RYO SASAKI

日常に自分のゲームを見い出す。人生の目的は「楽しむこと」だ。

タナカ シンゴ

前回の記事で、「人生は(不平等な)ゲームである」ということについて書いた。

今、eスポーツという呼称で「ゲーム」がかなり盛んになっている。

そのイメージからも「ゲーム」という言葉には、楽しさに加えて軽さがあって、健やかに生きるためにも良い言葉だと感じる。

なんにつけあまり深刻になってもしようがない、と後から自分の人生を振り返ることが多くなった。

深刻という言葉で連想するのが「演歌」。

どうも演歌に、ゲームとは対称的な深刻さ、そして、執着の強さを感じてしまう。

その深刻な人生に悲劇のヒーロー(ヒロイン)として浸っていたい、というような思いが底にあるような気もする。

歳をとったら演歌が好きになるのか、と思ったらどうやらそうではないようで、その理由がこのあたりにあるように思う。

自分が、悲劇に浸りたい時もないことはないが、毎日は必要ない。汗。笑。

確かに人生には深刻な場面が多い。

自分が特にそんな風に捉えてきたから、逆に「人生はゲームである」と軽く捉えたいという反動が起きているのかもしれない。

そんなことを考えていると、「人生はゲーム」を自分なりにもうちょっと具体的にしたくなった。

自分のゲームとは何なのか?自分の日常を眺めてみることにした。

「ドキっ、イラっ、」とすること

順調な日常にあっても、ストレスを感じる瞬間はたくさんあるものだ。

例えば、電話がかかってくるとドキっとする。

最近になって、このことに気づいた。

最近は、大概のことがメールになっているから、電話が珍しくなった。

それによって電話の負荷が浮き彫りになった。

大変便利な電話なのだが、便利ゆえに体に結構な負荷がかかっているものだと感じる。

あるいは、パソコンでひらがな打ちしたい時にアルファベット打ちで始まってしまってデリートして、やりなおす。

これがしょっちゅうある。

一瞬ドキっとして進んでないことに、イラっとする。

これも相当な頻度のストレス、ドキっとして、イラっとする、が発生している。

※以降、このドキっとしてイラっとする、をドキイラと省略する。

最近、また別のドキイラに気づいた。

それは、ネット動画やTVでCMが入るタイミングでのこと。

ネット動画はTVよりもランダムなタイミングで急にCMが入ることが多い。

ボリュームが本編と違うことも時々あって、そのボリュームの大きさにビックリする。

そしてここまでの集中が途切れ、その先がお預けになることでイラッとする。

あれも結構体に良くないと思う。笑。

TVの場合は、ボリュームの差はそれほどではないし、いい切れ目のところでうまくCMが入るように編集しているから問題ないと思いきや、CMに入る前に最近は番組の後半のシーン、そこのセリフや新たな登場人物を目隠した予告が頻繁に差し込まれるようになった。

その先への視聴へ引っ張るように予告を入れるこの手法は、TV局側では画期的な発見と讃えられたであろうが、私にとっては非常に煩わしいドキイラがまた生まれることになった。

遡るとここまで私はCMというものを無意識に避けてきたように思う。

その方法は、リアルタイムでTVを観ないようにすること。

リアルタイムで観なくても何も困らないことに気づいて、録画してレコーダーのCM飛ばし機能を使ってCMカットする、いつからかこれをやっていた。

今回の番組予告という新たなドキイラに対しても、「このあと・・・」などの予告の頭言葉が出た瞬間、あるいはテロップや顔に目隠しが入った予告の瞬間に、反射的にCM飛ばしボタンを押せるようになっていた。

これが、発見した私のゲーム!

反射行動でドキイラを消滅させる、CMドキイラゲームだ。笑。

体を長持ちさせるゲーム

CMカットなんてせせこましいものを、私のゲームだとは・・・。

しようもないと言われるだろうけど、しばし私の理屈にお付き合いいただききたい。汗。

老化を感じると、この体が有限であることをだんだんと実感するようになる。

長寿社会では、そんな老化していく自分と長い期間向き合っていくことを避けられない。

そうならば、体を長持ちさせるようにしたい、と考えるのも自然な流れではないだろうか?

ドキイラをできるだけ減らすことで体を長持ちさせる。

心拍数の少ない動物が長生きする傾向にあるというから、人がドキイラすることも負荷であり、ドキイラできる限界があるのではないか?

完全後付けだが、CMドキイラをカットすることは体を長持ちさせるためのゲームでもあったわけだ。

そのゲームを無意識にやってしまってきたから、私はすごい。笑。

なんて、このようなストレスを避ける動きは、誰しも多かれ少なかれやってるのだろうと思う。

ことさら取り上げて理屈をこねているのは私だけだろう。汗。笑。

では、CMや予告カットをゲームに見立てたのはなぜか?

敵が設定され、そこから一定のストレスを与えられて、それをクリアしていくのが一般的なゲーム。

CMドキイラゲームもTV局という敵がいて、ストレスを与えてくれている。

その与えられたストレスの条件の中で目的を達成する。

ここにゲームと同様の要素があるではないか!笑。

TV番組のCM誘導にイラっとして、それを意図的に提供してくるTV局を憎らしく思うのだが、CMカットをゲームに見立ててTV局をゲーム内の敵として見ると・・・。

一般のゲームの敵キャラクターを心底恨むことがないのと同様にTV局が深刻な敵ではなくなる。

そして、「TV局も商売であって、無料で番組を観せてくれているのだから、文句を言うのは筋違いというもの」というそもそもが浮かんできて、穏やかに軽くなるのだ。

ゲームに見立てると、敵もストレスもゲームに不可欠なものになる。

上手く面クリ(あるステージのクリア)できると気持ちいい。

だが、いつも面クリできるかどうかはわからない。

できる、できないは、ギャンブルの当たり外れみたいなもの。

できなくてもまた恨みっこなしのゲーム。

そして、そのゲームをやるもやめるも自由。

上手くいかなかったら、あるいは、飽きたら、興味ある別のゲームに移っていけばいいのだ。

今私は、選んでこのCMドキイラゲームを行っている。笑。

気を使うだけでやっても大したメリットがないゲームかもしれないが、そうだとしても本人が楽しんでいるし、たかだかゲームなのだから問題なし。

ちなみにこのCMドキイラゲーム、ネット動画の場合はCMカット=面クリの方法を私はひとつ知っている。

課金すればいい。(有料にすると契約内容が変わってCMがなくなる。)

課金にはどこか罪悪感があってまだ踏み込めてないが、私は知ってはいる。汗。笑。

そして新たな面が現れた。

Tverという面だ。

この面のCMカットはかなり厄介だ。笑。

そもそもTVを観ないという選択肢もあるのだが。笑。

そんなことを考えながら私のゲームは続いていくのだ。

GI値ドクイラゲーム

体のためにドキドキを減らしたほうがいいのならば、ドクドクも避けた方がいいはず。

ということで、次の私のゲームは、人気のスプラトゥーン、あるいはフォートナイトならぬGI値ドクイラゲーム

GI値とは、グリセミック・インデックスの略で、食後血糖値の上昇度を示す指数のこと。

ドクっと血糖値が上昇して、それが結構なストレスになっている(イラっとする)という。

この表現にはやや無理があるか・・・汗。

血糖値の乱高下が過ぎると病気に至ることもある。

GI値ドクイラゲームとは、血糖値が上がりやすい=GI値の高い食品を避けるゲームだ。

(主な食品のGI値)

上白糖 99

パン 95

精白米 88

玄米 55

うどん 85

蕎麦 55

りんご 36

肉類 45~49

魚類 40前後

葉野菜 0~25

酒類 34~40

ゲームのキャラクターにライフの限界値があるように、人間の累積消費GI値にも限度があるはずなのだ。笑。

似たような食品を選ぶならば、GI値が低い方にしようか・・・。

おっと、近くの蕎麦屋がうどん屋に変わって、社会のGI値総量が増えてしまって少し残念。

あら?アルコールのGI値が意外にも低い、こりゃあ都合がいい。笑。

晩酌をした後のシメは酒の糖類で取ったことにして、止めた方がやっぱ良さそうだ。

などとツラツラ考えながら、このゲームをどこまでやるか、検討中だ。

日常にゲームを見い出す。

どんなに社会が便利になろうとも、ストレスがなくなることはない。

世の中のたくさんの情報の中に、害になるモノもあるから、どの情報を掴むかによってストレスが増えたりもする。

誰かが良かれと思ってやったことが、そして、よりいいモノとして発売された新製品が、誰かのストレスになったりすることだってある。

だから、生活においてストレス解消は必要。

そして、ストレス解消ができないにしても、ストレスへの向き合い方を変えることはできる。

日常をゲームとして捉えることは、ストレス解消法でもあるし、ストレスへの向き合い方のひとつの有効な方法だと思う。

「人生はゲームである」

先ほど紹介した私のゲームは恥ずかしながら拙いものだったのだが、そんなしようもないところにもゲームを見出すことができる。

もちろんもっと重要なモノ、仕事というものにもゲームが見出せるし、どんな家族を作るかにもゲームが見出せる。

何かの目標を目指すことすべてをゲームとして捉えることができる。

日常に、ゲームを見出すと、

・ストレスを前向きに捉えられるし、

・こだわりが薄まるから、恨みや後悔を減らせて、切り替えが早くなる。

そして、何よりも、特に私なんかにとっては、

・深刻にならずに、楽しむことができる。

こうして、これからは生活のすべてをゲームと捉えて、楽しんで、健やかに過ごしていきたいという思いに至るのだ。

人生の分岐点

「人志松本の酒のつまみになる話」は録画して視聴している番組のひとつ。

この前、珍しく松本さんが、「何かいつもと違う、そんな風にするつもりがなかった、朝まで生テレビみたいになってる」と困惑する回があった。

テーマは食などいくつかあったと思うが、数名の出演者がそれぞれのテーマについて、信念を持つ持論を展開して、違う持論のぶつかり合いによって一触即発とはいかないまでも、深刻な雰囲気になることが度々あった。

出演者は知識豊富らしく、その持論に自信を持っていて、自分の主張にツッコまれる余地を残そうとしない。

そんなような展開だった。

これは「朝まで~」でなくとも、私自身の普通の会話にもあてはまる展開だとも感じた。

いつもの「酒のつまみ~」では、ある人のエピソードでその人がちょっと変だ、として笑った時に、笑われた側も、変と言われることに納得はいかないものの、笑われていることを受け入れる、というアソビがある。

そのアソビがあることによって、深刻にならずに笑える。

これに対して、「朝まで~」のような討論番組にはアソビはない。

攻められたら、攻め返さないとならない。

そう、そもそもの目的が違う。

「朝まで~は」正義を求める番組で、「酒のつまみ~」は、笑いを求める番組なのだ。

ここまできて思ったことは、ここに人生の分岐点があるのではないかということ。

なんとも大げさだが・・・。

人生の目的は何なのか?

正義を目指すことなのか?

それとも楽しむことなのか?

日々を「朝まで~」のように生きたいのか、「酒のつまみに~」のように生きたいのか?笑。

この選択によって、人生は大きく変わる。

私は、元正義信者だが、今は楽しむ信者に改宗した。笑。

人生は笑って楽しむためにある、と思う。

そして、笑って楽しむための手段として、正義があり、そしてまた、笑いの中に正義がある、のだと思っている。

手段を目的にしてはならない。

老後の楽しみのために今は頑張る、とよく聞くが、笑って楽しむ老後とはいつやってくるのだろうか?笑。

とりあえず私にとっては、人生に、アソビ、そして、楽しみを散りばめる必要があるのだとあらためて感じるのだった。

そして、このアソビと楽しみはゲームに包含されている、そんな風につながって、日常にゲームを見出そう、と確信するのだった。

まあ、楽しみ方は人それぞれだから、ゲームも人それぞれ。

自分のゲームを楽しんでいこう!

UnsplashCDCが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

昔、仕事をゲームとして捉えているように見える人が近くにいました。

私は、その人を「軽い!不真面目だ!」とネガティブに見てましたが、今私はそこに向かおうとしています。汗。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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