「信じる者は救われる!」自分の信念が勘違いであっても実は幸せである、という話。
ある若者のお婆さんの微笑ましい話を聞いたことがある。
90歳を優に超えているそのお婆さんは、お元気でよく外に出かけるらしい。
お出かけの時は、メイクもバッチリで時にはハットもかぶる。
娘や孫に対しては、
「あんたもう少しスリムにならないきゃ、それじゃダメだよ!」
などと、自分のかなり太めのボディはこの世に存在していないかのような口ぶりで叱咤するんだそうだ。
何とも力強い。
この話を聞いて、元気の秘訣がここにあるのではないか?
と私は真っ先に感じる。
言うこと、やっていることが正しいかどうかはどうでもよくて、そして自分のことを棚に上げるなど矛盾していてもよくって、自分の信じるわが道を進む。
この図太さと言ったらいいのか、ここが人を元気にしているんだろう。
クヨクヨしていては身が持たない。
いわゆる「信じる者は救われる」である。
疑い続ける小人
このお婆さんの話が私に印象的に映ったのは、私が正しいことや筋が通っている(矛盾しない)ことを大切にしてきたからなのだと思う。
自分にないものが人の違和感としてハッキリ見えるものだ。
ただ、正しいことや筋が通っていることは、他人と関わって何かをするために、もしくはビジネスを上手くやるためにもちろん必要なことだ。
ただし、人生のすべてがそれだけになってしまうことがベストなのかというと実に怪しい、そんな風に最近疑うようになっている。
正しいことや筋が通っていることに人は縛られてはいまいか?
もっと正しくないこと、筋が通っていないことに寛容になって自由になる面もあっていいのではないかなどと・・・。
しかしそんなことを言っておきながら、見ておわかりの通り、私がこのブログに毎回あーでもない、こうでもない、と書いていることは(自分の)正しさ?なるものを追求するようなものだと思う。
そして、とにかく何でも疑って一つのものを信じ切れずに、毎回信念を変えて揺らぐ落ち着きのない私。
冒頭のお婆さんと比較すると安定性に欠け、疑い続ける小人と言ったらピッタリなのではないだろうか・・・汗。
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話は変わるが、以前ブログを読んでくれた人からこんな感想をいただいたことがある。
「ブログに書いてあることは、哲学ですね。」
この言葉は意外ではなかったものの、その視点で見ることをしてこなかったので、考えるキッカケになった。
実は”哲学”と聞いて最初に出た感情はあんまりいいものではなかった。
そのネガティブな感情の訳を自分の中に探ってみると、世の哲学者が必ずしも幸せそうに見えないから、という理由だった。
何とも生意気が口を突いて出てしまった。
哲学者の文章は人を縛るように感じられてハッピーではないし、眉間に皺の寄った哲学者の写真だけが印象強く、今の若者の言うところの、『映え』ない。
私はどうやら眉間に皺の寄った老人になりたくないらしい。汗。
未だに見映えを気にするのか?笑。
そんな自分を苦々しく思いながら、では私が書いているブログは、何なのかと思う。
単なる暇つぶしなのかもしれない。
儒教の経書「大学」にこれにピッタリの言葉がある。
「小人閑居して不善をなす」:小人物はひまでいるとろくな事をしない 笑。
※本来の意味は暇だと罪を犯す、という意味らしいが今回はこのままとする。
いや、本来の意味通り、私は既に罪を犯しているのかもしれない。
見映えと暇つぶしの話は一旦なかったことにして、もう1回ブログを書く意味を言葉にしてみることにする。
ブログを書いているのは哲学をしたいわけではなくて、”幸福”の追求をしたいのかもしれない。
”幸福”の追求などと書くと自分の身の丈に合ってない何か大げさなものに感じる。
そして、幸せの追求なんて言葉を私以外が口にしていようものならば、私という者は気持ち悪くてしかたないのだが、この言葉を使うしかしようがない。
まずは、自分の考えにふけっていることが言葉として形になるのが好きで日々書くだけで楽しい。
そして、題材がよりストレス(負担)なく自分らしく生きるには?などに関することが多いから、曲がりなりにも”幸福”を追いかけていると言えばそうなんだろう。
『ウェルビーイング(well-being)』という言葉が近いのかもしれない。
ウェルビーイング:心身ともに満たされた状態、または「よく在る」「よく居る」状態を意味する概念。
幸せと真理
哲学は”真理”を追求する学問でもあるようなのだが、その真理を知ることで幸福にならないのならば、何のためなのだろうか?
そして、真理を知らなくても幸せならばそれで十分ではないだろうか?
そんなことを思いながら、冒頭の元気で幸せそうなお婆さんに戻ってみる。
お婆さんにとって、正しさをあまり気にしないところに幸せがありそうで、真理(正しさ)と幸せは関係しないように見える。
※生活に一定の正しさがないと周りはたまったもんではないことは、まあ当然のことではあるが。
大きくタイプの異なる哲学者とお婆さんを敢えて並べて当たり前に思うことは、単純に人それぞれの”幸せ”が異なる、ということ。
哲学者は真理にたどり着いた時に幸せの極みに達する人なんだと思う。
お婆さんにとっては哲学者の真理なんてものは不要で、自分の正しさ(信ずるもの)がありさえすればいい。
それが周りから正しいと思われていないとしても・・・。
これは逆に哲学者が特殊で、そこら中に当たり前にあることだ。
そうそう、それぞれの人生の目的を簡潔に表現した時に、厄介なことが起こる。
いい人、恵まれた家族、幸せな人生、いい会社・・・。
ここにある『いい』や『恵まれた』や『幸せな』がとにかく曖昧。
何となくは一緒なのだろうが、突き詰めると人それぞれ異なっていて、合意も共感もできないことがはっきりわかる。
曖昧で目的自体がまず違う上に、そこにたどり着くための手段も異なる。
目的達成のために犠牲は付きモノだが、何を犠牲にしていいかがまた人によって異なる。
人と人が一緒の幸せに合意、共感することは決してないのだから、幸せというものの追求なんてものは実に独りよがりなことである、と再認識せねばなるまい。
多面体理論
今度は物事の見方の話。
多面体理論は、以前このブログで紹介したものだ。
ひとつの物事に表と裏があることから始まって、ひとつの物事にはいろいろな面があって、様々な角度から物事を見ることができる。
その見える一面だけが正しいと言えるほど物事は単純なモノではない。
チャリティーで有名な24時間テレビもたくさんの募金が集まって善である、という面を見る人と一方で偽善だという面を見る人がいたりする。
この多面体理論から見ると、幸福のために真理の追求が必要であるとする面と、真理の追求は幸福には不要という面の両方が見える。
幸せは人それぞれ異なるのだから、どちらも一理あるというように見えるのだ。
あるいは、また別の角度からの見方をすると、真理とは何かひとつだけあるのではなく、真理とはこの多面性を含むすべての複合体をいうのかもしれない。
そんなことを考えながら、それでも幸せについて独りよがりに終わらせずに共通で言えることはないだろうか?
元気で幸せなお婆さんとブログで疑い続ける小人と真理を追求する哲学者に共通するものは何だろうか?
・・・
それは月並みだが、やはり自分の信ずるモノにしたがって生きるということに尽きるのだろう。
それぞれに信じるモノ(正しさ)があってそのそれぞれの正しさにしたがう、それはやはり満足なことだと思う。
結局、
「信じる者は救われる」
である。
ただ、当然ながらこの言葉にも裏があって、無知だと信じて騙されたりすることもよくあること。
信じたモノがヤバいものであっても、それがわからずに信じ続けてしまって後から気づくことがある。
早く気づいておけば軽傷で済んだのに・・・と思うのだが。
それでも・・・信念が間違っていたと気づいた時に信念を変えられれば、それはそれでいい。
過去に持っていた自分の信念を振り返ると今はそう思える。
その時の信念が自分の信念。
それよりも信念を決められずに、どこか落ち着かないでいた時の弊害の方が大きいように感じる。
自分がこうだ!と思えること、これがホントの自分から出たのならば、その思いを大切にした方がいい。
最後に言い訳をして
元気なお婆さんの揺るがない信念。
これは幸せのために見習いたいものだと思うものの、疑い続ける小人はそう簡単にいかない。
ブログに書いているように毎週信念が変わっていく。汗。
そんな信念が揺らいでしまう状態で幸せの追求などできているのか?
そんなんでそもそも幸せだと言えるのか?
更にブログに書いていることが、仮に自分勝手な幸せの追求だとして、そこにどんな意味があるというのか・・・。
そんなような疑問に対して、何とか言い訳をしておきたい。
まず、私がブログに書いているものは哲学である自覚もなくて、鼻っから真理ではない。
ただ、物事の一面を独りよがりに綴ったに過ぎないのだ。
真理ではないから、それは簡単に反論に屈してしまうものだ。
ここまででひとまず自分を楽にしておこう。笑。
ただし・・・多面体理論からすると、それは物事の一面であって、物事の多面性の一部を表している。
それは新たな?(どこかで誰かがすでに言ってることかもしれないが)一面であり、それは真理の一部であるかもしれないのだ。
見方が変わることで信念は変わり、信念が変わると人生が変わるはず。
次に、その書いた信念が、翌週に別の信念に書き換えられてしまっていることについて。
こちらも信念が揺らいでしまっているのではない。
少なくともその週はその信念を持っていたのであって、ひとつの信念をもっている期間が人より短いだけなのだ。汗。
信念はどんどん更新されていくが、これもお婆さんが信念を持ち続けていることに変わりはないし、幸せなことに変わりはないと言えるのだ!
信念を変えることに罪悪感を持たない限りにおいては・・・。
さて、最後は苦しい言い訳になったのかもしれないし、こんなに説明が長くては誰も理解しようとしないのだろう。
それでも私の信念は他の人とは異なるのだから仕方あるまい。
言い訳ついでに思うことを加えて開き直って終わることにする。
ブログに都度書いている物事の一面。
これは真理ではないと先ほど書いたのだが、そうであるのは当然としてむしろ、後から間違っていた、とかどこか状況にフィットしないなど、振り返ってわかることが結構あるものだ。(少なくとも私はそうで、時々のいろいろな信念を渡り歩いてきた。)
そんなことを思い返すと、それはその時の信念でありながら、その信念は一時の止まり木のようなものかもしれないと感じてくる。
経験から今言えることは、後から間違いがわかったとしてもその時の信念があったならばそれでよし。
それが一時の止まり木であろうとそれでいい。
人生は止まり木を渡り歩くことでいいんではないか。
そうすることが幸せの在りようなのだ、と思えるようになる。
日本人は謙虚ゆえ自分の信念なんて、などというポジションを時にとるのだが、信念がないかのように振舞ってはいけない。
勘違いであるとしても、今の自分の信念がとにかく大切なのである。
そう、それで更に思うのは、哲学もどきだ、と感想をいただいたとしても、調子に乗って真理を追求しようなんて思ってはいけない。
私は、分相応に多面体の一面=勘違いという自分の信念を渡り歩き、グルグル回って幸せな人生を送るのだ!
これが今週の私の信念である。汗。笑。
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
人の信念は自分と異なるから、非常に興味があります。
信念はなんですか?なんていうとホントにヤバい奴だとして惹かれてしまうから、引き出せるようになんとかうまく会話していきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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