多様性社会のためにできることは、少しずつ自分のキャパを広げていくことだ。
最近の仕事のやりとりから、数年前に北海道に行ったことを思い出した。
その時には、「べてるの家」というところに訪問した。
こちらは、幻覚や幻聴などの精神障害のある人が100名以上暮らしている施設だ。
さまざまな症状を無理に直そうとするのではなくて、受け入れていこうという方針が、ここの他と大きく違うところ。
ミーティング中、大声を上げている人がいても、いつものことで周りの誰もが放置している。
また、当事者研究と言って、どんな時にどんな幻覚が起こるか?なぜそうなるのか?当事者が自身で分析し発表するというユニークな方法がずーっと継続して行われている。
幻覚があることを自他ともに個性として認めているのだ。
大いに刺激のある訪問だった。
そもそも、この訪問には、多様性社会について学ぼう、というねらいがあった。
私は、少し前にも「自分の取説作成のすすめ~メタ認知は多様性社会への第一歩なのだ~」という記事を書いた。
この自分の取説作成と「べてるの家」の当事者研究が、後からキレイに重なるのだった。
続けて思ったのは、ここ最近の私は、何だか”多様性社会”という言葉をよく使っているのだが、”多様性社会”をかる~く”それぞれの個性を活かす社会”という意味合いだけで使っている、ということ。
私が「べてるの家」から学んだことはこの”個性”というものだけだったんだろうか?
今になって急に、折角の訪問から何も学べていないような気がしてくる。
こんなキッカケから、時を経て、「多様性社会」というものについてもう少しチャンと考えてみたいという思いが浮上しきたのだ。
多様性社会とは、「生きづらさ」を解消するもの
社会で注目されている”多様性社会”のキーワードは非常に多岐に渡っている。
人種、貧困、LGBT、ジェンダー、障害者、働き方・・・。
さまざまなものがあるのだが、これらに共通していることは、どれも人々の”生きづらさ”を解消していこう!という試みであるということだろう。
少数者(マイノリティー)、あるいは弱者(とりあえずこう言っておくが)が、ここまでの均一な正しさ、あるいは常識と言ったものから外れるために、マジョリティー側から差別を受けたりするという構図だ。
一般的な人(とりあえずこう言っておくが)と異なる人が、差別される、あるいは、やりたいことができないなどという、生きづらさを解消しようとしているのだ。
この”生きづらさの解消”は、誰にとっても永遠のテーマなのかもしれないと思ったりするし、もちろん大いに賛同するものだ。
付け焼刃の私が上記のそれぞれの問題に対してどうこう言えるものではないから、この共通する”生きづらさの解消”という言葉に焦点を当てて、私が思いつく範囲で、考えてみたいと思う。
生きづらさの総和を測る
様々な”生きづらさの解消”が簡単でない理由は簡単だと思う。
ある人の”生きづらさ”を解消することが、”周りの生きづらさ”を増やすことになる、ということによるものだ。
こんな話を聞いたことがある。
アメリカのある人は発作持ちで、飼っている、いや、パートナーとして一緒に棲んでいるペリカン(確かそんな大きな鳥だったと思う)が横にいないと、発作が起こるらしい。
その人が、そのような医者の診断書を提出して、飛行機の隣座席にペリカンも同乗させることを要求したという。
にわかには信じられなかったが、実際にあった話らしい。
ペリカンの同乗はその人(少数者であり、弱者の)にとって発作という生きづらさを解消するために大切なことだ。
しかし、ペリカンが飛行機にいるなんて!
周りの乗客やスタッフにとっては、むしろ、”生きづらさ”が増してはいないか?というところに突き当たる。
”生きづらさ”の総和が増えてはいまいか?
周りの多数の不快とこの人の発作の解消を天秤にかけることも難しいものではある。
多数決ならばマイノリティーの”生きづらさ”は永遠に解消されない。
生きづらさの総和なんてものは測れるものではないし、ナンセンスかもしれないが、それでも社会の全員の”生きづらさ”がプラスになるかならないか?しか、適当な判断軸が見つからないように思うのだ。
まあ、この場合はペリカンは結構大きいので飛行機の安全な航行に支障が出る、という納得するような理由が出るかもしれない。
では、もう少し小さな動物だったらどうだろうか?
猫は、飛行機の中に持ち込める動物のひとつらしい。
※航空会社によって、機内に持ち込める動物が定められている。
私は猫の持ち込みを許容できるだろうか?
持ち込めるルールが定められているならば文句は言えないが、となりに同乗したら、どこかドキドキするように思う。
猫アレルギーがあるわけではないのだが・・・・。
もし、猫アレルギーの人が世の中に増えれば、”生きづらさ”の総和は増えてしまうのかもしれないから、ルールは改定されるのかもしれない・・・。
例えばこの猫の例のように、物事ひとつひとつに対して、”生きづらさ”の総和に照らし合わせなければならないのではないだろうか?
自分だけ楽をするのは許さない
次に「べてるの家」の幻覚がある人とミーティングする機会があったという場面を想定してみよう。
ミーティングの途中に幻覚によってパニック状態になることは、ミーティングに支障はあるが受け入れることにしよう、というのが包摂が、多様性を容認する方法のひとつではある。
では、ミーティングをするのに、毎回遅刻する人がいたしたら、それに対してはどうだろうか?
幻覚と同様に包摂できるのだろうか?
私は包摂するなんてとてもできない。笑。
なんでって?
こっちは、自分は朝が弱いにもかかわらず眼を擦りながらなんとか起きて間に合ったのに、ゆっくり寝られて楽してる、これは何ともズルい。
私のような了見では、自分だけが苦労して、周りが楽することが損しているようで許せないのだ。
では、この人と幻覚が見える人とは、何が違うのだろうか?
それは、努力して改善できるかどうか、に尽きる。
もし、遅刻が常習化してそれが精神的なもので病んでいるとしたならば、ズルいとは思わなくなるだろう。
車イスの人に座ってて、ズルいと思わないように・・・。
相手が努力して改善できるかどうかの判断が、包摂、受容を是非を分けることになっているのだ。
個性にまで引き伸ばしてみる
今度は更に、この改善できる、できないを、人の個性というところまで引き伸ばして考えてみよう。
せっかちな人、逆に、おっとりしている人、細かいことが不得意な人、怒りっぽい人・・・・
様々な個性がある。
例えば、せっかちな人に、じっくり考えよう!と逆のことを言った時に、どこまで改善できるものだろうか?
細かいことが不得意な人に、細かいことを依頼した時はどうだろうか?
ある程度は、改善できるものかもしれないが、せっかちな人はじっくりなんてやりたくないだろう。
細かいことが不得意な人は細かいことをやりたくないだろう。
この不得意なことを強制されることも同様に”生きづらさ”を増やすこと、とも言えるのではないだろうか?
そのやりたくないことをするのは、どのくらい苦痛なのか?他人がわかるものではないし、比較できるものではないのだが・・・。
”生きづらさ”の解消をするための方法として、個性を活かすべし、とも言える。
得意なことをやってもらう。
周りの人の方は、せっかちな人のせっかちは改善しない(変わらない個性だ)、と判断してしまうと容認・包摂ができるようになる。
せっかちは改善できる、としてしまうとそこに努力不足を感じて包摂できないのだ。
改善しない人は、我慢しないで楽している。
わがままでズルい、と。
こうして、個性を生かすことも”生きづらさ”を減らす方法なんだ、とあらためて納得するのだった。
人には努力して改善してもらわないとならないところがたくさんある、というのが、これまでの常識的なことではある。
そして、努力が不要ということにはもちろんならないものだとは思うものの、一方で改善するところを減らすことに、私は多様性社会の可能性を感じるのだ。
多様性社会のためにできること
今回、「多様性社会」というものを考えてみて、結局最後には、個性を活かす話になってしまった。
この個性を活かすことは、冒頭のいくつかの社会問題解決によって”生きづらさ”を解消する話とは、別モノだし、優先順位が違う、と思うところがないわけでもないが、私には同じ仲間のように感じられた。
そして、日常を観察すると個性による”生きづらさ”の解消は既に始まっているように感じる。
最近お気に入りの、ワチャワチャする、という言葉。
ワチャワチャするというのは、例えば、
A:「どうも自分は〇〇がうまくできないんだ。」
B:「変わってるねえ、ありえないよ、直してもらわないと・・・」
A:「無理なのよう・・疎くって辛くって・・・」
B:「ホント?楽しようとしてない?しようがない奴だなあ・・・」
などなどと意見の応酬の様子を言う。
あちらが自分らしさを出して”生きづらさ”を解消すれば、それによってこちらの”生きづらさ”が増えたりする。
努力によってどこまで変えられるのか、あちらがどこまで変わるのか、あちらの楽を認るのか?あちらの個性を探り、あちらのズルさを探る。
変われるはず、いや無理なのかも、などと・・・。
変わらないと判断するには、人を深く知らないとできない。
拒否して、また容認して・・・ずーっとそのワチャワチャが繰り返されている。
世の中のこのワチャワチャ時間は結構多いのではないだろうか?笑。
自分の”生きづらさ”の解消を目指し、あーでもない、こうでもない、とやりとりし、思惑通りに言ったりいかなかったりしながら、結局は全体の”生きづらさ”の解消の最大化を目指しているように見える。
急に答えが出るようなものではないから、このワチャワチャが、実はベターなやり方なのではないだろうか?
何とも微笑ましくさえ思えてくる。
こうして時間をかけて社会は変わっていくものなのだろう。
さて、ここまで来たところで、多様性社会のために自分が何ができるのか、まとめてみたい。
まずは、自分の”生きづらさ”の解消をしたいならば、周りの”生きづらさ”の解消をして、社会全体の”生きづらさ”の解消を最大化しないとならないんだろう。
自分だけの”生きづらさ”の解消、という抜けがけには限界があるはずだ。
でも、世の中に存在する何でも容認できる素晴らしい人のように、私は周りが楽をすることを、心から喜べる器がない。汗。
周りの人のすることを何でも容認して、”生きづらさ”を解消すればいいかというと、それによって我慢すれば、結局は社会にストレスが溜まることになり、長い目で良くない。
我慢しない納得した容認が必要なのだ。
容認することが一つでも増えたならばそれは自分のキャパが増えたことになり、その積み重ねが、多様性社会の実現につながるのではないか?と思うのだ。
周りの個性に改善を要求することも必要だろう。
それでも、納得して容認することが一つでも増えたならばそれは自分のキャパが増えたことになり、その積み重ねが、多様性社会の実現につながるのではないか?と思うのだ。
飛行機の隣の席に猫が乗ってきても、まああんまり気持ちはよくないけどまあいいよ、ってしよう。
猫の気持ち悪さは、「動物なんてのはあり得ない」っていうこれまでの経験、あるいは常識がそうさせているだけかもしれない。
猫が隣に来ても全く問題ないかもしれない・・・。
そう、常識ってものは、意外とそんなものだったりする。
容認できないものも間違いなくあるだろうが、慣れだけでいけるものもあるはずだ。
周りが多少は(笑)、楽をしてもいいし、多少は(笑)、周りに騙されてもいい。汗。
この猫のように、日々小さいが新しいことが自分の目の前に現れて、容認を求めてきてるんだろう。
まあ、ワチャワチャやりながら、昨日より今日、今日よりも明日、自分の容認できることをひとつずつ増やして、自分のキャパを広げていこうと思う。
私ができることは、せいぜいこんなところだろう。
参考図書:
『多様性との対話』
『弱さの研究』
『多様性の科学』
UnsplashのNaassom Azevedoが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
容認には、人の個性を知ることがやはり必要になるのだと思います。
でも、知ることによって個人への肩入れでバランスを崩すこともあったり・・・。
社会の総和なんてものは、簡単ではないですね。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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