田中 新吾

良い社会、良いコミュニティ、良い人間関係の根拠は「一般意志」にあり。

タナカ シンゴ

初っ端から自分の話になってしまい申し訳ないが、私がコミュニティマネージャーをしているコミュニティで、今年の頭から「対話・ファシリテーションの練習会」が定例化している。

定例化のきっかけとなったのは、それこそ、このコミュニティの中で昨年行われた「一人一人が自立・自走して幸せに活動できる集団形成」を主題にしたある講座だった。

その講座から得られたエッセンスは以下のようなものである。

・一人一人が自立・自走して幸せに活動できる集団形成をしたいなら、手っ取り早いのは自己肯定感が高い人を集める(あるいは高めポテンシャルのある人)

・ただ、現実的にこれが難しい場合が多いと考えると、自己肯定感を高め合うような習慣や取り組みをこれから継続的に行っていく必要がある(日本人は民族的に自己肯定感がそもそも低い)

・自己肯定感を高め合うには?無条件の受容、相手の内発的動機(フロー・やりたいこと)を引き出すなどが必要で、そのために「対話・ファシリテーション」は効果的(100回以上やってみたら良いですよという提案アリ)

・自己肯定感が高い人、あるいは高めようとしている人は、チャレンジしやすい。

・自己肯定感が高い人、あるいは高めようとしている人同士の「集団」は、トラブルが少なく、集団的フローを発動させやすい。

・日本人の8割の人の自己肯定感が低いのだとすれば、それは現存するあらゆる組織や集団にも同じ構造が当てはまる(2:8の法則?)

・この状況をふまえた上で、それでもなおそういう集団(2人から〜N人)形成を目指していきたいと思うのであればまずは「やれるところで対話の練習していく」というムーブがいいのでは。例えば、家族、サークル、コミュニティなど。

これらを受け「やれるところというのは、まさにこのコミュニティなのではないだろうか?」という風に頭が進んでいったのだ。

そして今現在、毎月1回「クルマザ」という名の対話・ファシリテーションの練習会が行われている。

例えば、地域のイベントへの参加者を増やすには?といったかなり具体的な問いから、生成系AIは人間関係をどう変えるのか?、あなたはどのメンタルモデル?のようなすぐには答えが出ないような問いまで。

練習会の参加者のどなたか一人がテーマを持ち寄り、どなたか一人がファシリテーターを担い、制限時間1時間の中で対話の練習を行っている。

そんな会には私ももちろん一人の練習者として参加しているのだが、毎回参加した際の満足度が高い。

一体なぜなのだろうか?

これは思うに、誰かが放った言葉を頼りに、次の人がその人なりの思いを加える。

そうやって参加者皆で思考を巡らせ、思考を編み上げていき、その場に一つの「合意形成」あるいは「合意感」のようなものが作られるからではないだろうか、という仮説が私にはあった。

こんなことを考えていた矢先、最近になって「これぞ我が意を得たり」と思える考え方に偶然にも遭遇した。

それがタイトルにもある「一般意志」というものである。

一般意志とは、みんなの意思を持ち寄って見出しあった、みんなの利益になる合意のこと

「一般意志」は、18世紀のフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーの政治思想の基本概念として知っている人には知られている。

既知の方にとっては孔子に論語かもしれないが、かくいう私はつい最近になって哲学者苫野一徳さんのVoicyの「民主主義とは何か?」という回をたまたま聴いていた時にこの概念のことを知った。

苫野さんのVoicyは、難解な哲学的な問いについて本当にわかりやすく丁寧に説明してくれるので、いつもありがたく聴いているVoicyの一つだ。

この回は、民主主義社会を成立させるには「自由の相互承認」そして「一般意志」の二つが欠かせないという話であった。

「自由の相互承認」に関してここで触れるのは本筋からはズレるため割愛させていただくが、本当に学びが大きかったので是非該当の配信を聴いてみていただけたらと思う。

それで「一般意志」についてだ。

苫野さんは一般意志について以下のように説明していた。

一般意志とは、みんなの意思を持ち寄って見出しあった、みんなの利益になる合意のこと。

そして、民主主義社会というのは、この合意だけが正当な根拠となっている社会のこと。

逆に、一部の特権階級の意思、特殊意思(などの個別意思)で作られる社会は民主主義社会とは呼ぶことはできない。

さらに、民主主義の本質は「多数決」ではない、と苫野さんは続ける。

多数決は少数派を排除する仕組みであるため、むしろ非民主主義的であるということ。

これもルソーの言う一般意志で捉えると「多数決を使っていい場合」が明瞭に見えてくる。

どんな場合ならばいいのだろうか?

多数決を使っていい場合は、これこれこういう理由で多数決を使ってもいいということを前もってみんなが一致して合意している場合のみに限られる、ということである。

多数決が民主主義なのではない。

多数決を使うという場合をみんなが合意するのであれば、民主主義的プロセスの中で多数決を使ってもいいとなるのだ。

例えば、選挙や国会の議決は流石にこれだけたくさんの人がいるわけだから、これは流石に得票数で決めようと前もってみんなが合意していれば多数決を使っていこう、だから選挙や国会はそのような方法が取られているということ。

(私の場合、生まれた時からあった仕組みなので多数決に合意したという認識はないのですが・・・まあ、この話は本稿では一旦横に置いておいておきます)

みんなの対話を通して合意形成を練り上げていく

では「多数決」でなければ我々はどのようにして意思決定をしていけばいいのか?

このような疑問に対しても苫野さんは丁寧に説明をしてくれていた。

一般意志というのは「対話」を通してみんなの意思を練り上げあっていくことでできるものだと。

A案、B案、C案、D案がみんなで対話をして、そしてみんなが納得するもっとよいE案を見つけていこうというように。

対話を通してより良い考え方を見出して、みんなが納得できる合意形成をしていく。

一般意志というのはこうやってみんなで作り出していくものだという。

つまり、一般意志というのは予めどこかに転がっているものではなく、多数決で決めるものでもなく、一般意志は今まだどこにもない。

そういう概念だと言っていいのだろう。

この辺りまでの苫野さんの話を聞き「これぞまさに我が意を得たり」という感覚を私は得た。

ここで対話とファシリテーションの練習会を通じて得ていた「満足感の正体」とはなんだったのか?という冒頭の話に戻る。

突き詰めて考えると「参加者皆でその場に一般意志を作り出していくことができていたから」と考えると個人的にはかなり納得がいく。

それぞれがそれぞれの意思を持ち寄り、皆でテーブルに出た意思同士を編み上げ、そうこうして、みんなの利益になる合意がそこに作られていたからなのだ。

実を言えば、この満足感は今まで何度も感じたことはあったが、ここで「一般意志」という概念を知ったことで完全に確信へと変わり、説明可能なものに変わったと言える。

そして、ここで本稿のタイトルに結びつく。

思うに、良い社会、良いコミュニティ、良い人間関係の根拠というのは「一般意志」にこそあるのだ。

そして、良い仕事、良いプロジェクトの根拠も間違いなく一般意志にある。

しかしながら、お察しのとおり大勢になればなるほど、一般意志を見出していくことは困難を極める。

ではどうすればいいのか?

重要なことは苫野さんも述べているとおり、皆が合意できるところを目指し続けることなのだろう。

そこにこそ正当性がないと明らかにしたところに一般意志の意義があるからだ。

より詳しくは、苫野さんのVoicyとあわせて、100de名著「社会契約論」の中に一般意志について詳しく書かれているのでもしよければ目を通していただければと思う。

私の中の分人たちも一般意志を作りあげているのではないか

最後に、ここからは私の妄想、仮説になるのだが、この一般意志の形成による満足感、納得感というのは、私自身にも当てはまることではないだろうか?

例えば、小説家の平野啓一郎さんが提唱している有名な「分人」という概念がある。

人間の身体は、なるほど、分けられない individual。

しかし、人間そのものは、複数の分人に分けられる dividual。

あなたはその集合体で、相手によって、様々な分人を生きている。

アイデンティティやコミュニケーションで思い悩んでいる人は、一度そうして、状況を整理してみよう。

これはその通りだと思うところで、個人よりも分人として考えた方が生きやすくなる場面は実感として多い。

平野さんによれば、関係性によって引き出されるのが「分人」というわけだが、これまでに引き出されてきた分人は私の中に常にいるという感覚がある。

そして、その分人たちが「俺はこう思う」「私はこう思う」「僕はこう思う」という具合に脳内で常に対話をしている感じがするのだ。

そんな脳内で、すったもんだの対話が続くとふとある答えがポロリと導き出される。

この瞬間に私は大きな満足感や納得感を得てきたのだ。

何が言いたいかというと、これもルソーの「一般意志」で説明が付くのではないだろうかということである。

私の中の分人たちが対話を通してそれぞれの意思を丁寧に編み上げて、分人たちの一般意志という名の合意を形成していく。

この脳内の合意こそが私の満足感、納得感の正体だったと考えると個人的にはかなり腑に落ちる。

今回、一般意志という概念を偶然にも知り、経験が自分の身にしっかりと固定化された。

本を読んだり、音声配信を聴いたりするのは経験を言語化するのに物凄く役に立つ。

良い社会、良いコミュニティ、良い人間関係の根拠は「一般意志」にありをモットーに、実践の場数をこれからも増やしていきたいし、一般意志を共に作りあげていこうとする仲間や隣人を人生の中に丁寧に増やしていきたい。

そんな思いだ。

UnsplashPeggy Ankeが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

著者:田中 新吾

プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスク管理術)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車

実はこの記事を書き終えた後、別のところで本件に関連する話題に触れることがありました。その話題もふまえたいと思ったのですが、一旦この時点での主張として投稿することにしました。本テーマは非常に奥深く面白いです。

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