RYO SASAKI

体の「強張り」に思う自然体への挑戦

タナカ シンゴ

年を取ると体のあちこちが硬くなる。

私もいつの頃からか前屈が始まらなくなった。

「始まらなくなった」というのは、「はい、前屈を始めてください!」という号令の後、前屈にトライするものの、「早くやってください!」と急かされることがしばしばで、始めた時と準備段階とが全く変わらないほどの硬さ、ということだ。汗。

他には、足つぼマッサージが体にいい、と聞いてゴリゴリやっていたら、足裏の角質が硬くなって奥の痛いところ(反射区という体にいいところ)まで届かなくなってきたので、止めてしまった。

最近、頭蓋骨はがしという健康法があるらしい。

板のようなもので頭を擦るもので、硬くなってきた頭は軽く擦るだけで悶絶するくらい痛いらしい。

真似てやってみると案の定かなり痛い。

お腹に(例えば癌などの)疾患がある人は、お腹をさすってみると硬いことが多いというのもある。

こんなことまで聞いたことがある。

考え方に柔軟性のない人は股関節も硬いのだとか。

体の硬さも頭の中の硬さも単なる部位の違いなだけで同類なのかもしれない。

どの程度の統計データがあるのか、定かではないが、血流の良さ悪さというあたりから想像したりして、何となく納得してしまう自分がいる。

いずれにしても私というものはどんどん硬くなる。汗。

こんなようだから「硬くなる」ことについては、どうも目を塞いでしまいたくなるのだが、掘り返されてしまったからには無視するわけにいかない。

今回は、敢えて私の体が「硬くなる」ということについて考えてみたい。

笑うのは強張りが滑稽だから

私のイヤーな体の硬さが掘り返されるキッカケになったのは、ある本に繰り返し出てくる「強張り(こわばり」という言葉だった。

こちらは、「笑い」というものを様々な角度から解説している本だ。

「笑い」はどうして起こるのか?や、「笑い」というものの社会的意義などについての記述がある。

そもそも笑いには様々な種類があって、人が笑う理由、笑いの効能というものもいろいろある。

そんなことを知ると、笑いというものは人間が生きる上で必要な能力であって、生きるためにその多様さと精密さを培ってきたように感じるのだ。

今回は多様な笑いには触れずに、私が気になったひとつのことだけを抜粋する。

通りを駆け抜けていたある男がよろめいて転倒する。

この変化のなかに意志せざるものがあったことが笑わせたのだ。

それは不器用である。

(道端に石ころでもあったことで)状況が別の動きを要求したのにもかかわらず、しなやかさの欠如、身体の放心ないし頑なさ、強張りあるいは惰性のせいで、肉体は同じ動きをし続けた。

笑えるのは、一人の人間の注意深いしなやかさと生ける柔軟性があって欲しいところに存在する、ある種の機械仕掛けのごとき強張りなのだ。

笑いが生まれる理由のひとつの記述である。

人には自然な動きというものがあって、それは人が理想としている動きとでもいうものであって、それを人は常態としてどこか予想しているものなのだろう。

だから、そのあって欲しい人間の本来のしなやかさな動きとはかけ離れた、ぎこちない動きが起きた時、その滑稽さに笑いが起る、ということのようなのだ。

確かにわかるように思う。

この本は、また別に「笑い」について、社会がよくなるように方向づける社会的意義がある、とも言っている。

変な奴、バカな奴、KYな奴・・・・何でもいいがそれらに対して笑う、ということは、あまりよろしくない行為と言わるものでもあるが、それは一方では「そんな言動をする人は笑われるんだよ」というメッセージが含まれていて、笑われた人が「笑われないようにしないとならない」という方向付けになっているという。

周りがその人を真っ向から否定し批判するのと違って、笑いは緩やかに意思を表すものになっている。

この積み重ねが、社会をどこか是正してきているのだとか・・・。

先ほどの転倒の例に当てはめるとすると、「次回はもっと柔軟に対応することで転倒というミスはしないようにしよう」という思いが、笑われた本人の記憶として刻まれる、ということになるだろうか・・・。

笑う方は、ストレス発散になり、笑われる方は、緩やかな是正になる。

このことだけでも「笑い」とは何とも奥深く出来上がっている人間の能力だ、と感じざるを得ない。

悪意のある笑いもあるわけだが、それもまた生存競争のために備わっているように思えて、それはそれで意味を感じてしまう。

どういう時に人は「強張る」のか

ここから「笑い」というものの本質からは離れて、笑いの原因である「強張り」に注目していきたい。

人はどんな時に強張るのか?

先ほどの転倒する男のように、人は想定している環境とは異なる予期せぬ変化が起って、アタフタする。

これも強張るケースのひとつである。

他のケースとして、以下のことが浮かぶ。

・恐怖に怯えている時

・時間に追われている時

・嘘をついている時

・見栄を張っている時

・何者かを演じている時

簡単に浮かんできてしまうんだから、どれも自分が経験して感じてきたこと、何とも情けない・・・。

これらの状態の時に、緊張が走り、胸がギュッとなったり、胃がキリキリしたり、姿勢や筋肉が固まる。

よーく自分を観察すると自分の中にあるこういった感覚を発見する。

以前ブログに書いた私の自己アピールの話なんてのは、「見栄を張っている」そのものだったと振り返る。

怖いのは、これらの5つ(五大強張りとでも呼ぼうか)を自覚なくやり続けてしまってきているということだ。

私の体が硬いのは、ホントに単なる経年劣化(いわゆる老化)によるものだろうか?

もしかして、この五大強張りの蓄積がその原因なのではないか?笑。

荒唐無稽と言うなかれ、私は半分くらい本気で書いているのだ。汗。

※強張りが起こるのは、これだけではないだろうことは付け加えておく。

自然体でいるということ

以前、「無為自然」という言葉についてある人が話してくれたことがあった。

無為自然(むいしぜん):老子が目指すとは、そ の「無」の道に従って、いっさいの作為を捨て自然のままに生きることであった。 老子は、知識・学問・ 欲望・技術・道徳・法律などの作為は、社会に混乱と争いを招くと考えたのである。

若い時に読んだことがあったが、何のことか全くピンときてなかった。

今もわかっているとは言えないのだが、その人の力の抜けた様子を見て、これがわかりやすい例なのではないだろうか?

この人のようなことが、まさにこの無為自然を体現した自然体というものに近いのではないか?

そんな思いが浮かんだのだ。

ここのところ、自分らしくありたい、と鼻息が荒い私なのだが、自分らしくある、とはこの(自分の)自然体であるようにも思う。

仮にそうだとして・・・では私というものが自然体なのだろうか?と問うと途端に見えなくなる。

自分の意識している自分というものは、本当の自分ではない、それは他人の借りものなのだ、他人から教わった思想だとか意見だとか、習慣だとか作法だとか、感情だとかの寄り集まりにすぎない。

:『読書について』著:小林秀雄

こんな言葉にもどこか納得する自分がいて、迷宮入りしてしまいそうなのだ。

そんな中、ある直観が降りてきた。

先ほどの五大強張りを避けることが、自然体というものに近づく一歩になるのではないだろうか?

これがすべてとは言えないが、ただ少なくとも自然体に強張りは要らないはずなのだ。

強張りを減らす

最近の「インスタ映え」(SNSのインスタグラムに投稿する映える写真のこと)という言葉・・・いやこれは最近でもなんでもなくて2017年、なんと7年前の流行語大賞だったらしいから、時の流れは速くておじさんはついていくのが大変だ。

プチプラコーデ(比較的安価なアイテムを使用した着こなしのこと)を自称する女子が、映え写真としてインスタにアップする。

そのコーデの中に、こっそりと高級ブランドのバックを肩かけして忍ばせていて、しかもその写真のピントはそのバックに合っている。

別の女子は、この映え写真のあざとさを見逃さず冷ややかな目で見ているのだという。

人間というものは、自己PR=意図が見えると冷めるものだ。

その意図を不自然と感じて、人は笑ったり、嫌ったりするようにできているのだろう。

そして、これが他の女性のあざとさへの牽制にもなる。

冒頭の転倒した男の強張った動きと同様に、人間はしなやかな人間という理想を持っているから、逆の不自然なものを認識できるのだろう。

不自然とは広く言うと、こうした「意図したもの」と言えるのかもしれない。

すべての意図ではなくて特定の変な?意図に限るのだろうけど。

この不自然さを感じることがまた自然体であって、五大強張りを避けることと共に自然体の手がかりになるのだろうと感じるのだった。

さて、五大強張りを避けることが自然体への手がかりになる、とつながったものの、生きているならば、五大強張りというものは、撲滅することはできないように思う。

仕事ができる人ほど、どんどん仕事を入れて時間に追われてなんぼ、というところもあるだろう。

親は親を演じているところもあるし、出世すると部長や社長を演じないとならないところもある。

・・・・・

それでも、それでもだ。

不要な五大強張りは減らすことはできるだろう。

自然体に近づくために、できる範囲で五大強張りを減らす挑戦をなんとかしてみようという思いに至るのだった。

そしてその挑戦は同時に私の硬い体を柔らかくすることになるはずだ。

いやこれは都合よく言い過ぎか?

硬くなるのを遅らせることでもある、くらいにしておこう。

そして、都合がいいついでに、こんなことも。

硬くならないためにストレッチをするのではなくて、五大強張りを減らすことにしよう!

うまい具合に、やりたくないストレッチをやらなくていい理由(←屁理屈?)ができた。

んっ?自然体だ!と言っておきながら、これってずいぶん意図的じゃないのか?汗。

私にとって自然体というものはまだまだ遠そうだ。

PS:

先日、スチームサウナで床がすべって転倒しそうになった人がいました。

そばにいた私は、咄嗟にその人に手を差し伸べてました。

誰でもするような当たり前のことなのですが、昔だったらサウナの中ですら私の思考が何かに追われていて、そこに気づかずに手を差し伸べられなかったかもしれない。

そんなことを思い返しました。

そして、今のこの無意識の行為が自分の自然体である。

そうであって欲しいと思いました。

見栄でも、あるいは、演じてでも手を差し伸べることはできちゃうものなので・・・。

自然体というものはかくも難しく・・・

自然体への挑戦は続く・・・

UnsplashArtem Balashevskyが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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