田中 新吾

「他者のために」働きかけることができるのは、「自分のために」が満たされている人だけ。

タナカ シンゴ

先日、知り合いからこんなエピソードを聞かせてもらった。

一週間くらい降り続いた雨の合間をぬって、家族で「無農薬のブルーベリー狩り」に行ったそうだ。

旦那さんと一緒に1キロパックに収穫していくと、その隣で収穫されたブルーベリーを子供たちはひたすらパクパクと食べていく。

パクパクと食べはじめてから30分くらい経つと子供たちに大きな変化が。

大人が何も言わずとも、子ども同士で「これ美味しいからどうぞ」をしたり、ブルーベリーを収穫している人を手伝ったりといった行動をしはじめた、というのだ。

幼児教育が専門のその知り合いは「自分が満たされると周りに目が向くんですよね」と言っていた。

育ちの核は「満たされること」だと。

これは言い換えると「まずは自分のためにが大事」ということになるのではないだろうか。

少なくとも私はそう思うに至った。

そして、このエピソードを聞いて、思い返され、頭の中で結びついたことが私にはいくつかあった。

まず自分のために働け

ホンダの創業者である本田宗一郎はたくさんの胸に刺さる言葉を残しており、それは「Honda ISM」として形になっているのはご存知の方も多いはずだ。

ー 見たり、聞いたり、試したりで、試したりが一番重要なんだ

ー 松明は自分の手で

どちらも私の好きな言葉である。

時に大きな原動力にもなっている。

そして、彼が残した言葉の中でもとりわけ好きな言葉がこれだ。

ー まず自分のために働け

「私はいつも、会社のためにばかり働くな、ということを言っている。

君たちも、おそらく会社のために働いてやろう、などといった、殊勝な心がけで入社したのではないだろう。

自分はこうなりたいという希望に燃えて入ってきたんだろうと思う。

自分のために働くことが絶対条件だ。

一生懸命に働くことが、同時に会社にプラスとなり、会社を良くする」

世の中の経営者の言葉には「それは綺麗事だ」と思うようなものも正直言って多い。

だが、本田宗一郎のこれはリアリストらしくきわめて現実的な言葉だと私は思う。

「まず自分のために」が絶対条件。

これは本当に深く頷ける。

出典:HONDA「Honda ISM」

複数人が関係するプロジェクトを動かしていると「当事者意識をどう持ってもらうか?」は頻出の課題だ。

これに対して私の経験則を引っ張り出すと、当事者意識というのは「当事者意識を持って取り組んで欲しい」とお願いすることにあまり大きな意味はない。

大事なのは本人がそのプロジェクトに「自分のためになる」を実感できるかどうかだからだ。

「自分のためになる」を実感できるのであれば当事者意識は自ずと出てくるもの。

だからこそ、プロジェクトリーダーにとって大事なことはその人との間に「自分のためになる」を見出すことだと、学んできた人生だ。

己が異常に狭隘(きょうあい)すぎる

「疲れすぎて眠れぬ夜のために」の中で、著者の内田樹氏は、「最近の人は利己的だ」という避難について持論を展開している。

最近の人は「利己的」だ、という非難をよく耳にします。

ほんとうにそうなんでしょうか。

ぼくはそうは思いません。

彼らは「利己的」なのではなくて、単に「己」が異常に狭隘(きょうあい)なだけなのではないでしょうか。

己が異常に狭隘」とは一体どういうことなのか?

狭隘 = せまいこと

例えば「むかついて人を殺す」という若者がいたとして、これは利己的な行為なのだろうか?

内田氏はそうは思わないという。

「むかついて人を殺した」若者は、その後逮捕されてしまい、禁句され、裁判を受け、刑務所に入ることになり、長く苦しい痛みを経験することになる。

一瞬のむかつきを解消するという快適さを選んだ結果、長い期間にわたる不快をその代償として引き受けるというのはどう考えても割りに合わない。

この場合の「利」は「むかつき」であって、自分を構成する様々な要素がある中でほんのごく一部の快感の達成を優先的に配慮しているだけ。

このような人は利すべき「己」が、「自己」の本来的なサイズよりだいぶ小さく狭くなってしまっているのではないか。

ということだった。

この論に従えば、例えば、セックスやドラッグのもたらす快感の達成などを優先する人間もまさに利すべき「己」のサイズが限りなく狭くなってしまっていると言っていいだろう。

利されているのは己ではなく、己を構成するごく一部でしかない「局所的快感」や「幻想的な欲望」にもかかわらずこれがどうして利己的だと言えるのか?ということで、私もこれには直観的に納得がいき、随分ハッとさせられた覚えがある。

そんな内田氏は周囲の特に若い人たちに向けて「もっと利己的に行動しなさい」というそうだ。

もちろん、ここで言う利己的とは、瞬間的な劣情や怒りや憎しみのことではなく、そのようなものも含みつつ、それ以外の無数の要素を取り込んだ開放的なシステムのこと。

それらをどうバランス良い形で立ち上げるか、それこそが大事なことだと述べている。

他者への愛の原点は「自分への愛」

心理学者で哲学者のエーリッヒ・フロムの著者「愛するということ」の内容とも結びついた。

思うに、フロムのこれは利己と利他における慧眼が示されている名著だ。

この本の中でフロムは、愛の行為においては下に示す3つの発見がありそれが愛の証明になると述べている。

「自分の発見」

「他者の発見

「人間の発見」

愛の行為において、つまり自分を与え、相手の内部へと入っていく行為において、私は自分を、いや相手と自分の両方を、そして人間を、発見する。

ここで注目したいのは「他者と自分の両方を発見する」ことが愛の証明であるという部分。

愛というのは「他者を愛するか?」または「自分を愛するか?」という「どっちか主義」の二択ではないというのだ。

私たちは「愛する」と聞くとどうしても、教育による影響なのかほぼ無意識的に「他者を愛すること」だと思ってしまう。

ところが、フロムはそうではなく本当の愛とは「他者も自己も両方愛する」ことだと述べているのだ。

そして、他者への愛の原点になるのは「自分への愛」だとしている。

フロムの主張を抜き出してみる。

「利己主義は、自己愛とは同じどころか正反対」

「利己的な人は自分を愛しすぎるのでは無く、自分を愛さなすぎる」

「利己的な人は他人を愛せないが、同時に自分のことも愛せない」

いずれも私にとっては目から鱗の内容だった。

つまり、例えば、ある人が「私はあなたのことを愛しています。だから自分のことなんてどうでもいいんです。」と言った場合、ここにフロムの考える愛は存在しないということである。

「自分への愛が不足しているから利己的が生じる」のではないか、といった主張は前述の内田氏のものとも結びつく。

一方思うのは、今を生きる私たちは他者を愛することよりも「自分を愛すること」の方が難しいと感じてしまう部分があることだ。

この理由を考えると、思うに「自分を愛する」ことイコール勝手に「利己的」のように感じてしまうからだろう。

人間には「難しい」と感じるものは後回しにしてしまうという癖のようなものがあり、これが邪魔をして他者への愛が発揮できずにいるのかもしれない。

自分を愛することの方が難しい

フロムの本を読んだ最も大きな収穫はこの固定観念がひっぺがされたことだったかもしれない。

自己中心的利他を目指す

そして、最近になって「自己中心的利他」という考え方があることを知った。

提唱しているのは楽天大学創設者で学長の仲山進也氏である。

仲山氏は、チームビルディングや個人の才能の活かし方について専門性を有しており、かつサッカー好きということもあって「ジャイアントキリング」のような21世紀を代表するサッカー漫画とのコラボ本を出版していたりもする。

最近は人気サッカー漫画「アオアシ」とのコラボ本も出版された。

「自己中心的利他」という考えはその本の中にあった。

自己中心的利他とは何か?

これを聞いてどんな状態を想像するだろうか?

仲山氏によれば、

やりたくて、得意なことをやっていると、喜ばれる状態」のことで、喜ばれると嬉しいからさらにやりたくなる。

この「やりたい」「得意」「喜ばれる」の3要素が重なる部分を磨いていくことが自分の才能を活かしていく上では重要。

ということだった。

そして、得意で喜ばれるけど「やりたくない」のは「自己犠牲」。

やりたくて喜ばれるけど「得意じゃない」のは「下手の横好き」。

やりたくて得意だけれど「喜ばれない」のは「自己満足」。

これらはいずれも才能の使い方としては残念な状態にあるとも。

一般的に、チームから喜ばれる、すなわち「チームへの貢献」というワードが使われる場合は「自己犠牲」とセットで語られることばかりだ。

しかし、自己犠牲というのは楽しくない。

自己を犠牲にして無理していると長続きもしない。

だからこそ「自己犠牲的利他」ではなく「自己中心的利他」を目指すのがオススメというのだ。

詳しい話を知りたい場合は本書を手にとってみていただきたいのだが、私の中ではこれまでの経験および前述部分などともリンクして非常に腑に落ちるものとなった。

どっちか主義ではなく、ニコイチの関係性で捉えておく

話は冒頭の「まずは自分のためにが大事」という件に戻る。

これはつまるところ子供だけでなく大人もというか人間なら誰しもそうではないだろうか。

私は青春期、「利己的なのはよくない」と勝手に思い込んできた?周囲から思い込まされてきた?ところがあり「自分のことはいいからまずは他者のために」と考えて過ごしてきたところが多分にある。

思うに、昔大変なバイク事故で周囲に大きな迷惑をかけたことも影響している。

が、今考えればこれは本当に美辞麗句でしかない。綺麗事だ。

社会人になり、様々なプロジェクトに関わり、その中で多種多様な人間関係を経験してきた今だからこそ思うのは「まずは自分のために」がなければ自分が関わる物事が中長期的に良くなるような結果にはならない。

これが今の私の本心だ。

だからこそ間で取り上げたような方々の主張や考え方にも共感し賛同している。

以前「仕事の飲み会における「くだらない会話」にも大きな価値があることが、ようやく分かった。」の中で「関係性で捉えるからこそ価値が見えてくる」といった発見があったことについて私は示した。

非日常があるのは、日常があるから。

生産的な時間があるのは、非生産的な時間があるから。

便利だと感じるのは、不便だと感じているから。

会議を有意義と感じるのは、有意義でない会議を感じているから。

サッカーで得点が入るのは、得点が入らない大半時間の積み重ねがあるから。

そして、

いいアイデアがあるのは、ダメなアイデアがあるから。

このような関係性で捉えると「くだらない会話」が愛おしく思えるようになったように、今まで何の価値も感じていなかったものに価値を感じることができるようになるのだ。

参照:仕事の飲み会における「くだらない会話」にも大きな価値があることが、ようやく分かった。

利己的と利他的もまさにこれで「他者のために働きかけることができるのは、自分のためにが十分に満たされているから」だ。

どっちか主義ではなく、ニコイチの関係性で捉えておくのが本質。

繰り返しにはなるが、人生において軸におくべきは「まずは自分のために」だ。

それが自分の人生を生きるということ。

ただし、己のサイズが狭くなりすぎて、自分のためにが暴走しないように、何が真に自分のためになるのかはしっかり吟味する必要はもちろんある。

何が真に自分のためになるのかは人によって異なり、メタ認知するのもこれはこれで簡単ではないことなのだが。

人生とは人の役に立つこと

これが私の現時点での人生の定義なのだが「人の役に立つ」の「人」の中には「自分がいる」ことを忘れないでこれから先も生きていきたい。

今回書きたかったことはこんなところだ。

Photo by rajat sarki on Unsplash

【著者プロフィールと一言】

著者:田中 新吾

プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスクと時間を同時に管理するメソッド)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|座右の銘は積極的歯車。|ProjectSAU(@projectsau)オーナー。

●X(旧Twitter)田中新吾

●note 田中新吾

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