人から深く尊敬されている方である。

しかし本当に残念ながら2019年に現地の武装勢力に銃撃され、死去することとなってしまった。

私が医師の名、そしてその数々の素晴らしい功績を知ったのは恥ずかしながら「死亡した」というニュースを、たまたまサウナの中で見ていたTVで見聞した時だった。

その後、気になって医師が書いた著書を読み分かったことは、中村哲という人物は「解決すべき課題が目の前にあるならなんでもやる人物」だったということである。

アフガニスタン山岳地域に3つの診療所を開設。

ハンセン病対策のために足を傷つけないサンダル製造を事業化。

大旱魃に見舞われたアフガニスタン国内の水源確保のために井戸掘削と地下水路を復旧。

全長25キロメートルにも及ぶ灌漑水路を建設。

病院で銃撃戦が始まりそうなときには自ら武装勢力と交渉。

医者という範疇を遥かに越え、素晴らしいという言葉では到底言い表すことのできない功績の数々である。

死去から3年たった今、彼の遺志は現地民に受け継がれ農業振興が進んでいるという。

関連記事:中村哲医師の遺志を継ぐアフガン、農業振興へ取水施設が完成…タリバンは異例の写真掲揚容認

そんな中村哲医師が座右の銘としていたのが「照一隅」である。

当時この言葉について早速調べてみると伝教大師最澄の精神を受け継いだ言葉であることがも分かり、この考え方に大変感銘を受けた私はこの当時から中村哲医師をメンターの一人に決め、「照一隅」という座右の銘も拝借させていただくこととした。

私がこの先の未来において彼ほどの功績を残せるとは微塵も思えない。

それでもこの言葉を自分のエンジンにさせて欲しいと心から思い座右の銘としている。

そして、主題の「相思相愛」から「相思相敬」に座右の銘がアップデートされた件についてである。

私は「相思相敬」にアップデートされる以前までは以下のとおり「相思相愛」という言葉を座右の銘にしていた。

このツイートをしたのは2018年だが確か2017年くらいから用いていた覚えがある。

「こちらが欲するのと同時に向こうも選んでくれる間柄にならないと最終的にはいい結果にならない」

20代の仕事経験の中から本当に痛感したことだった。

だからこそ、お互いに思い、お互いに愛情を込める、そういう関係性を目指していきたいというスタンスを表すものとして「相思相愛」を用い、用いてきた。

ちなみに前述の二つとは異なり、誰かの座右の銘を拝借したものではなく、タイミングもきっかけも覚えていないが何かと結びついてふと頭に浮かんできたものだ。

そして、この座右の銘を用いるようになり5年ほどが経った今年の11月、その時偶然読んでいた本の影響に受けて「相思相敬」へとアップデートされるという事態は起きた。

『変調「日本の古典」講義 身体で読む伝統・教養・知性』という本である。

2017年に発刊されたもので、能楽師の安田登氏と思想家の内田樹氏が、能、論語、古事記などの古典を題材にした対談講義で、読んでみるとその内容は大変濃厚。

「そういう見方もあるのか!」と思わせる新しい発見がとても多かった印象だ。

私の考えを改めさせるに至った話題は、本書を読み進めていると突如現れた。

それは「本当の敬意が心を開く」という項目にあった。

長く感じるかもしれないが、私に大きな影響を与えた箇所ということで引用してご紹介させていただきたい。

以下は全て内田樹氏の話である。

我慢しながら教えるということはできないですね。

僕も楽観的な人なんです。

どんなにできない子でも、可能性がゼロだとはどうしても思えない。ここまで才能がないというのも一種の才能といっていいのではないか、と(笑)。

人の話も聞かないし、自分の意見も言わない人っていますけれど、こういう頑なさもある種の誇るべき個性なんだと思う。

だから、ほんとうに「たいしたもんだな」としみじみ眺めてしまう。

心からそう思っているから、僕の眼から「敬意のオーラ」が向けられていることが本人にも分かる。

そうすると、どんなに頑なな人でもちょっと心が開くんです。

自分が「しみじみ感心されている」ということは、どんな人間でも分かる。

閉じられた扉を解錠する鍵があるとすれば、それはつくりものではない本当の敬意だと思うんです。

愛情じゃなくて。

人間て、愛情にはあまり反応しないんですよ。

でも敬意には鋭く反応する。

犬でも猫でもハムスターでも愛情の対象になるじゃないですか。

でも、人間はそれだけでは心を開かない。なぜか。

たぶん人間は、他人に愛されたときには「愛されて当たり前」というふうに他人の愛情を既得権益に算入してしまう自分勝手な生き物だからなんだと思う。

でも、敬意はそうはゆかない。

敬意は「この人には何か余人をもっては代えがたいところがあるな」という評価を含んでいるから。

それは言い換えると「この世に存在していることの意味」なわけです。

あなたはこの世に必要とされている。あなたはこの世に存在する権利がある。

あなたにしかできない仕事がこの世にある。

それが敬意が伝えるメッセージじゃないかと思うんです。

だから、いくら「愛している」と言っても開かない心が、無言の敬意に対しては反応するということが起きる。

教える人たちって、でもそのことをけっこう勘違いしているんじゃないかと思う。

子どもたちに対する溢れるような愛情があれば、きっといつか気持ちが通じるって信じている教師がいますけれど、残念ながら、この期待はしばしば裏切られる。

愛情って、意外に報われないものなんです。

でも、敬意にはどんな頑なな子どもでも反応する。

愛よりも敬意のほうがより強く自分の存在を認めて、自分の価値を評価するものだということが直観的に分かるから。

いかがだっただろうか?

人間は愛情にはあまり反応せず、敬意に鋭く反応する」という主張と、その理由について今の私は直感的にとても納得がいった。

以前、敬意のなさは相手のパフォーマンスを下げてしまうという記事を書いたことがあったがこことも当然リンクしている。

関連記事:「敬意のなさ」を態度で示すことの問題は、「相手のパフォーマンスを下げてしまう」ところにある。

そしてこの内田氏の考え方との出会いが「相思相敬」という座右の銘へのアップデートをもたらしたのである。

ちなみに、相思相敬は「人間関係において愛情以前に敬意の方がずっと大事」というスタンスのことなのだが、私が勝手に作った造語だ。

同時に「相思相敬」という座右の銘を用いる上で、十分に気を付けなければいけないことも考えることがあった。

思うに「敬意があれば人をコントロールできる」と思ってしまうことは敬意ではない。

人間が敬意に鋭く反応するのであれば、敬意を示しておけば相手をコントロールすることができると思ってしまいがちである。

しかし、どこまでいっても他人をコントロールすることはできないし、そう考えることは本当におこがましい。

敬意というメッセージを受け取った相手はそれによってもしかしたら動いてくれるかもしれない。

でも、考えを変えるか変えないか、行動するか行動しないかは本当に相手にしか決められないことなのだと私は強く思う。

敬意を示す側にできることは、あくまでも相手に対して敬意という「環境」を誠実に提供することのみ。

その先は完全に相手次第。

こういう考えを根底に敷いておかないときっとおかしなことになってしまう。

十二分に注意を払って用いるべき言葉だと個人的には思っている次第である。

しかし、座右の銘が、入れ替わることはあるにしても、まさかアップデートされることがあるとは思ってもいなかった。

本当に新しく面白い貴重な体験ができたと今ふりかえっている。

2023年7月にはスタジオジブリによる「君たちはどう生きるか」という映画が公開されることで今話題だ。

思うに、自分の座右の銘を考えることというのはまさに「どう生きるのか」を考えること。

そして座右の銘を表明するということは「ライフスタンス」を示すことにも繋がる。

以上が座右の銘について考える何かの参考になれば嬉しい。

UnsplashTiago Felipe Ferreiraが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

著者:田中 新吾

プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスクと時間を同時に管理するメソッド)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車。

●X(旧Twitter)田中新吾

●note 田中新吾

ハグルマニの週報

前職マーケティング会社の先輩の座右の銘は「ビールとユーザーの声は「生」にかぎる」だったのですが、機知に富んでいて覚えやすく今でもよく覚えています。

こういう座右の銘もいつか手にしてみたいです。

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