RYO SASAKI

本当に自分がしたいことは何か?~「暇」が増えた豊かな時代に今一度考えてみよう~

タナカ シンゴ

私は子供の頃ゲームが好きだったが、大人になってからはほとんどゲームというものをすることがなくなっていた。

やると面白いんだろうけど、やり始めると時間がいくらあっても足りないし、大人としてダメになってしまうような気がした。

最近になって敢えてゲームを遠ざけてきた自分を超えてきたゲームがある。

それは、タウンシップという都市開発するスマホゲーム。

出典:https://www.pinterest.jp/pin/745416175833773142/

畑に種をまき、収穫物を販売し、稼いだお金で工場を建設する。

そうして街を大きくしていくというものだ。

昔好きでやっていたシムシティーに近いから惹かれたのかもしれない。

無料でDL(ダウンロード)できるし、ビジュアルも細かくて素晴らしい。

そして何よりも課金を誘発する仕掛けが満載だ。笑。

ちょいちょい期限が設定された競争ステージが現れるし、それに対してご褒美がある。

数十年前のゲームからの進化には驚くものがある。

沼にハマりそうだと感じ始めた時に、ある人が読んで感動したという本と出会った。

「暇」と言う言葉を聞いて「人生は死ぬまでの暇つぶし」という、マンガ家みうらじゅんさんが言った言葉を思い出した。

そしてまた、ここ数年で「人生100年時代」と言われるようになった。

この2つの言を合わせると暇つぶしの時間が長くなったと言えるのではないだろうか?

私は、今まさにこの「暇」をスマホゲームに充てようとしているのだろうか?

いや、それでも自分は「暇」だと感じることがない。

それはなぜなのだろうか?

今回は、この本にヒントをいただきながら、人生の「暇」について思ったことを書いてみたい。

先週の記事に「人生は一瞬一瞬の経験の積み重ねが大切だ」と書いた。

その舌の根も乾かぬうちに、その逆の「人生は死ぬまでの暇つぶし」に自分は納得してしまうのだろうか?

「暇」と「退屈」が増えた現代

こちらの本の中で私が気になったところをいくつかピックアップしてみる。

~「暇」は自由にできる物理的な時間のことで、「退屈」は主観的な感覚のことである~

「暇」と「退屈」は似ているが別モノであると定義している。

仕事中など何かをしている時にも退屈を感じたりもする。

そしてまた、人は安定してくると退屈になるものだ。

初めは稼ぐために、そしてその先に「暇」な(自由にできる)時間を獲得するために、そしてそれらによる生活の安定を求めて忙しく働く。

それは、「暇」な時間を獲得するためでもある。

忙しいのも嫌だが、安定が得られて、「暇」な時間を獲得してしまうと、今度は「退屈」してしまう。

安定ーそれは同時に「退屈」ーを求めていたのに「退屈」を嫌がるというように、ずーっと足りないものを追いかけ続けている。

何とも貪欲で滑稽だ。笑。

若い頃は貧しかったが楽しかった、といった印象をよく聞く。

まさにこれがこのことをわかりやすく表してはいないだろうか?

安定した今現在でもなお、ないものを過去に求めてしまうのだ。

~現代は豊かになって「暇」と「退屈」が増えた~

経済の発展、それによる経済格差は、金持ちの「暇」と貧乏人の「退屈」を増やした。

確かに大昔に比較すると、四六時中働かなくても食える人が多くなった。

「退屈」な仕事があるのも残念ながら納得する。

発展した、というならば、暇な(自由にできる)時間が増えて当然のことなのだろう。

では、人類はこの余った時間を何に使ったらいいのだろうか?

楽しく遊ぶことに使う?

社会をよりよくするために使う?

100年前のイギリスの社会主義者ウィリアム・モリスの結論は、自分の生活を芸術的に飾ることに使う、というものだった。

現代ではこれは一つの方法ではあるとは思うのだが、これがすべてだとはとても思えない。

どうやら、「暇」を何に使うのか?現代人における答えは出ていない、という状態である、と置くことができるようだ。

暇な(自由にできる)時間を現代人はどう使っているのか?

数々のエンタメが流行っては飽きて?下火になるのを繰り返しているようにも思える。

SNS全盛もどこかでピークを迎えるのだろうと思う。

100年先の未来の人々は、今をどのように時間を使った時代だと総括するのだろうか?

人生100年時代の時間の使い方

「暇」な時間が増えた現代に、更に寿命も伸びた人生100年時代。

この「暇」をどう生きるのか?

そもそも人は目標をもってその目標達成のために・・・生きるものだ。

あるいは、人は課題を見つけてその課題を解決しようして・・・生きるものだ。

だからまず、課題を解決して、最低限の食えること、そして身の安全を獲得してきた。

これらは誰にとっても共通の目的であり、課題だったのだ。

これが満たされた(年金も含めて)時に次の目標、課題はどういうものになるか?というと、たぶん、それぞれの目標であり課題になるのだろうと思う。

目標や課題と言っても大げさなものだけでなく、今日はこれを食べよう!、あるいは、夜更かししよう、というようなものも日々の目標になる。

当たり前ながら、もはや共通のものを見つけることはできない。

人は災害などに向き合った時に目標や課題が共通のものになるのであって、平和であればえるほど目標も課題もバラバラになる、と理解としていいのではないだろうか。

つまり、自分で決める自由がある、ということだ。

何をやってもいい。

好きなことをやればいいのだ。

冒頭で書いた私のスマホゲームも面白いからそれでいいのだ。

私がスマホゲームを肯定する材料を探していたのだろうか?

面白いからいいのだ、と私自身を納得させなければならないのはなぜか?

私は、自由を求めるもののその自由に面食らっている面があるのではないか?

それはここまでに何か常識に身を任せてきたところがあったからかもしれない。

自由には戸惑いがあるが、今の時代、まさに「暇」を何の時間に充てるのかについてかなり広範囲に自由が開かれている。

本当にやりたいことをやればいいのだ。

100年時代にどう生きるのか?

私の一旦の結論は、

「暇な時間に(その人が)熱中できる何かをして生きること」

というところに至った。

これをした結果、後から眺めると以下のことができていることになるのではないだろうか?

・何か(仕事、他何でも)を成し遂げていること

・何かに詳しくなっていること

・何(誰)かのためになっていること

・感情(喜怒哀楽)を揺さぶられること

・今日より明日に何かが変化していること

あくまでも私独自の、そして私の今のものだ。

これはずいぶん曖昧で、結果的はずいぶん欲張りなものになってしまった。汗。

文化産業は暇の搾取である

こうして、スマホゲームが肯定されたのだが、そのタイミングで著者からなかなか激しい言葉が示された。

~文化産業(エンタメ、観光、芸術などの産業)は暇の搾取である~

これは、ホントにスマホゲームがあなたのやりたいことですか?

もっと他にやりたいことがあるんじゃないんですか?

というなげかけだ。

本当にやりたいことではないのに、文化産業が簡単に手に入ってそこそこ”面白い”だけで、そこに流れてしまってはいないか?

もし、ここまで文化産業がない時代に生きているとしたならば、あなたがやりたいことは何ですか?

うーむ、意表を突かれてしまった。

でも私は文化産業の豊かな時代の申し子だ!

その申し子に向かって「それがなかったとしたら・・・」とは何事か!笑。

文化産業は、そのマーケティングを駆使して、多くの人が面白いように努力してサービスを提供しているではないか!それを搾取だ、というとは!

・・・

少しクールダウンして考える。

これは、GHQの3S政策と似てはいるが、どうやら目的が異なるようだ。

※3S政策の目的は、考えなくさせること。

確かに現代は面白いものが溢れていて、知らない間に惰性でそれに流れてしまうことが容易に起こっているように感じられる。

「暇」だと感じない理由もわかった。

面白いものが簡単に手に入って「暇」が簡単に埋まるからだ。

面白いもの、それはホントのやりたいことではなくて単なる「気晴らし」のことが多い。

「暇な時間に(その人が)熱中できる何かをして生きること」

と一旦おいたものの本当に熱中できることであったとしても、選択が必要なのではないか?

そんな風に思えてくる。

より熱中できるもの、本当に面白いこと、本当にしたいことを追求しないともったいないことになるのではないか?

何事も良いことには裏がある。

この素晴らしい豊かな時代の落とし穴がまた見つかったように思う。

面白いこと、やりたいことが安易に選べてしまうという落とし穴。

この便利さが究極のしたいこととの出会いを阻害する可能性がある。

効率を求めて「暇」を消費するのではなく(←その意識がないから危険)、本当のしたいこと、それをすることの喜びをに向き合わないとならない、とあらためて感じるのだった。

私が本当にしたいことは何だろうか?

自然に浸ることだろうか?

身体を動かすことだろうか?

いや、やはりこんな風にああ、だこうだ、と考えることかもしれない。

ただただ、私自身を筆頭に、人間というものを知ることに興味があるのかもしれない。

最近、ワチャワチャが面白い。

※私がワチャワチャという言葉に思う意味:人それぞれの主張を交わし合う様子のことで、なんとか結論を見つけようとするも、個性がぶつかって結論が出ないような状態のこと。)

このワチャワチャをエンタメが表現してくれている面もありますが・・・。

ワチャワチャが面白いのは、人間の、それぞれ個性を知りたいという興味からきているような感じがある・・・。

いずれにしても本当にしたいことがハッキリするには、もう少し時間をかけないとならないのではないだろうか?。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」

この言葉は、今回の結論とは真逆のように感じられる。

否、私には、

「人生は暇つぶしだからって、ぞんざいにしてはならないよ、

人生はどうでもいい暇つぶしだからこそ、気晴らしだけじゃなくて本当にやりたいことをやろうよ!」

と言われているように感じるのだった。

そしてまた、ゲームをしてもそれが経験として積み重なるし、本当にやりたいことをしてもそれが経験として積み重なるのだ、と前回記事につながるのだった。

やりたいことをハッキリと表現できるようになったらまた記事にしてみたいと思う。

UnsplashAl Ishrak Sunnyが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

自分が本当にやりたいことを自分はわかっているようですが、目の前の安易なものに隠されていてわからないことがあるものだと感じます。

忙しくて自分と向き合えてない人は、一度考えてみるのはいかがでしょうか?

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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