RYO SASAKI

専門家が嫌いだ!「嫌う」理由に自分の弱点が見えてくる。

タナカ シンゴ

今年も私が呑むお酒は、ちゃんとビールからワインに移ってきた。

日本酒には四季があると言うように、選ぶお酒の種類にも四季がある。

ワインバーでは、ワインスクールで学ぶ生徒さんやプロのソムリエの方に会うことがあって、専門的な話をいろいろと聞くことができる。

私の目の輝きがすごいせいなのか、「ワインスクールに入ったらどうか?」などと声をかけていただくことも多いのだが、私はどうも食指が動かない。

その理由を正直にいうと、私はワインにある権威的なところが嫌いなのだ。

ここでいう権威とは、知識によって固められた専門家に正しいものを強要され、ひいてはワインを軸に正しい人と正しくない人に分別されてしまうようなことを言っている。

偏見に満ち溢れる物言いかもしれないが、このあたりがどうも好きになれない。

私のこの権威嫌いはワインだけに留まらず、他のいろいろな権威、すべてのいわゆる専門家というものにも及ぶものだ。

昔は権威に憧れがあったはずなのに、いつからこんなひねくれ者になってしまったんだろうか?

今回は、とある後輩との会話を基に、私のこの権威嫌いについて掘ってみた、いや、掘られてしまったことを書くことにする。

表層編 ~固定観念を持ちたくない~

まずは、キッカケになったであろう、いくつかの出来事を挙げてみる。

ワインの常識のイロハのイに、魚には白ワイン、肉には赤ワインという組み合わせがあるのだが、この常識に抗っているお店に出会った。

店主曰く、赤ワインというものは味が強くてどんな食べ物とも合わないから、食事と一緒にせずに、食後酒としてそれだけを飲むのがいいのだ、という。

このことを感じさせてくれるのが、このお店のメイン料理の餃子だ。

餃子は一応肉料理ではあるのだが、赤ワインと一緒に食べてみると、強い赤ワインに餃子の味が見事に消されてしまった。

次に2種類の白ワインと合わせてみる。

一方は、赤ワインのように餃子の味が消されてしまい、一方は餃子の味が残ってワインとともに味わうことができた。

これは、私の舌でも確かに感じられたことだった。

魚に白、肉に赤という常識に裏切られた思いだった。

また、知り合いが常連だというお店に連れて行ってもらった時のこと。

店主が、

「このワインの品種は何でしょうか?」

とクイズを出題してきた。

どうやら、私がよっぽどワイン好きで、詳しいという間違った情報(好き、は合っているが、詳しい。は間違っている)が事前に店主に入っていたらしく、それで店主が手ぐすね引いて待っていたらしい。汗。

案の定、飲んでも答えが全くわからなかった。

正解は、メルローという有名な品種だった。

店主はメルローワインの常識的な味の特徴とは似ても似つかない味のメルローワインを引っ掛け問題として選んだのだった。

ところが、そもそも私の舌は基本的なメルローの味ですらはっきりしない。汗。

だから、正解がメルローだと聞いた時の私の反応はすごく驚くでもなく微妙なもので、店主は拍子抜けしたようだった。

私は全く引っ掛け甲斐のない客と認定されることになった。

私の舌の話はともかく、ワインの教科書にあるメルローワインの味はこうだ、というものに当てはまらない個性的なワインが世の中に結構存在するらしいのだ。

ならば、メルローがこういう味だと覚えてしまうことはどうなんだろう!?と引っ掛かりが出てきてしまう。

またある店主からは、ドイツという国のワインの等級は、その糖度の高さによって決まっている、と聞いた。

甘いほど、評価が高いということになる。

糖尿病の時代に、糖度とはなんとも古くさい!と思わず失礼なことが口をついて出てしまった。

これに対して、最近のドイツの若手の造り手に、等級に逆らって(等級は低くていいから)、美味しい辛口の自然派ワインを造るものが現れているという。

このような動きは、フランスでも以前から広がっているもので、等級を保つためには品質と味の安定がある程度必要だが、等級と安定を追いかけずにできるだけ自然に任せる(それは、肥料やSO2という添加薬品の使用を控えるということでもある。)若い造り手が出てきているのだ。

酒場を巡るといろんな情報に触れられるわけなのだが、私は、先ほどのような常識の外側だったり、常識の変化の予兆というものだったりに、どうも縁があって、その邪道?を特に面白く感じる。

そして、これもワインだけに限らず、他のあらゆる専門家の限界っぽいものがやたらと目についてしまうのだ。

コロナのような未知のものに対しては、専門家ですらも、意見が別れて右往左往したし、安心できる根本的な対策を結局は示してくれていないような印象が残ったまま今に至る。

他にも、目についた料理対決のTV番組がある。

3人の組になって制限時間内に、リレー形式でつないでひとつの料理を作る。

そしてその料理の味を競うというものだ。

ミシュランシェフチーム 対 料理得意芸人チームの対決のお題は、「肉を使った麺料理」というような漠然としたもの。

チーム内の事前打ち合わせも当日の会話もしてはいけないルールがある。

リレーを受けた人は前の人が仕掛けた調理の状態から想像して、仕掛けた料理を作り続けなければならない。

なんとこの勝負で、芸人チームが2連勝したのだ。

「それ見たことか・・・専門性が高いと他との連携が難しくなるんだよ。」などと私はなぜか上機嫌になった。

どうも私という者は、専門家が伝える王道、もしくは常識というものを強要されて、それが固定観念になってしまうのが嫌なようで、専門家が困っているとどこか心の底が喜ぶようになってしまったらしい。

深層編 ~専門性が修得できない~

ここまでのことを、意気揚々としゃべった私に、「それはわからんでもないですけど、でも何でそんなに専門家を嫌うんですかね?」

とある後輩が返してきて、ハタとしゃべりが止まった。

今、その理由を説明したではないか?

何を聞いていたのか?

後輩は、人が人を嫌うにはそれなりの理由があるのだ、というようなことを続けた。

ある本によると、人が人を嫌う理由が全部で8つあるのだそうだ。

(1)相手が自分の期待に応えてくれない

(2)相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがある

(3)相手に対する嫉妬

・・・・

※ここでは、8つのうち、3つのみ挙げる。

「これに当てはめてみましょう。ワインの権威が、期待に応えてくれない、ということはありますか?」

「いや、権威はもちろん詳しくて、話を聞していろいろと勉強になることが多いから、そんなことはないかなあ。」

「じゃあ次に、危害を加えられるというのはどうでしょう?」

「固定観念を作らされてしまうのは、危害と言えば危害かもしれない。」

「えっ?こちらから学びにいかなければ強要されることがないから危害はないんじゃないですか?それと固定観念を作り出すのは先輩自身ですよね!?何事も真面目に聞きすぎるんですよ。僕みたいに話半分で聞けば固定観念なんてものは産まれませんから・・・。」

畳みかけられて何も言い返せなくなる。

「次に、嫉妬はどうですか?」

「嫉妬なんてあるわけない・・・」

と言いかけたところで、私の記憶は子供の頃に飛んだ。

私は子供の頃から、好きな教科だけを勉強するということができずに、全教科を網羅しないとならない人だった。

親から全教科オールAを求められた?

国公立に受験するために全教科を網羅しないとならなかった?

そんな環境によってできあがったものだと思ったのだが・・・。

それ以外にも別の理由らしきことが、今になって浮かび上がってきた。

私には頑張らないで素のママだと、飽っぽいところがある。

同じことを続けてやることが人よりも苦痛なのだ。(人とどうやって比較したのか?全く怪しいのだが・・・)

大人になってからいくつかトライした資格試験についても、受験勉強の後遺症も手伝って、カリキュラムどおりに学ぶことが、ウンザリだったことを思い出した。

そしてまた立ちが悪いのは、試験勉強をしている時に、試験の問題には出ないようなしようもない疑問が浮かんできてそこに興味を持っていかれてしまうことだ。

そんな調子だから、試験勉強が遅々としてはかどらない。

私という者は、強要されることなく、学びたいことを好き勝手に学びたいというなんともわがままな人なのだ。

こんな風にして、私は決まっている専門性を修得すること自体が苦手であることに気づかされるのだった。

確かにそのとおりに、私という者は資格も持ってなければ、どの分野の専門性も何一つ持っていない。汗。

そうだから、その苦手な専門性を持っている人を羨ましく思う。

そして、専門家に自分は成れないから、どこか負けているようにも感じる。

これが、まさに嫉妬というものか。

私がワインの権威を嫌うのは、固定観念への恐怖があるからだ、と思っていたのだが、実はそう思い込むことによって専門性習得が苦手であること、そして、専門性に嫉妬があることを、覆い隠してきたのではないだろうか?

・・・

おい、後輩よ!目上の者の核心を突っつくんじゃない。

バツが悪くなって、その後は多くを語らずその場をモヤモヤっと終わらせた。

それの何が悪い

また自分のイヤ~なところを発見してしまった。

どうやら、何かを嫌っているということは、何かを警戒していることの現れのようだ。

警戒しないとならないということは、そこに必ず自分の弱さがあるということにもなる。

隠れていたのは、特に権威から言われると真面目に何でもすぐに信じて、固定観念を作ってしまうという弱点。

そして、ひとつの専門に集中できないという弱点。

これらの弱さがないならば、嫌うということはないはずなのだ。

私がホントに嫌いだったのは、ワインの権威ではなくて、自分の弱点の方だった。

それを逆恨みするとは何たる卑怯者だろうか・・・。

いやいや、卑怯者は今に始まったことではないか。

はい、私は卑怯者です、ではとても終われまい。

なんとか、前回記事(自己嫌悪に終止符を打つ)にすがることにしよう!

今更直せない性分に自己嫌悪するのは意味がないのだから・・・

弱点があって何が悪い!

これは私の個性なのだ。

弱点を強みに転換させるのだ。

これからも何でも興味が湧いたことを薄くつまんでやる。

ずーっと専門家の王道の周りの邪道をグルグル回って生きてやる。

これが、私の性分なのだ。

開き直るしか手立てがないのか!と言わないでくれ。

そんなことを思っていると、不思議と私が必要とする人が目の前に現れるものだ。

ビアバーに後からやってきて、私の隣の席に座ったとある男性。

聞くとワインを買い付けにフランスまで通うなどして、ワインへの投資をしているという大変なワイン好きだ。

そんなワイン好きから出た言葉は、

「最近は、マルゴー(フランスの有名なワインの生産地)を呑んだと話すと、何年物ですか?と必ず聞かれるんで、ウザくなってるんですよ。それに比べてビールは自由でいいですよねえ。」

というものだった。

ワインの権威の話?というのは、そこから何年物のマルゴーは当たり年の良いワインだとか、何年物はこんな味の特徴だといった風に、自分の知識をひけらかしながら会話をしていくものなのだそうだ。(←なんとも嫉妬に満ちた悪意ある表現になってしまった。汗。)

かなりのワイン好きから、こんな風に元気づけられるとは・・・・。

ウ~ン、やっぱりワインの権威が嫌いだ!

UnsplashGuillaume de Germainが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

吐き捨てるように終わってしまいましたが、専門家の方々にはいろいろ勉強させてもらいながら、楽しく呑ましていただいているのもまた事実であります。

本物の専門家は、すべて常識を学んだ上でその外側も学ぶ、いわゆる守破離の離まで行ってるんだろうなあ、とも思います。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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