RYO SASAKI

「正しく怖がる」なんてできるのか?恐怖心をコントロールしながら生きる。

タナカ シンゴ

以前に、動物占いというものが流行った時期があって、私は『羊 ひつじ』に分類された。

周りはピッタリだと言っていたが、それは私の髪がテンパー(天然パーマ)だったから見た目『羊』っぽいだけだろ?と疑ったものだ。

ただ、『寅』と分類された人は、立ち振る舞いがどこかパワフルで、悪くいうとどこか自己主張が強くて、確かに当たっているかも、と思ったこともあった。

少なくとも自分は『寅』ではない感じがする・・・。

『羊』と言えば常に恐怖に怯え震えているようなイメージがある。

ならば、自分はこれまで恐怖に怯えて生きてきたんだろうか?

振り返ってみると、

夏休みの宿題は、計画通りにやらないとパニックになる自分に怯え、計画通りにしかやらなかった。

これは恐怖に震える小心者のわかりやすい例かもしれない。笑。

会社では激昂する上司に正座で何時間も説教されて何もいい返せず、上司の恐怖にその後も震えていたことがある。悲。

最近で言えば、災害時、住居は3階までは水没の恐れがあり、高層階はエレベーターが動かなくなる恐れがあるということで、5階に固執したりしている。

これもひとつの怯えの現れかもしれない。

こんな風にちょっと考えただけで、いろんな『羊』が思い浮かんでくる。

ということは・・・自分はやはり『羊』なのだろうか?

いやいや、恐怖に震えた経験のひとつやふたつ、誰にでもあるはず。

これだけで『羊』とは言いきれないのではないか?

まあそれはともかくとして、今回は、とりあえず動物占い『羊』の怯える私が、『恐怖』というものについて考えてみることにする。

正しく怖がりましょう!

先日ある人が、
「あの緊急アラートの音、怖いのよ、何とかして欲しい。」

と話しかけてきた。

ちょうど、南海トラフ地震の起こる確率が上がったとかで、発動した緊急アラートのことのようだ。

その人は、その音にドキッとして急に怖くなったと言うが、怖くなっただけで何をどうしようというのか?と嘆く。
南海トラフ地震の発生確率(今後30年以内での)がこれまでの70から80%から、80%に上がった。
その緊急アラートに対して緊急に何をどう対処したらいいのだろうか?
確かにこの人の言いたいことはわかる。

確率は有益なものではあるが、その認識からかえって人の過信を誘うようなところがある。

30年の幅はあまりにも広く、20%は発生しないということを示している。

わかったようでいて、結局いつ起こるかは誰にもわからない。

確率というものに煽られてはいまいか?

確率が上がった程度?の割に、緊急アラート音が怖がらせすぎてはいないだろうか?

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「正しく怖がりましょう!」

これはコロナ渦が始まって少し経過したあたりで初めて聞いた言葉だった。

ちょうど、社会全体がコロナについてまだまだわかってなくて、「このままいくととんでもない死者数になる」という予想がある専門家からメディアに出たりするなど、社会は恐怖の底にいたと思う。

そのタイミングでの「正しく怖がりましょう!」は、

「過剰に怖がるのも神経はすり減るから良くないですよ。」

という恐怖を緩和する的確な?言葉だと思った。

同時にこの言葉に違和感もあって、

「正しく怖がりましょう!」

そんなことができるんだろうか?

テレビに出てる専門家を信じればそれで済むというのか?

後から正しい方法が何かがわかるだけではないか?

などの疑問が湧いてきて、どこか無責任な言葉だとも思ったのだ。

未知のものに対して正しく怖がるなんて超能力者の芸当ではないのか?

今回の緊急アラートの件で、この「正しく怖がりましょう!」という言葉を思い出した。

直近だと、日本列島横断の大型台風。

「史上最大級で甚大な被害が出ています。注意してください。」と全国放送が一律に煽るのだが、どこに住んでいる人が見るかによって、煽りのトーンは変わってしかるべしだろう。

台風の進路の予想は当たらずに、予想はドンドン変わっていく。

どこか煽られ損だと感じる。

バラエティー番組でよく耳にする、

「超絶~」「超々~」「スペシャル~」「緊急参戦」

などの煽り文句と同類のように感じられるのだ。

自分のところが事なきを得たから、後から煽りだと言っているだけなのかもしれないのだが・・・。

ここまで、確率やメディアに対して文句をつけてみたのだが、それらを全否定しているわけではない。

専門家が示す確率を無視する方法もあるが、いつ危険が迫るかは誰にもわからないのだとすると、危険を避けるためには危険を回避する確率が高いものを選択していく他に手だてがない。

だから確率を参考にせざるを得ない。

メディアなどのアラートによって煽られて疲弊しようとも、事前に危険を知らされることで被害が減る場合もあるのだから、トータルするとそっちの方がいいと言えるのだろう。

メディアは危険を避けるための有効な情報を提供する使命を持っているし、良かれと思ってやっている。

もし、危険を過小にしか知らせなかったとしたら、責任問題になるだろうから、怖いくらい過剰にしておかないといけない事情もあるんだろう。

ということでメディアをそのまま額面通りに受け取ると怯え過ぎてしまうこともあるにはあるが、だからといって無視するわけにはいかないのが現実なのだ。

恐怖に支配される

ここまで「正しく怖がりましょう!」という言葉を取り上げて、いろいろ頭を巡らしてみたのだが、改めて”正しく怖がる”ということは単純なものではなくて非常に難しいことなのだ、と感じる。

”正しく怖がる”とは、危険を過少評価せず、一方では過剰な心配をせずに、適切に危険に対処する、ということになるのだろう。

でもいつどの程度の危険が身に及ぶかは誰にもわからないので、危険を甘く見て対処せずに危険に巻き込まれてしまうケースがある。

そして一方では、危険に対して簡単に過剰に心配して過剰な対処がされてしまうものでもある。

「1999年に人類は滅亡する」というノストラダムスの大予言の時に、都内から新潟の実家に退避した先輩のことを思い出す。

私は小心者の『羊』なのかもしれないが、ここまでではなかった。汗笑。

情報に”煽られている”というのがこの状態に当たると言えるのだろうか・・・。

情報社会はたくさんの危険情報が出回って、過剰な心配の方にベクトルが傾きやすいとも言えるのではないだろうか?

私もこれまで、その情報に煽られてきたひとりなのかもしれない。

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思うに、人間も生物の種として生きながらえるために人命に関わる危険から恐怖を感じて、その危険を排除してきた。

危険そして恐怖の排除こそが人間の生きる目的の根本にあるといってもいいのかもしれない。

地震や台風による災害はもちろんのこと、例えばすぐに他人の言動に違和感を抱くようにできているのも危険をいち早く察知しているからである。

その違和感は一種の危険アラートでそこに恐怖を感じる。

その違和感は排除しないと自分の身に危険がおよぶ!と遺伝子が騒ぐ。

そして、力で戦うことや説得することやマウントをとることなど、様々な方法でその危険を無力化して恐怖を消滅しようとしているのだ。

命に関わる危険を避けようとする遺伝子は平和な時代には暇になって持て余すから、そこまで危険でないものにその遺伝子が発動するようになる。

それによって、小さないさかいは絶えない。笑。

違和感に限らず、明らかに仕事、家事、渋滞などスムーズに進まないことへの苛立ち、これも自分がデメリットを被ることへの恐怖からきている。

そんな風に考えてくると、人はまわりにある危険を常時見つけようとしていて、その結果、(排除すべき)恐怖によって支配されやすい生き物であると言えるのではないだろうか。

今の時代は、そこに更に、南海トラフ地震発生確率80%などなど、昔知ることもなかった危険情報が被さって入ってくる。

余計に恐怖に支配されやすくなっているんではないだろうか!?

恐怖心をコントロールする

この社会は、想定してないことがしょっちゅう起っていて、いわゆる予想不可能な社会である。

またこの社会は、いろいろな危険情報が昔よりも出回るようになった社会である。

そして、人はその遺伝子によって危険を排除しようと常に見張っている。

このことは小心者の私でなくても・・・と敢えて付け加えておく。

これらのことから、人は恐怖心に支配されやすい生き物である、と結論づけてみたのだが、そうならばそこに生きるための知恵がまた生まれるはずだ。

ほっとくと遺伝子が過剰に恐怖心を感じる人間という存在。

しかし、そもそも恐怖心に常に怯えて生きるのは幸せな状態とは言えないだろう。

これまでは恐怖心に怯えて危険を排除しないと生きながらえない時代が長かったのだろうけど今は昔ほどそうではなくなってきている。

なので遺伝子が発動するままほっとかずに、恐怖心をコントロールする必要があるのではないだろうか?

平和でもて余す時代の「危険だ!」という直感は生命にかかわるものばかりではない。

たわいもないものが多い。

危険を感じすぎると疲れてしまうから、幸せな生き方とは言えない。

だから危険と感じても排除する必要はないのだ。

そう自分に言い聞かす。

直感がきた後、一拍置いて「どうでもいいことだ」と。

こうすることによって、不要な恐怖をできるだけ消滅させながら生きるのだ。

直感の大切さを何度か書いてきた自分なのだが、こればっかりは思考によるコントロールか必要に思える。

ただし、災害については、そう簡単なものではないだろう。

確率を無視せずにしっかり理解はするが、そこにすべてを依存せずに、どこか運・不運に身を委ねて、受け入れる。

こんなところだろうか?

どこかボヤッとした結論になってしまった。

ところで、南海トラフ地震の確率80%だと言われているにもかかわらず、日本で大移動が未だに起っているという話を聞かないのはなぜだろうか?

そこには必ず理由があるはずだ。

信じたくないのか、移転によるデメリットの方が大きすぎるのか、確率の信憑性を怪しんでいるのか・・・。

あるいは・・・『羊』の私が、ワザワザ「身を委ねて、受け入れる」などと書かなくても、既にわかっている人が多いのかもしれない。汗。

南海トラフ地震への正しい恐がり方を誰かに教えて欲しいものだ。

UnsplashOlesya Yemetsが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

発動する恐怖心のコントロールは、大切なテーマだと今回、あらためて感じました。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

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