RYO SASAKI

いい加減に独立して、自分のしたいことに集中しなさい!

タナカ シンゴ

人は「固定観念」の奴隷になっている。

我ながら上手く書けた。

(ホントか?そこら辺にありそうな言葉だけど。)

そう思っている矢先に、そんな自己満がはじけることが起こった。

ある日の居酒屋で、酒のあてとして「長芋ワサビ漬け」を注文した。

するとその「長芋ワサビ漬け」が、たまたまその日一緒だったある先輩の好物で、私は「相変わらずの引きの強さだ!」と自分にラッキー男を刷り込んだ。

そしてまた、その先輩と一緒になった別の日のこと。

私は気を効かしてこの好物をもう一度頼もうとしたのだったが、好物が何だったのか、すっかり忘れてしまっていて、結局は「あれなんでしたっけ?」と先輩に直接聞いて注文することになった。

ここまではなんてことのないやりとりだったのだが・・・

「覚えておいてスッと注文できれば良かったんですけど・・・」

私は、素直のままにもうひとつの心の声を漏らしてしまった。

すると、先輩から全く想像もしない言葉が返ってきたのだ。

「要らぬ点稼ぎをしなくっていいんだよ。」

・・・

このやりとりで、私に刷り込まれている固定観念をまたひとつ発見することになった。

ということで今回もまた私の固定観念が見つかってしまった話から始めたい。

私は固定観念の危うさを理解していたつもりだったのだが・・・。

おーい、佐々木くぅーん、わかるとできるとは違うんだよぉーっ!

はい、先生、その通りです(汗)・・・。

気づかいの上に乗っかる厄介モノ

「要らぬ点稼ぎをしなくっていいんだよ。」

これを聞いた時私には、

点稼ぎって何だよ!?

「好きなものを食べてもらいたい。」

っていう単なる気づかいではないか?

気づかいの何が悪い?

などがまず思い浮かんだ。

そこに先輩が、

「そのままの自分でいればいいのよ、完璧な気遣いなんてのはかえって信用できない・・・」

と続ける。

その時は、もはやお互い自然でいられる関係が一番だよ、という意味としてわかったような気になって終わったのだったが・・・。

どうも釈然とせず、後からもう少し考えてみると、自分のイヤーなところにまた気づいてしまった。

私の「好物を食べてもらいたい」という思い、そして「スッと注文できれば良かった」という思い。

どちらも私から出た自然な思いであることは間違いないのだが、その根底にあるものがまったく違っていたのだ。

前者は確かに人への慈しみからきてるんだろうが(こんな言葉を使うのは柄にもないのだが)、後者はそれとは違ってそこに「周りからよく見られたい」という思いがあった。

「おっ、もう俺の好物を覚えてくれて、できるやつだ。」と先輩に感じてもらいたい、という具合だ。

気づかいならば、スッとスマートに注文する必要なんてなくて、先輩に好物を訊いて注文する、で十分だったはずだ。

このことを先輩は言いたくて「要らぬ点稼ぎ」という言葉を使ったのだ。

私は、気づかいの上にこの別の厄介なモノを確かに乗せていた。

そして、それを含めて「気づかい」というものにくるめてしまっていた。

これを無意識でやってしまっているのだから、恐ろしいことだ。

私という者の中には、未だに周りに認められたいという思いがあるということなのか?

この先輩とは会社の上司部下の関係でも何でもないというのに・・・。

政治家でも目指そうとしてるんだろうか?笑

無意識にやっている自己アピール

思えば、入社面接、評価面談、商談、合コン、あらゆる場所に自己アピールを必要としてきたのがこれまでの人生だ。

気が利く営業である、と評価されないと受注できない。

何とか評価されねば、自己アピールが上手くなければ明日がない。

そんな恐怖に怯えて生きてきたように思う。

そしてその惰性で、親戚の集まり、同窓会にも自己アピールが連鎖する。

そんなこんなで、私は常に評価されなければならない、という固定観念によって動かされ、自己アピールを未だに無意識にやり続けているのだ。

私は当時から自己アピールが上手い奴を胡散臭く見ていたのだが、自分にも沁みついていることを知って愕然とする。

もう少し別の角度から見ることができる興味深い言葉がある。

多くの人は「人並みであること」に命を燃やしているように見える。

要するに「見栄」だ。

「持っていないと恥ずかしい」みたいな理由で欲しがる気持ちは精神的に貧しい。

引用元:『やりたいことをやるために、好きなものを好きだと言うために、僕らは生まれてきたんだ。』

ここでは、例えば車がないと恥ずかしい、一戸建てがないと恥ずかしい、など、みんなが言うことはどうでもよくて、ホントに自分が欲しいものだけを持てばいい、と伝えているのだが、私にはまた別のことが映る。

子供の頃から我々は、物事を人並みにできるように・・・と育てられてきている。

人並みにハイハイから歩き出して、人並みに言葉を話すようになって、人並みに九九ができるようになって・・・

その人並みと比較して何か欠陥があると周りからはバカにされて、親は悲しむ。

人が欠陥を埋め続ける義務は、こうして始まって社会人になってからも続く。

挨拶をチャンとできない、から始まって、専門知識を覚えられない、アポとりができない、プレゼンができない、そして自己アピールができない、などなど。

人並みになるための欠陥が新たに生まれて、修復されなければならないものに認定されていく。

この名残のままに、「人並みであること」を追い求める人生を長く続けてきてしまったと見ることができる。

私の場合、「顧客の好物を覚えていてスマートに注文する」という営業として人並みなことができずに、欠陥があったことが未だに悔しいと思うようなのだ。

この営業としては人並みの気づかいは、素の私としては得意ではないことは早いタイミングで判明しているのだが・・・。

そして次の段階は「人並みであること」を超えて人より優秀であることを誇示しようとし始める。

今度は、人のマウントをとって安心と快感を得ようとするようになるのだ。

それの何が問題なんだ?

欠陥の修復、承認欲求、マウントをとる、これらの何が問題なのか?

周りが迷惑だから、というところに視点をずらすことなく、自分にとって、をあげてみよう。

・人(周り)に依存している。

・恐怖に追われている。

・自分のやりたいことができない。

人と比較することでしか安心と快感を得られないなんてのは、独立できてない国のようなものだ。

人なくしては安心も快感もない、とはなんと貧しいのだろうか。

人は早いこと、そういう意味での独立をはたさなければならない。

それは、欠陥を修復しなければ・・、優位に立たなければ・・と、恐怖に追われて生きることでもあるわけで・・・。

それは、もっとこうしたい、これ面白そう(このことを先程の引用元の本では恐怖に対して「希望」という言葉を使った)と、好きなことをやって生きるのとは真逆な生き方なのだ。

人生有限、こんなことをしていたら、好きなことをやる時間が削がれる。

自分の好きと向き合う時間が減ってしまうのだ。

ここまでたどってきて、私は愕然とする。

私はなんと無駄な時間を過ごして来たんだろうか。

その根っこにある、評価されようとする無意識の固定観念がどれだけ人生に影響を与えているんだろうかと。

この固定観念がなければ、恐怖の払拭に時間を費やすことなく、希望に満ちた好きなことをする時間を過ごすことができたはずだ。

恐ろしや、固定観念!

昭和の人間の固定観念

ちょっとした固定観念が人生に大きな影響を及ぼす。

私は、「固定観念」という言葉を散々使ってきたのだが、その割にはそれをちょっとした擦り傷のように舐めてかかっていたようだ。

子供の頃のヒーローモノ、アンパンマンや仮面ライダー等々、これらによって固定観念が作り出される、と言う人もいる。

ヒーローモノには正義と悪が必ずいて、勧善懲悪が描かれる。

それは正義や勇気を学ぶという意義があることは間違いないのだが、同時に世の中には良い人と悪い人がいて、それを白黒に分別するべきだ、という固定観念を生んでいる、というのだ。

ホントのところは、すべて悪い人なんていなくて、すべて良い人もいない。

人は良い部分も悪い部分も持ち合わせているものなのにも関わらず、白か黒かだけで評価してしまう。

それが今の日本を覆っているのだとか・・・。

それはともかく、私もこのことを、ユング(心理学者)のペルソナ(人は外にいくつもの顔を持つ)で理解したようななんとなくの記憶があるが、それでもその理解の上ですべての人を見れているかは怪しいものだ。

こんな風に固定観念は簡単に人に寄生して長く居座る。

またしても、恐ろしや!固定観念!、だ。

最近、若い人と話をすると昔の自分より、はるかにシッカリしている、と感じることが多い。

「今は体力があるから、このまま突っ走ってその先は少しペースダウンして○○をしようと思ってます。」

「佐々木さんがそれを発言するというのはどんな思いからなんでしょうね?」

先を見てるし、奥も見ようとする。

私の若い頃はとてもこんなような会話ができなかった。

私の若い頃とは晒されている環境が異なる彼らに、昭和の人間が何をアドバイスできるというのだろうか?

そんな風にさえ思う。

それはともかく、そんな若い人から明らかに感じられる、昭和の人間との違いとは・・・

みんな持っていて欲しいものはスマホくらいで、車にも持ち家にも興味はないことは当たり前のこととして、だいたいの若者が大人のことを信じていない。

努力する大人、嘘つく大人、疲れている大人、が彼らの反面教師のようになっている。

また、争いも好まない。

嫌なものは我慢しない。

昭和の人間は、その逆でみんなが持ってるものは何でも欲しくって、争ってナンボで、我慢できて、嘘をついて、そして疲れている・・・・。

昭和の方々からお叱りを受けそうなので、私がその典型なので、とりあえずこのように括っている、と言っておこう。

小中学生の不登校が30万人(全体の約3.3%)に増加したと聞いた。

その理由(家庭の事情除く)の主なものは、

競争が嫌だ。

長時間拘束が苦痛。

やりたいことがない。(または、別にある)

これに対して今の政府の方針の前提は「不登校は悪いものではない」ということになってるらしい。

現代の教育は、大企業の単一な仕事をこなす均一な歯車作りのために最適だった過去の教育から、変化できていない、と指摘する専門家もいる。

思えば、私だって学校の授業は非常に苦痛だった。

それをだましだましやってきた。

私がすごかったのは、そこを抜け出る勇気はなかったけれど我慢強かったということだ。汗。

昭和の価値観を実感するところだ。

ここから感じるのは、ある時代を生きたということは、その時代の価値観をたくさん沁み込ませてきたということに他ならない。

その価値観は時代とともに古くなるのだがそれを変えずにいるとそのまま固定観念となる。

だから私には、昭和の固定観念もたくさんあるわけだ。

どうやら私の中の固定観念は尽きることがない。

生きた分だけ固定観念は湧いて出てくるものなんだ。

何たる危険!

う~ん、だとしても絶望してもなにも始まらない、気を取り直して・・・

固定観念を払拭できないにしてもこれまで何とかやってきたんだ。

だからひとつでも気づけば十分ではないか。

自分の中の昭和の固定観念が払拭できないとしても、せめてそれだけ若い世代と価値観=固定観念が異なるのだ、と認識しておくことから始めよう。

何も、スマホアプリにやたらと詳しいとか、若者の価値観をしっかりわかってさも聞き分けが良いようなジジイになりたいわけではない。

若者に対して点稼ぎをはじめたら、また新たな牢獄に入ったようなものだ。

それにだけは手を染めてはならない。笑

最後に自分の中の先生とやりとりして終わろうと思う。

佐々木くぅーん、独立するってことは、自分の欠陥に揺らがず、自分が何かをできたからってそれにも揺らぐことなく、ただ目の前のやりたいことに集中している凛とした状態になることなんだけど、でーきるんかーい?

わ、わかりませんが、一歩ずつ近づきたいと思います、先生。

UnsplashFelix Serreが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

自己アピールよりも、自分の好きなことをやる。

その結果、自己というものが意識しなくても勝手に滲み出る。

この微妙に見えるが大きな違いを噛みしめていきたいと思います。

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