田中 新吾

体験は「もっている言葉」によってぜんぜん違ってくる。

タナカ シンゴ

この前、こんなツイートをしました。

人間は言葉によって思考をしている。だから、もっている言葉によって思考がぜんぜん違う。当然のことを当然のように言っているだけだですが、改めて認識しておくべき重要なことだと思ったのでツイートしました。

映画「カメラを止めるな!」を観たあとの「つぶやき」が面白かった

こないだ、ようやく「カメラを止めるな!」を鑑賞した。すごい映画というのはウワサ通りだったと思う。観た後、すぐさま感想のツイートをした。

ネタバレにならないように気をつけながら、自分の感動を素直に言葉にしたらこうなった。感想は色々とあった中で、特に「企画」という目線でツイートしたのは、僕がその領域に関して多くの言葉をもっており、企画側の目線で思考したからだ。

同時期に流れてきた、他の方のツイートも面白かった。

挙げればまだまだキリがないのだが、これだけ見ても感想が多様であることが分かる。

この多様さは、そのひとがもっている言葉によるものに他ならない。特に「カメラを止めるな!」に関しては、内容の特性上、シェアする際に極力ネタバレをしないように気を付けているのがある。

そういった「見えない力」が働いていたのと、140文字という小さな空間で発する言葉というのもあって、「もっている言葉」の違いがよく現れた事象ではないかと思った。

ちなみに、ムハくんについては彼のブログで続きを語っているので読んでみて欲しい。「もっている言葉による体験の違い」がよく分かる記事になっていると思う。少なくとも僕にはこういう感想を書くことはできない。言葉がないからだ。

参考記事:「わかる人にはわかる話」が面白い

体験価値は自らの手でつくることができる

「子供の頃に観た映画を、大人になってからもう一度観たら、涙が出て仕方なかった」

このような現象を耳にすることがあると思う。

これはまさに「もっている言葉」が影響を及ぼしていることが分かる身近な例で、ものごとの「体験価値」はそのコンテンツの力以上に、受け手が持っている言葉に規定されるところがある。ということだと思う。

もっている言葉がおおければ多いほど、その体験価値は大きなものになる。感じ取れる言葉をもってさえすれば、その人にとっては、この世の中に「つまらないと思う」ものはないはずだ。

体験価値は自らの手でつくれるし、自ら価値を向上させることができる。

ちなみに、このことは、認知・言語における相対性「セピア=ウォーフの仮説」の中でも「話す言語で世界や思考が変わる」と言われている。余談だが、この仮説をテーマにした「メッセージ」という2017年に公開された映画が面白かったのでオススメしておきたい。

さいごに

最近、時々飲み友の平山さん(@t_hirayama0227)が面白い実験を始められた。

これには「流石の切り口だなあ」と感服した。登場人物の「彼女」を想像しながら楽しく読ませてもらっている。

僕も時々行うのだが、一つの単語の意味を深掘りしていくと、何の気なしに使っていた言葉が急に生き生きしてくる。まるでそこに血が流れ出したようにだ。切ったらたぶん血が出ると思う。

このように、本質的に言葉を持つためには「言葉を考える」という工程が不可欠なのだ。知っただけでは持ったことにはならない。すぐに陳腐化してしまい消えてしまう。

考えるためには言葉が必要。

そして、言葉をもつためにも考えることは必要。

もう一度言いますが「人間はどうしたって言葉で考えるしかない生き物」なんだと思う。

それでは今日はこの辺で!

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