(続)行動遺伝学に学ぶ~「才能」というものを考えてみたら、人とのコミュニケーションが変わった~
前回は、行動遺伝学から人間の遺伝影響が思った以上に大きいということを学んだ。
このことは、「努力」というものを神聖化しすぎてどこか気を張ってきた自分を楽にしてくれるものだった。
また、自分が「才能」というものについて、勘違いしていたように感じるところがあった。
前回はこの勘違いについて書き切れなかったので、もう一回「才能」について考えてみて、そこからまたあらたにゲームを生き抜くヒントを見つけてみたい。
(再掲)不平等なゲームの攻略法
①自分を知る
自分がどんな能力、性格なのかをできるだけ客観的に知ること。
②性格や資質にはプラスマイナスがある
悲観的だとか暗いとか、ネガティブに思われていることも悪いことだと思わない。
③人を羨ましがらない、過剰に追いかけない
前回の攻略法をたどりながら進めていきたい。
「才能」とは何か?
まず、「才能」という言葉の意味について、おさらいしてみたい。
前回感じたのは、「才能」というとそれがすぐに莫大な稼ぎにつながるものである、という認識が自分にこびり付いていたということだった。
それに謙虚さが上乗せされて?、トップクラスでないと「才能」を名乗れないような感覚すらあった。
これは、金メダルでないと意味がない、などとNO.1 に執着するようなことにも関係しているように思う。
「才能」という言葉の本来の意味は、「物事を成し遂げる力」なのだが、成し遂げられる力を持っていても人と比較して誰もができるものであれば、「才能」とはとても言えなくなっている自分がいる。
「才能」という言葉を、知らず知らずに相対的にしか使えなくなっていたようなのだ。
それは、競争が当たり前の資本主義社会にいることで、本来から外れてしまって相対的な考えに占拠されてしまったように感じられる。
そうだ、子供の頃から、我々はずーっと順番を争ってきたんだ・・・。
だからこそ、今一度、そこと一線を画して、絶対的な「才能」を見つめることが大切なのだ、とまず始めに感じたのだった。
そうしてみると、性格だって才能のひとつである、と捉えることが容易になってくる。
(再掲)人の性格・資質を表す8つの特徴
①外向的 or 内向的 明るいか、暗いか
②楽観的 or 悲観的 精神的に安定しているか、神経質か
③同調性 みんなと一緒にやっていけるか、自分勝手か
④共感力 相手に共感できるか、冷淡か
⑤堅実性 信頼できるか、あてにならないか
⑥経験への開放性 面白いか、つまらないか
⑦知能 賢いか、そうでないか
⑧外見 魅力的か、そうでないか
外向的であるがゆえに、成し遂げられることがある。
内向的であるがゆえに、成し遂げられることもある。
明るいのも才能であって、暗いのも才能と言ってもいいのだ。
各項目の両極のどちらかが才能なのではなくて、どちらも才能。
前回、鈍感にできているから外向的になり、敏感だから内向的になる、と聞いてこのことがまたよく理解できるようになった。
鈍感さも敏感さのいずれもが天から与えられた才能なんだ、と腹落ちしたのだ。
大金を稼ぐことの才能ばかりに目が行くが、それだけでなくて才能はいろいろなところにある。
大金を稼げる才能は、たまたま今の社会のニーズがあって今のしくみによって大金に変わる才能であって、求められる才能は時代によって変わっていくものでもあるのだろう。
また、こんな情報もある。
努力できる、できないの努力遺伝子なるものもあるという。
その遺伝子がONとして引き継がれた人は、苦痛を我慢しながら努力することができる。
一方では、我慢できなくて努力しづらい人もいる。
努力できる遺伝子があった方が良さそうに思うのだが、努力できるということは体に負荷をかけられるということでもあって、それゆえにその負荷が体に溜まりに溜まって大病を引き起こすことがあったりもする。
それは、壊れるまで努力できてしまう資質ということもできる。
そして、簡単にしょっちゅう病気になる人は、それが軽度のうちのアラートとなって結果、長生きするようなこともあったりするのだ。
努力を しやすい↔️努力をしづらい
苦痛を 我慢できやすい↔️できづらい
病気に なりやすい↔️なりにくい
などなど、様々なところに資質があって、それがまたそれぞれの才能につながっている。
また、IQが高い人は才能があって良いことばかりだから羨ましく思うものなのだが、IQの低い私なんかには考えが及ばないような悩みを持つものなんだろう。
IQ130以上の人は、周りとのコミュニケーションがうまくいかずに(言葉を選ばずに言うと周りがバカに見えて話が噛み合わない)、孤独を感じてしまったりする、とも聞く。
素晴らしい才能も、時に諸刃の刃にもなる。
人は、何でも物事を成し遂げられる=万能を求めがちだが、器用貧乏ということもあったりと、そんな単純なものではないように見えてくるのだ。
たぶん、楽観的な人と悲観的な人の両方が存在しているということは、人間が子孫を残して繁栄していくために両方が甲乙つけがたい資質なのだろうと思う。
バラけることが必要だから、そのどちらかの資質が根絶されることがないのだ。
社会のニーズの変化に応じて、多少の変化はあるだろうけど、それでも例えば楽観的な人と悲観的な人の分布の中央値が、せいぜい数百年、数千年単位でどちらか生存に有利な方に若干移動する程度のことなのだろうと思う。
そうしてみると、私なんかが失敗した時に、
「もう少し悲観的に見て慎重であるように変わらないとならないのではないか?」
などと感傷的になるなんてことは、実にわずか一瞬の、しかも目の前のことにただ反応している、ちっぽけなことなんだと感じてくるのだ。汗。笑。
遺伝と理性による制御
行動遺伝学によると、大人になって歳を重ねれば重ねるほど、遺伝の発現割合が多くなるのが人間なのだという。
これはすんなり理解できる。
人は多かれ少なかれ、理性による制御を行っている。
理性による制御とは、生まれてから学んだことによって、意識的に良かれと思う行動をする、ということだ。
例えば、私の場合は、どちらかというと内向的=敏感に感じる方、だと思っているのだが(鈍感な部分も結構あるのだが・・・汗。)、それでは仕事が上手く行かないため、努力して外向的に振る舞ってきた、というようなこと。
遺伝による不足分を努力で補おうとするのだ。
※人は努力によってある程度は変化できるので、努力を全否定するものではない。
歳を重ねると遺伝の発言割合が多くなる理由は、ネガティブな面から言えば、この理性による制御にはエネルギーが必要で、加齢と共に体力が落ちてエネルギーを割けなくなるから、理性による制御が自ずと減少する、ということによるものだろう。
ポジティブな面から言えば、年齢を重ねると子育てが終わるなど、生活の自由度が高まり自分の好きなように行動するようになる。
この自由度の高さによって形状記憶に戻るように遺伝子の発現割合が大きくなるということなのだろう。
人間というものは、このように遺伝と理性による制御の混在した存在と言ってもいいのかもしれない。
そして、私なんかは特にそうだが、その遺伝と理性の制御との間でどっちにしようか?と常に葛藤している生き物だ。汗。笑。
ちなみに、理性による制御をどこまで徹底するか?の程度もまた、それぞれの資質であり、それぞれの才能につながっていくものだと感じる。
自分を知る、人を知る
私という者は、これまで人の才能を見ようとした時に、携わっている仕事、そしてその仕事の中での役割など、稼ぎの源泉は何か?を中心にした見方しかしてこなかった。
若い頃は特に自分の仕事を売り込めないか?や、仕事のコラボができないか?
こんなことばかりを気にしていたものだ。
何とも狭かったし、さもしかったし、余裕がなかった。汗。恥。
今更ながら、仕事以外のいろいろなところに才能は存在するものなのだ。
今回、才能について再考してみると、才能とはもっとその範囲が広くって細かいもので、性格にまで広がっていることに行きついた。
そしてまた、人は、遺伝と理性による制御とが混在していて、その2つの葛藤を抱えている者、ということが加わった。
私は、これまでに「才能」というものについて何と雑に捉えていたのだろうか?
そして、何とメッシュが荒かったんだろうか?
後悔と反省が立ち上がってくる。
でもその一方では、視界がグッと広がったように感じられるのだった。
私が、人の才能を雑に捉えていたということは、同時に自分の才能も同じように雑に捉えていたということになる。
これは、自分を大切にしていないことであり、本当の自分を知ることを妨げてもいたということだ。
これがまた今回の大きな発見だった。
このことがわかると自分の才能について、もう少し細かく認識できて、自信にもつながるし、その資質を知った上で自分をコントロールしていくことができるだろうと思う。
そして、人と会話する時も、人の才能を細かく探りながら、会話することができて、その人の才能に近づくことができる。
※とてもすべてがわかるものではないものの・・・。
更に、理性的な制御の強さを探ることで、その人のここまでの環境、遺伝と理性の葛藤を今までよりも想像することができる。
そうしていくと、もっとその人に共感することができるようになるから、もっと敬意を持って接することができるようになって、よりよいコミュニケーションができるのだろうと思う。
こんな私でもたまに、人から相談を受けることがある。
先日ある相談を受けた時に、このような視界を持ってのぞんだところ、少しではあるが変化を感じられた。
その人の才能(遺伝でやりたいこと)は何か?
理性で制御していることはなんなのか?
才能を裏テーマにしてそこに収束するように会話してみると、見えてくる。
見えてきた才能を当人はそんなところを当たり前であって才能だとは思ってもいない。
万能とNo.1だけを見ていては自分の才能に気づけないわけだ。
多分これはよくあることだろう。
そして、やりたいこととやりたくないことを何となく聞いていくと、結果的に遺伝と理性での制御を切り分けになって、その人が結果的にスッキリする。
その変化を見ることができたのだ。
ここまで相談に対して大したことを言ってあげられていない私なのだが、(汗。恥。)これに味をしめて今後のアドバイスが少しはマシになるかもしれない、と淡い期待をするのだった。
「佐々木さんは、ホントに人に興味がありますね。
私はとてもそこまで人に興味がありません。」
数年前、そんなことを知り合いに言われたことがあった。
私が、
「こんな人がいて、その人の経験が新鮮で面白かった。
その人をこんな風に感じた。」
などと人にまつわるこんなような話をよく話していたからだと思う。
私は、それまで自分が人に興味がある、と思ったことはなかった。
むしろ私が、知らず知らず地雷を踏んでしまうことがあるから自分には手に負えない難しいものであると思っていたので、そう言われて少し戸惑ったのだが・・・。
今考えると、美化していない人の話は面白いドキュメンタリードラマであって、それを知りたい、と思っている自分が確かにいるのだ。
そんな人のことを知りたい私にもかかわらず、これまで人の才能を雑に捉えていたとは、何とも文字通り雑いことをしてきたものだ。汗。笑。
そしてもったいないことをしてきたものだと、更に反省が追い打ちをかけるのだった。
人のことを知りたい。
人の生まれもった才能を知りたい。
そして、理性によってどれだけ制御されているか知りたい。
更には、遺伝と理性の間の葛藤を知りたい。
これが、私という者の特徴だ。
なぜそれを知りたいんだろうか?
※これについては今後更に深堀が必要だとは思う。
説明できないが、なぜだか好奇心がこみ上げてくる。
商売にしようと思っているから知りたいわけではない。
ならばこれは理性による制御ではなくて、ご先祖様からいただいた遺伝であって私の才能のひとつということになるのだろうか・・・。
これは、ひとつ自分自身のことを知って、ひとつ遺伝と理性による制御を切り分けできたということだ。
今回の発見を、また日々に生かして行きたいものだ。
UnsplashのVENUS MAJORが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
また、物事の見え方が変わりました。
視界はホンの些細なモノの見方で変わります。
引き続き、新たな風景の発見を楽しんで行きたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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