「あれが足りない、これは要らない」過不足だらけの世の中をうまく渡っていく方法。
食後にはやっぱりコーヒーだ。
緑茶、紅茶などいろいろ飲んではきたが、最終的にコーヒーに落ち着いた。
コーヒーに落ち着いたのは味が好みだから、という以外にもうひとつある。
それは、成分にカリウムを含んでいるから。
緑茶にも紅茶にもカリウムはほとんど含まれていない。
カリウムには、塩分(ナトリウム)を中和する働きがある。
食事で塩分を摂取するから、その過剰分をカリウムが排出してくれる。
果物も同様にカリウムを含むので食後のデザートとしてマッチするわけだ。
私というものは、あっちが痛い、これはイヤだと、若い頃に感じなかった不快を感じるようになってきた。
そう、たぶんどんどん感覚が鋭く(?)なっているんだろう。笑
そして同時にドンドン忍耐力がなくなって、ワガママにもなっている。
だから食後も、一番落ち着くところを何としても見つけないと気が済まない。
そうしてコーヒーに落ち着いたのだが、コーヒーが塩分を中和してくれているのがよくわかる。
根拠はないのだがなぜか自信がある。(←ホントか?)
現代人の塩分の摂り過ぎはいつからか大変有名になった。
だから、仮に摂り過ぎであってもカリウムを摂取して中和しようというのはいい方法だ。
中和のために食後に果物を摂るという選択をする。
これで万事解決とはいかない。
それでは、糖分の摂り過ぎになってしまうのだ。
カリウムの不足を補うと今度は糖分が過剰になる。
だからコーヒーで解決する。
いや、コーヒーのカフェインは健康に悪影響を及ぼすから、カリウムの不足を補うと今度はカフェインが過剰になる。
何かの不足を補おうとすると、何かが過剰になって、なんとも簡単にはいかない。
なんとか、いい塩梅にできないものなのだろうか?
栄養が足りない、栄養が要らない
日本の食品破棄量は、年間約1,700万t。
この食品過剰?の時代に、日本人の栄養不足はかなりひどい。
それが最たるものだと思いきや、他にも不足の栄養素があるわ、あるわ。
ビタミンA、ビタミンC、カルシウム、マグネシウム、鉄・・・・。
昔よりも、土地が痩せてしまって作物に含まれる栄養素が減少しているのだとか・・・。
タンパク質の摂取量も不足しており、1950年代と同等にまで減少してきているのだという。
その一方で、糖尿病は増加の一途。
炭水化物(糖質)の摂取過多ということになるだろう。
一体この世の中はどうなっているのだろうか?
炭水化物過剰と数々の栄養不足。
かく言う私も、見事な筋肉不足、脂肪過剰に仕上がっている。
子供の頃には、過不足のない栄誉状態でいるという基本的なことが、こんなに難しいことになるとは、夢にも思わなかった。
足りないモノ、要らないモノ
別の不足と過剰を探してみよう。
ネット通販のサイトで、大根の豊作セールを見つけた。
たくさん買うと一本当たりがかなり安くなるのを見て、ポチっとまとめ買いをした。
届いた大根の大きさといったら、とんでもなく立派でかえって困り果ててしまった。
過不足のバランスはあっという間に壊れて、大根過剰状態がスタート。
同時に、冷蔵庫の野菜室不足もスタートしてしまった。
痛んでしまう前に食べてしまわないとならないから、ふろふき大根、大根おろし、大根サラダといろいろやってみる。
やったこともない大根ステーキなるものまで作り始める始末。
おでんにしようとすると、今度ははんぺん、がんも、いとこん、など大根以外のあらゆるものが不足する。
いろいろ手を尽くすも、スタート数日にして、既に飽きてきている。
お金が不足しないように、という知恵が、すぐに過剰地獄を発生させてしまった。
こんなこともある。
デパ地下では、食品をひとつひとつ丁寧に包装してくれる。
初めての頃は、自分もやっと有名百貨店のサービスを受けられるようになったかあ、とこれまでの自分を振り返り、悦に入ったものだが・・・。
家に帰ってすべての食品の包装を破いて、食品を冷蔵庫におさめる。
包装のビニール袋はゴミ箱に捨てる。
この手間のかかること、かかること。
細かくて丁寧でサービスが行き届いていればいるほど、手間がかかる。
今や、漏れないようなしっかりとした食品パッケージに入っているのに、それを更にビニール袋に入れるとは、一体何の意味があるのだろうか?
店員さんの手間、私の手間、ダブるで労力のロス、それだけでなくて、日本のGDPがロスしてしまっている。(私の場合、包装を破る手間が浮いたところで、GDPを上げられないだろうけど・・・)
明らかに過包装。
ここにも過剰がある。
そもそも包装なんかよりも、百貨店の商品、そのほとんどが高級で贅沢品で残念ながら私には過剰なものだったりもする。汗。
私の家の中も、過不足を上げればきりがない。
捨てられないTシャツがたくさんあるが、多くは首回りがよれている。
首回りがよれていないTシャツは見つからない。
厚手のセーターがたくさんあるが、最近の東京では暑くて着られない。
薄手のセーターは探しても見つからない。
湯舟は深いので縁が高くてまたぐのが大変だが、洗面台は低くて腰が痛い。
高圧洗浄機は頑固な汚れを落とすが、フローリングにやったら強すぎてコーティングまではげてしまった。
髪の艶は不足しているが、白髪は過剰にある。
忍耐力は不足しているが、無力は過剰にある。
日本全体を眺めてみても、若者が不足していて、私のようなおじさん、おじいさんが余っている。(←余っているとは何事だ、と叱られそうだが・・・)
・・・・
残念ながらこれからも私の過不足も、世の中の過不足も、なくなることはないのだろう。
過不足だらけの世の中を渡っていく方法
過不足がこんな風にスラスラと出てくるとは・・・。
自分はなんとも欲深い者だと思う。
この尽きない過不足の中をうまく渡っていくにはどうしたらいいものだろうか?
こちらの本に、ヒントがあった。
人が生きていると不幸はどこにでも産みだすことができて、悩みというものは尽きることがない。
人は、
太り過ぎだと言っては悩み、やせ過ぎだと言ってはまた悩む。
親が立派だと言っては悩み、親が尊敬できないと言ってはまた悩む。
どんな状態でも、よりよい高みを探そうとするんだろうから、いい塩梅は永遠に見つからない。
私の過不足、そして、私の欲の深さと重なって、妙に納得する。
ある不足が満たされてしまえば、また別の不足を探そうとするから、不足もなくなることはない。
この本から、厄介な過不足という悩みとうまくやっていく方法を抜粋して、私なりに一覧にしてみた。
(過不足とうまくやっていく方法)
①過不足を(物理的に)解消し続ける
②過不足を誰か(社会、ご先祖、前世など)のせいにする
③過不足を人と比較する
④過不足の基準となる情報を信じない
⑤悟りを開く
⑥過不足を笑う
ひとつひとつ見ていこう。
①過不足を(物理的に)解消し続ける
→デパ地下の過包装に対しては、今は包装不要と店員さんに伝えて解消済になった。
このような物理的な解消が当たり前に学んだ方法で、これが一番の方法だと思っていたのだが・・・。
長らく生きてきて、別のことを感じるようになった。
ひとつは、過不足の中には自分ではどうしようもないものがあるということだ。
解消不可能な過不足が結構ある。
白髪過剰は染めればいいのだが、日本の若者不足は私ごときがどうこうできるものではない。
もうひとつは、解消し続けようとすると、それだけで人生は非常に忙しいし、エネルギーも奪われるということだ。
それだけ過不足というものは日々数多く産みだされていくものだ。
解消し続けることに残りの人生の時間を割いて、すり減っていいものなのだろうか?
そんな疑問が湧いてくるのだ。
②過不足を誰か(社会、ご先祖、前世など)のせいにする
→こちらは責任転化になる。
社会が悪いからだ。
親に似たから良くない。
前世で悪さをした報いだ。
すべての責任を自分で引き受けることが美徳だと言われるが、人はそんなには強くない。
少なくとも私は・・・。
だから、人は責任転嫁というダメージを避ける方法が備わっているのだ。
卑怯と言われようが、しかたあるまい。
③過不足を人と比較する
→私の脂肪が過剰だと言っても、あの百貫デブよりはマシだ!などと言い放って、自分の不幸を軽減させる。
人の悪口に対してより厳しい時代に突入してはいるものの、これも人に備わっているダメージを軽減するための方法なのだ。
④過不足の基準となる情報をすべて信じない
→栄養が不足しているということについて、厚生労働省が提供するデータを信じなければ、不足も悩みも一気に解消してしまう。
そう言えば、コロナ禍の時に、私はSNSに厚生労働省の言っていることがホントに信じられるのか?といったような投稿をしたことがあった。
それに対して帰ってきた返信に、「おまえは神か!?」というお褒めの言葉、いや、痛烈な批判があった。
厚生労働省を信じないだけで神になれるならば、それほどお安いものはない。笑。
あるいは、データを信じる以前に、健康に関しての栄養素史上主義という思想?を否定することもできる。
⑤悟りを開く
→すべての欲がなくなってしまえば、過不足というものは消えてなくなる。
しかし、私の場合は、悟りを開くのは今生はとても難しい、ということがよくわかる。
そこまでいかなくても、ホンの一部ならば私でも欲を抑えられるだろうか?
あまり抑えるのは体に良くないだろうけど・・・。
⑥過不足を笑う
→これは私にとってもっとも意外なものだった。
土屋さんの真骨頂はこの笑いにある。
人は、なぜか他人の不幸を笑えるようにできている。
それを自分に当てはめればいいだけなのだ。
過不足を無理して無視する必要もなく、過不足は解消しないものの、ハッピーになるし、楽になる。
私には、ちょっと考えるだけでこんなにも過不足がある。
ここまでにあれだけの過不足を解消してきたというのに、まだこんなにあるのか・・・。
そう考えるともう笑うしかない。汗。
付け加えるとすると、過不足を解消し続ける、に対して、過不足を笑う、の方が圧倒的にお金がかからない、ということだ。
さて、ここまで過不足だらけの世の中を渡っていく方法を見てきて感じることは・・・
物理的解消は、①でしかないわけなのだが、それでも①も十分ではない。
だから過不足を放置することも選択肢に入れる必要がある。
放置した上で放置が苦にならないように、ダメージを少なくするにはどうしたからいいか?を考えるのだ。
そうしてみた時に、ひとつひとつの項目によってダメージが十分に軽減できるかというと、そうではない。
また、それぞれをやり過ぎるとどれもがまたひどいこと(過剰)になったりすることが容易に想像できる。
この手法選びでも、また新しい過不足が産みだされてしまった。
そんな中、私の選ぶ結論は、これらすべてをいい塩梅にミックスしてうまく過不足に向き合っていくということだ。
私は自信をもって、これらすべてを人間の叡知として分け隔てなく、総動員して過不足という難題に立ち向かうことにしたい、と宣言しよう!
どう見てもあるものだけに制限するのは窮屈だし、網羅した方が良さそうなのは明白だ。
やはり、この手法においても『多様性』が結論となった。(多様性が大切だと何回もブログに書いてきた。)
私の自慢の多様性だ。(←私の???)
あくまでも万が一なのだが、この私の自慢の結論に対して、何らかの過不足を感じて批判する人が出てきたとしよう。
完璧過ぎてまずないとは思うのだが・・・。
仮にそうだとしても、私は大丈夫だ。
私は、私の結論に対する過不足と批判を大いに笑う準備ができたのだから・・・。
UnsplashのArtem Balashevskyが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
このブログで田中さんが少し前に書いた記事にも「出力する先としての「ユーモア」を大事にしたい、という話。」というものがありました。
ユーモア、笑いの効能について、「夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録」のフランクルが収容所でもユーモアを忘れなかった、という話は有名ですね。
これをキッカケにして、また笑いに向き合っていきたいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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