欠点こそが人の個性である!?欠点を個性にする方法とは?
目利きで評判の魚屋さんに立ち寄った時、大将とこんなやりとりがあった。
大将:「最近の鯛は出水(鹿児島)のがいいよ。」
私:「(出水は)スーパーではなかなか見かけないような・・・」
大将:「スーパーは養殖が多いからね。」
なんてことのないやりとりだったのだが、次に大将が、
「おれは養殖の魚を食べると気持ち悪くなっちゃうんだよね。」
と続ける。
養殖で気持ち悪くなる?
これまで聞いたことがなくて意外だった。
「デリケートな人はいるもんだ、自分はそうじゃなくて良かった・・・」とまずは、自分のことを身勝手に思った私だったのだが・・・。
なぜだか、このことがその後も頭から離れずに、ツラツラと思いを巡らせることになる。
そしてその結果、
「人の個性とは、欠落しているところ(欠点)にある」
という言葉につながるのだ。
これは作家の村上龍さんが言った言葉だ。
(ある人から村上さんの言葉だと、又聞いた)
欠落しているところが個性?
一般とは逆ではないか?
私は最初は、なんとなくわかったようなわからないような感覚だったのだが、いろいろ思いを巡らすうちに、この言葉の意味がどこか腑に落ちたのだ。
欠点・欠陥が個性につながる
あるパン屋さんの店主から似たような話を聞いたことがある。
店主:「僕は、自然酵母で造られてないお酒を飲むと腹を下すんですよ。」
自然酵母でできているお酒はなかなか少ない。
だからそれに対する私のファーストインプレッションは、難儀なことだ、そして同時に、私の場合は酒で腹を下すことがないから、手当たり次第選べて楽なもんだ、というまたしても身勝手なものだった。
その店主は、自然酵母による個性的なパンを造っている。
そして、それが高じてか、今度は自然酵母でビールを造り始めた。
何でも、「高くてすっぱくてまずいビールを目指している」んだとか。
これは、あくまでも日本のビールの画一化した味に対して、多様性が必要、という思いから誇張した表現のようだ。
さて、この二人に共通するところは、人の平均?もしくは一般からすると、”弱い”ということだ。
養殖で気持ち悪くなる、普通の酒で腹を下す。
敢えて悪い表現をしてみるとそういったハンデを抱えている、とか、欠点がある、さらにひどく言うと欠陥がある、となるだろうか。
欠陥などという言葉を使った瞬間に、その裏にある、養殖を美味しく食べられることやどんな酒でも下さないことが人間としての完成形である、という価値観を滲み出させているようなものなのだが、完成形なんて概念を軽はずみに持ってもいいものなんだろうか?
そんな疑問が湧いてくる。
そして、このような完成形という価値観を人が持った時にその完成形に追われて苦しむのがまた人である。
自分で欠陥という言葉や完成形という言葉を持ち出しておいて、そんなことも感じる。
また別の角度から見ると、この”弱さ”は、毒に敏感であって悪いものを避ける能力にたけっている、とも言うことができるのだろう。
まあこれらはともかくとして、この”弱さ”?なるものが、天然の美味しい魚を仕入れる仕事に就くことの原動力になっていたり、長らくこの仕事を続けるモチベーションになっているはずである。
この”弱さ”が自然酵母でビールを造ろうとする原動力になっているのだろう。
本人に実際に聞いたわけではないが勝手にそんな風に感じる。
欠点が二人の生業につながり、それが時に先駆者となり、そういう個性として現れる。
そういうことなのだろうと思う。
欠点を克服する、とは?
ここのところ、個性だ!個性だ!と騒いでいる私にとっては、これは都合のいい見方が見つかった、そんな思いだ。
なんてったって欠点が個性になるのだからこんな楽なことはない。
でも単なる欠点だけでは個性とは言えない。
個性とは、少なくとも周りの役に立つものでないとならないんだろう。
役に立つまでは行かないにしろ、少なくとも人からどこか素晴らしいとか、羨ましい、とお世辞なしに思われるものではないとなるまい。
個性を見いだすまでの道筋ははっきりするだろうか?
その前に、欠点の克服というものについて押さえておきたいことがある。
ここでいう克服とは、例えば先の魚屋さんとパン屋さんが養殖の魚や自然酵母を使わない酒に対して薬や体質改善によって自分が強くなる、という克服のことではないということだ。
自分はそのままで環境を変えることで克服する、ということ。
魚屋さんにとっては、天然の魚を食べやすい環境に、そして、パン屋さんにとっては自然酵母の酒を得やすい環境に身を置く。
だいたいにおいて、欠点自体を改善することに無理があって、改善できたとしても人並みになればかなりましなところ。
欠点の改善はできるだけ避けて別のことに力を注いだ方がいい。
世間はなかなか許さないだろうが。
ここまでの私の経験から少なくともそう思うのだ。
別の例をでいうと、お笑い芸人さんの”天然”という資質がわかりやすいだろうか。
天然は治らない。笑。
その天然ままに続けていくことで計算するタイプのお笑い芸人さんが決して真似できないような笑いを起こせるのだ。
言ってしまえば当たり前のことなのだが、克服を目指す時に、この入口をまずは間違えないようにしたい。
これを踏まえて自分に当てはめてみることにする。
自分の欠点をあげてみると・・・
“雑” ”怠惰” ”落ち着きがない” ・・・
自分の欠点がいくらでも出てきてしまうので、このくらいで勘弁してもらうことにして・・・汗。
“雑”についてわかりやすい例を上げると、私はグラスや皿をよく割る。
薄いワイングラスで飲むのがやはり美味しいから、一度割っても今度は改心して丁寧に洗う!と誓い、買ってくるのだが、また割ってしまってどうしても長持ちできない。
これを繰り返してやっと諦めて今は厚いワイングラスを使うことにした。
皿についても同様でこれまでに短い期間で何枚も割ってきたので、今ではある人から割れない皿だと紹介された特別のものを使っている。
その割れない皿さえも一枚は少し欠けてしまっているくらいの雑さ加減。
この雑さは改善できないから、割れないグラス、皿を用意する。
そう私は、私の”雑”という欠点を、チャンと環境を変えることによって克服してきているのだ。
ただ、これを個性だと主張するのはさすがにおこがましい。
割れないグラス・皿を発明するとか、それらの製造に携わるとか、あるいは逆に厨房に一切入らなくなって外食のお店にやたらと詳しいとかまでいかないと、とても個性とまでは言えないのだろう。
欠点の環境改善ができていても、それを極めないと、とても個性とは言えないということでもあるのだ。
自分の怠惰を極めるために
今度は、私の最大の欠点”怠惰”について。
こちらもどうにかなるものだろうか?
素直な自分の感覚に耳を傾けると、私はとにかくmustが大嫌い。
この世にはmustが多すぎて、勘弁してるれ~っ、という思いが強くなっている。
これは、私のこれまでの人生が、mustに追われてきたので処理できる閾値を超えて花粉症のようにアレルギーが発症してしまったのかもしれない。(←ずいぶん大袈裟な・)
そんなこんなで私は、mustを少なくする試みをし始めることで、自分の怠惰にフィットする環境をつくってきたように思う。
mustを減らすには、欲を減らすことである。
その具体的な方法には、所有物を減らすこと、そして人との関係を減らすこと、スケジュールを減らすこと、情報を減らすこと、などがあるだろうか。
最近特にmustが増えたことでイライラすることがあった。
SNSに広告が増え、まあ広告が増えるのはそういうビジネスモデルだからしようがないとして、それ以外に、知らない人からグループのお誘い投稿がやたら増えたことに気づく。
『懐かしの昭和』グループやら、『某アイドル応援』グループやら『○○区のラーメン』グループやら・・・
年齢や性別でセグメントされてるんだろう。
最初はその物珍しさでなんとなく見ていたのだが、ある時イカンイカンと我に返る。
どこまでの時間、興味のないものに引きずられてるんだ、と。
ブロックしてもブロックしても生まれて来て、増殖し続ける知らない人からの投稿。
この薮のようなものを掻い潜らなければ必要な情報にたどり着けない。
ホントにあれだけの数がグループに対して日々投稿されているんだろうか!?そんなに日本は暇なんだろうか?
その投稿たるや、例えばAIによって投稿が生成され、SNS中毒にして人の生産性を奪うことで、人を支配することを狙ってはいないか?と陰謀論っぽいのを想像してしまうほどの数だ。笑。
そんなたくさんの不要なSNSを見なければならないとか、ブロックし続けなければならない、というmustを怠惰な人間は特に嫌う。
すでにメールがスパムメールにまみれているように、SNSもスパムにまみれて自分に必要な目的には使えなくなったということなのかもしれない。
ともかく、mustを少なくしたい。
このことを、ここのところの言葉で言い換えるとすると、断捨離になるだろうか・・・。
あまりにもいろんな欲を持てるようになり、いろんな物を所有できるようになった。
そしてどんな人とでもつながれるようになり、情報はシャワーのように浴びれるようになった。
だから逆に捨てないとならなくなった。
所有する、関係を持つ、インプットする、には必ずmustが付きまとう。
一定のルールのもと、使わないとならないし、やりとりしないとならないし、インプットによって知らなくてもいいことに影響される、といった具合に・・・。
とにかく、断捨離しなければならない。
SNSも早速に断捨離だろう。
そして断捨離をして怠惰に適した環境を自分で整えた先に、更に怠惰を極めていくのだ!
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さて、ここまでを振り返るとなんともひどい話になってしまった。
怠惰というものを、人として最低の資質の一つである、と多分誰もがいうのだろう。
私という者は、そんな人として最低のものを欠点としてもっているにもかかわらず、その欠点を改善しようとせず、それどころか、欠点を極めようとしているのだ。汗笑。
なんたる不届き者の所業だろうか?
それでも・・・それを継続して極めることで人の役に立つまでになった時に、それが村上龍さんの言葉、
「人の個性とは、欠落しているところにある」
の意味を表現することになるのだ!
そう感じられてしまった。
しようがあるまい。
怠惰という欠点に後ろめたさを感じて、改善をしようという気持ちがあるうちは、怠惰は極められない。
怠惰を極めよう、そういう思いが個性を表すために不可欠なのだ、として怠惰をポジティブに捉えようとしている。
これは決して強がりではない。汗笑。
とにかく何と言われようとまずはmustを減らすことからはじめて、怠惰を極めた未来を追いかけて、自分の個性と出会えたら最高、そんな風に今思うのだ。
※あくまでもやりたいことをやるためにそれ以外のmustを徹底的に減らそうとする怠惰であり、資本である体の健康のためのmustを減らすのではない、全てにおいて怠惰でありたいわけではないことを最後に付け加えておく。
UnsplashのSascha Sturmが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
欠点が人の役に立った時に個性と呼べるのではないか?
そうした時の人の役に立つというもの、その程度も様々なんだと思います。
クスッと笑ってもらえるところからでも始められたら、と思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
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