タナカシンゴ

「もらうこと」よりも、「あげること」の方が「喜びは大きい」に決まっている。

先日、私は35歳の誕生日を迎えた。

そのお祝いに、妻が準備してくれたのがこの「仮面ライダーケーキ」だ。

黄色いライダーは、令和最初の仮面ライダーでその名を「ゼロワン」という。

昨年末に公開された劇場版は、テレビシリーズを観ていた人ならば「観ないと絶対に損する」と断言できるくらいよかった。

この世に絶対はないが、これだけは絶対に損する。

私の映画予想の100%、いや1000%上をいく傑作だった。

そんな大好きなゼロワンを、まさか自分の誕生日に「二次創作」のカタチでお目にかかれるとは思ってもいなかった。

妻、完全にサプライズ成功である。

35歳の私はもうウルトラにうれしかった。

ここであらためて「ありがとう」と言いたい。

しかし、私は思う。

もらった私以上に、ケーキをプレゼントした妻のほうが「喜びは大きかった」に決まっている、と。

「受け取ってもらえないこと」があるからこそ、大きな喜びを得れる

例えば。

「恋愛の場面」が分かりやすいだろう。

誕生日、クリスマス、バレンタインデー、ホワイトデーなどで、気になる相手に何かプレゼントを渡そうとしたとき、「それを受け取ってもらえない」という悲劇が起こることがある。

昔話を少しする。

以前、デートにお誘いをした女性が当日約束の場所に現れなかったことがあった。

観ようと話していた映画のチケット二人分を事前に準備し、出張のお土産まで用意しておいたにもかかわらず、結局それらを相手に渡すことができなかったのだ。

買ったチケットが勿体なかったので一人で鑑賞した。

その映画は、公開初日の「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」だった。

場内は「満員御礼」。

私の隣の席だけ一席「ポツン」と空いていて、やり場のない気持ちを抱きながらソロで観賞をした。あの状況、なかなかにしんどかった。

マスクがデフォルトな社会であればよかったのに、と今思う。

渡そうと思っていたお土産は、その後どうしたのかはもう覚えていない。

結局、それ以降その人とは一切連絡もつかなくなってしまった。

一度しか会ったことがなかったから仕方なし」と切り替えることができずにしばらくの間引きずっていた。まさしくそれは「悲劇」だった。

この時私は、その相手から「あなたと特別なつながりを持つつもりはない」と無言ではあるが完璧に宣言されてしまったのだ。

哲学研究者の近内悠太氏は、このようなことを「贈与の受取の拒否」と呼んでいる。

恋愛の場面が一番分かりやすいと思いますが、気になる相手に何かプレゼントを渡そうとしたとき、受け取ってもらえないという悲劇が起こることがあります。

贈与の受取の拒否。

それは何を意味するかというと、関係性の拒否です。

つまり「私はあなたと特別なつながりを持つつもりはない」という宣言になります。

なぜ贈与がつながりを生み出すかというと、贈与には必ず返礼の後続するからでず。

「この前もらったお礼に・・・」

そのお礼はまたお礼を促します。

そしてその返礼は再び贈与として相手に渡され、さらに再返礼、再々返礼・・・・と、その関係性は「贈与の応酬」に変貌します。

プレゼントを受け取ってくれるということは、その相手がこちらと何かの関係性、つまり「つながり」を受け入れてくれたことを意味する。

我々は得てして、相手への好意や善意というものは「受け入れられるものだろう」と思いがちだ。

だが実際には。

以前私が経験したように、こちらの「好意」や「善意」は必ずしも相手に受け取ってもらえるとはかぎらず、仮に受け取ってもらえたとしても、必ず喜んでもらえるともかぎらない。

しかし、だからこそ相手がこちらのプレゼントを受け取ってくれたり、こちらの祝福を受け入れてくれたりしたときに、私たちは「大きな喜びを感じる」のだ。

「本当に仮面ライダーのケーキで喜んでもらえるだろうか?」

「こんなの要らないと言われてしまうのではないだろうか?」

きっと妻は悩み、塾考したはずだ。

そして「受け取ってくれないかもしれない」「喜んでくれないかもしれない」という「リスク」を背負って、私にプレゼントをしてくれた。

だからこそ思う。

私にプレゼントをしてくれた妻のほうが、「喜びは大きい」に決まっていると。

「もらうこと」よりも、「あげること」のほうが喜びが大きい。

これは思うに、世の中における一つの「真理」だ。

「あげること」を萎縮したり、面倒くさがったりして、挑戦しないことの方が「人生を損している」

昨年のクリスマスことだが、Twitterに投稿された「30代女性に贈られた4℃のプレゼント」の件について、侃侃諤諤と意見が交わされていた。

感染症の影響を受けて、街の方は例年よりも静かだったように思う。

が、それとは打って変わって、Twitterはこの話題で大賑わいだった。

色々調べてみて私は喫驚した。

なんと「4℃のジュエリー」はクリスマスプレゼントとして、随分前から「女性には贈ってはいけないもの」の「代表格」だという。

この時調べるまで、私はまったく知らなかった。

しかもである。

これがなんと「憲法で決められている」というのだから空いた口はもう塞がらない。

仰っているのはマッチングアプリで婚活を推進する立場のお方。

いやはや強烈すぎだ。

しかし、一体全体どこにそのような「憲法」があるのだろうか?

仮にも、本当に「女性にプレゼントして構わないのはこれらで、そうでないものについては禁じる」と憲法の条文に書かれていたり、法律が定められていたら、プレゼントを贈る側にしても、もらう側にしても苦労することはないはずだ。

だが、実際にはそんなものは「どこにも存在しない」。

存在しないからこそ、プレゼントの受け渡しには難しさが伴い、コミュニケーション能力やセンス、はたまた人間関係の相性など、色んなものが求められる。

でも、女性の方から「贈ってはいけないものが憲法で決まっている」と言われてしまっては、私なんかは身悶えしてしまうのだが他の方はどんな感じなのだろうか。

いずれにしても今、私たちの知らないところで「あげることへのハードル」は日に日に上がっている、と考えた方が得策のように思う。

相手に何をあげたらいいかわからない」という声と共に、「あげること」に萎縮してしまう人が出てきてしまうのも必然だろう。

情報が生み出され続け、価値観が多様化した結果だとは思うが、難しい時代になったものだ。

しかしである。

「もらうこと」よりも、「あげること」のほうが喜びが大きい、に関してはそうそう変わるようなことではない。

とすればだ。

「あげること」へのハードルが上がっているならば、その高くなったハードルを超えることができた暁に得られる喜びは、遥かに大きく、より高次なものになるものだと考えることができないだろうか。

高くなってしまったハードルを超えるのは、間違いなくしんどい。

一度で超えられるともかぎらないだろう。

しかし、山の天辺から雄大な景色を眺め見た時に感じる、あの大きな喜びのようなものが、「あげること」の先にはきっと待っている

そう思うと、「あげること」に萎縮したり、「あげること」を面倒くさがったりして、挑戦しないことの方が「人生を損している」ことにはならないだろうか。

間違いなく言えることは、「もらうこと」では、一生その景色と喜びを味わうことはできない。

相手の理解を進めることができれば、「あげること」はもう何も恐くない。

以前私は、下のような記事を書いた。

「必要最低限にしか知り合わないコミュニケーション」に慣れきってしまっているからこそ、価値があると思うこと。

はっきり言って、しっかり知り合わないうちに生まれる考えというのは、ほとんどが相手に対しての「間違った思い込み」だ。

お互いに前提が間違っているのだとすれば、あらぬ方向にコミュニケーションが向かってしまうのも必然である。

「必要最低限にしか知り合わないコミュニケーションに慣れきっている」とは、

つまり「相手のことをしっかり知ろうとしないコミュニケーションに慣れきっている」ということであり、

これはなかなかに根深い問題ではないだろうか。

この記事の終わりに私は一つの声明を残している。

私はもっと相手のことを知ろうと思う。

結局のところ、「あげること」についても大事なことはこれに尽きるのではないだろうか。

知らない人のために言うと、「マーケティング」という仕事の実務もまさにこの点にフォーカスされる。

マーケティング関連の文献として、今最も権威のあるものは「コトラー&ケラーのマーケティング・マネジメント」という本になるだろう。

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この本によれば「マーケティングの定義」は以下の一文にまとめられる。

マーケティングとは、ニーズに応えて利益をあげること

非常にシンプルだが、これ以上でもこれ以下でもない定義だ。

顧客の「ニーズ」に応えるためには、顧客のことを知らなければならないし、顧客のことを理解しなければならない。

したがって、マーケティングの実務のほとんどは「顧客の理解」に注がれていく。

つまり、

「顧客は誰なのか?」

「顧客は何に価値を感じるのか?」

「顧客はいくらなら買うのか?」

「顧客はどこで買うか?」

などの問いを立て、仮説を作り、作った仮説を検証し、そのプロセスの中から、より「顧客の理解」の精度を高めていくのである。

そうやって「顧客の理解」が進めば、その結果として、企業やブランドは何をすべきなのかが自然と分かってくる。

分かってくるからこそ、

適切な顧客に、適切な価格で、適切な商品を、適切に届け、適切にアフターフォローができ、適切に再びアプローチができるようになるのだ。

思うに、何かを「あげること」において大事なことは、これとほとんど同じである。

したがって、「あげること」をするために、「相手の理解」に時間と労力を注ぐべきなのだ。

そして、「相手の理解」を進めることができさえすれば、「あげること」はもう何も恐くない。

仮にプレゼントをして喜んでもらえなかったとしたら、それは「相手の理解」がまだまだだったのだろう。間違いや失敗は誰でもある。

それは「経験というデータ」として蓄積して、相手の理解の材料にして、次にプレゼントする時に役立てればいいだけだ。

もうお気づきだと思うが、「あげること」は「いわゆるプレゼント」だけにかぎらない。

実際「あげること」は考えればいくらでもあるし、何も「誕生日」などに限定する必要はどこにもない。

例えば、このように、経験から学んだことを「記事」にしてどこかの誰かに届けることだって、「あげること」の一つだろう。

「もらうこと」ではなく「あげること」をしていこう。

その方が、喜びもきっと大きいはずだから。

Photo by Kira auf der Heide on Unsplash

【著者プロフィール】

タナカ シンゴ

理工学部卒業後、東京のマーケティングファームに7年勤務。営業、リサーチ、コンサル、商品開発、集客、マネジメントの現場経験を積みジョブチェンジ。

現在は一人会社との複業で、中小オーナー企業や地方自治体をクライアントに商品開発と集客のプロジェクト運営などを行っています。

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◯noteマガジンで「事業の役に立つネームコレクション」を運営中

○Podcastで白湯専門番組「白湯FM」を配信中

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