あえて「共同幻想」という言葉を使って、すべてのものといい距離を取る。
「共同幻想」という言葉は、以前紹介してもらった岸田秀の本で知った言葉だ。
共同幻想・・・複数の人間の中で共有される幻想の事。
養子に入った岸田秀さんが、養母をどうしたら愛せるか?と悩んだ末に、愛さなくてもいいんだ、という境地に至った、確かそんなような話でだったと思う。
誰もが常識的に持っている「子は母親を愛すものである(愛さなければならない)」という観念が「共同幻想」であると悟った。
調べてみたところ、この「共同幻想」という言葉を使い始めたのは詩人で思想家の吉本隆明だった。
吉岡隆明さんは、「国家」という概念も「共同幻想」であると言った人だ。
種族、国、村、会社、サークル、家族、あらゆる組織に禁制(タブー)などを含むルールがあって、文化がある。
それらには、その組織独自の、こうしなければならない、こうしてはいけない、こうしたら素晴らしい、こうしたら美しい、こうしたら怖い、などなどが含まれているわけだが、これらすべての観念が「共同幻想」と言われるものである。
そこに、
場所や時代が変われば、その観念は意味がない、や
必ずしもそうでなくてもいいだろう、
などの意味合いを含んでいる。
また、家族やパートナー独自のモノは、「対幻想」、自分だけのモノは「個人幻想」と呼んだ。
人はこの3つの幻想を一緒に持ち合わせていて、各幻想が競合することもある。
組織の都合、あるいは命令によって個人が不正に加担してしまうようなこと、それは組織の「共同幻想」によって「個人幻想」が犠牲になっている、という説明ができる。
ちなみに、共同幻想を共同観念と呼ぶのがシンプルのようだが、それをあえて”幻想”としたところに、私は何とも惹かれるものがある。
それは私がここのところ常識というものを疑ってきたからか・・・。
今回は、私なりにこの「共同幻想」というものを日常生活に見出してみて、感じたことを書いてみたい。
食事について
「1日3食」栄養のバランスよく・・・。
これは食事について、長らくこのルールがすべてだと思っていたものだが、最近どうも雲行きが怪しくなってきたように感じる。
・茶碗に山盛りのご飯をたらふく食べる、という幸せ。
・コース料理をデザートで締めるのが、憧れ。
これが私が生きた昭和の食事に対するイメージで、昔からやや大き目の茶碗で、満腹になる量を食べてきた。
気がつくとずいぶん体重が増えている。汗。
現代の社会問題の一つと言ってもいい糖尿病。
私も既に糖尿病予備群ではないだろうか?
厚生労働省が示す炭水化物(糖質)の適正量は、知らぬ間に1日普通茶碗2杯程度になっていた。
1日3食食べると、1食普通茶碗1杯でも既にオーバーする量だった。
それ以外の糖質は不要だから、おかずに味付けする砂糖も、おかずの具材のジャガイモも、当然締めのデザートなんてのもすべては余分な糖分だ。
とんでもなく食い過ぎである。
そもそもが、若い頃から食べ過ぎだったんではないか?
代謝が良かったから太らなかっただけであって・・・。
知らぬ間に世の中が変わっていた・・・、いや、世の中は最初からそうだったのだが、私が世の中を違うように見ていただけなのだ。
これらの幸せや憧れを抱かせる1日3食という観念が、私の個人幻想と言ってもいいのだろう。
そして、もし多くの日本人が同様に思っているものならば、1日3食は「共同幻想」ということになるのだろう。
「1日1食が調子いい」などという人が現れたから、この共同幻想から目覚めている人がでできたということなのかもしれない。
今までずーっとこうしてきたのに・・・何でここに来て変えないとならないのか?
世の中には美味しいものが溢れ、自分は多くのモノを簡単に手に入れられる。(←大きく振りかぶった。汗。)
その何でも手に入れられる生活を目指してきたんではなかったのか?
そんな頑固さが自分の芯にある。
過去へのノスタルジーも満々で、こびりついた習慣が目覚めることに抵抗するのだ。
このように共同幻想というものは、幻想にもかかわらず、時に人は手放すことをしたくない危険なものなのだ。
私はこの幸せという幻想から目を覚まさなければならない!
大げさなモノ言いだが、私は本気だ!笑。
親孝行について
親孝行ができてない自分が情けなくて、どうしたらいいか、と悩んでいる若者がいて、ドキッとした。
私は久しく、自分の親孝行がどうだったか?を考えたことがなかったからだ。
そのお悩みに対して、アドバイスする先生?が言った言葉は、
「子供が、3歳まで生きればそれで親孝行は済んでいる。」
というもの。
親にとっては、それだけ3歳までの子供は愛しくて可愛いものなのだという。
親に迷惑を掛けずに、親離れして独立できることが親孝行だという人もいる。
私は自分で親孝行が足りていたと思うことはない。
多くの人が同様であって、もっと親孝行を尽くさないとならない(尽くしておけば良かった)、と考えているように感じる。
誰もがあった方がいいと思われる親孝行ではあるが、親孝行の程度に正解があるのだろうか?
そんな曖昧なものに対して、親孝行が足りない、とみんながどこかで自分を戒めているということ、これも共同幻想と言えるのではないだろうか?
このように共同幻想というものは、幻想にもかかわらず、時に人を苛む危険なものなのだ。
結婚について
以前から言われていた定説は、「既婚者に比較して独身者は短命である」というものだ。
これは、以下の調査結果によって広まった認識ではないかと思う。
40歳時の平均余命(1995年時点)は、男女ともに未婚者の平均余命が既婚者よりも8年以上、短い。
~国立社会保障・人口問題研究所の調査(2016年)
最近、この定説に対して物申すという本がいくつか出てきている。
既婚者が長寿であるというのは、既婚者の中で幸せな結婚生活をしている人たちだけというデータが出てきた。
日本人の離婚率は約35%、既婚者で幸せな結婚をしているのがその2/3という調査がある。
上記数字で雑な計算をしてみると・・・
結婚してかつ幸せな結婚生活をしている人の確率は、
(100%ー35%)✖66%=約43%
残念ながら、半分以下の確率になる。
どおりで難しいわけだ。汗。笑。
どうやら長生きを勝ち取るには、結婚して、且つ、良好な関係を築く必要があるということ。
言われて見れば、長生きにはストレスが関係しているだろうから、結婚したとてギスギスした時間が長くなってストレスの方が上回れば短命になるのは、理解できるような気がする。
こちらの本には、簡単にネットでつながれる現代においては、単身者の方が制約なく周りとの交流をうまくやっている、など単身者の方が幸せであるという調査結果がいくつか紹介されていた。
残念ながら、どうやら結婚神話というものも共同幻想だったようだ。
結婚事情が時代とともに変化したということかもしれない。
そもそも、最初から、結婚すると幸せになる、というのはすべての人に当てはまることではなくて、人によるものだったのではなかろうか?
結婚に限らず、すべての共同幻想は、マイノリティーにとってはまさに幻想であって、マイノリティーは常にこの共同幻想から圧迫を受けているのが、世の中の構造というものなのだろう。
このように、共同幻想は時にマイノリティーを傷つける危険なものなのである。
まあ、結婚に関して言えば、未婚者がマイノリティーではない世の中に既に変化してきてしまっているんだろうけど・・・。汗。
「共同幻想」によって距離をとる
国家という共同幻想に並べると、ずいぶん卑近な共同幻想になってしまった。
ただ、言えることは危険な共同幻想が、そこここに存在しているということだ。
人は物事に意味づけをしながら生きていて、その意味づけがすべて幻想なんだとしたら、これは当たり前のことだ。
ちなみに私が”幻想”という言葉に惹かれたのは、”幻想”という言葉によってそこら中にある危険な意味づけを排除しやすくなるから、というわけではない。
同じ共同幻想をみんなが持っているからこそ、ルールを守って仲良く分かり合って(合ったようにして)生きることができているものでもある。
そして、意味づけすることが人の素晴らしさであって、意味づけによって人は納得して生きるし、人生は輝くものなのだと思う。
意味付けをして、絶対にそうしなければならないと自分を追い込むから、達成できることだってある。
これらを理解しつつも、すべての意味づけを敢えて「幻想」と表現したい思いはどこからきたのか?
「食事について」に書いたことのように、子供の頃に教わった意味付けをそのまま信じて、あとからその意味付けが、まやかしだったということはよくあることだ。
その慣れ親しんだ(後でまやかしだとわかる)習慣を最初から幻想として眺めてみる。
そうするとこだわりが薄れて、まやかしだとわかった時の切り替えが早くなり、ダメージが少なくて済む。
そう言えば「水を飲まずに部活をすると精神が鍛えられる」などという共同幻想を思い出した。笑。
また、何度か書いているが、私はすぐに駆かって、ある意味付けに心酔する癖がある。
これは無知はバカにされるから、知識を蓄えて賢くなって、いい成績を取ろうとしてきたことが、その起点となったのだろうか?
この成績が良くなければならない、というのも共同幻想。
その知識を得ようという前向きさが、つかんだ知識を神聖化してしまう。
でも、得られた知識の中にまやかし(幻想)が含まれているから、徐々に頭がまやかし(幻想)に固まってしまうのだ。
まやかしの知識がある、というよりは、知識を表面的に捉えたり、勘違いして捉えるということの方が往々にしてあるものだ。
知識を追い求める者は、知識に溺れる。
更に、「結婚について」に書いたように、自分がある共同幻想に関してマイノリティーだった時に、共同幻想は苦痛でしかない。
共同幻想として眺めると、急に目の前に自由が拡がり、無理に周りに協調しなくていい、と割り切ることができる。
周りに巻き込まれずに、自分らしく生きるために、すべてを共同幻想として眺めることが有効になる。
共同幻想は無視して、自分が別のものを決める、そうすることで個性が現れるのだ。
さて、ここまで「共同幻想」を考えてみて、生活にどう生かすかをもう少し加えてみたい。
人が創造するすべての意味付けを素晴らしいものとして認めながら、同時にすべての意味付けを共同幻想として眺める。
このすべての意味づけ(幻想)に対して、いい距離をおくというスタンスがどうやら良さそうだ。
そして、「共同幻想」「幻想」という言葉は、あえて冷めて距離をおくのには、持ってこいの言葉ではないか!笑。
繰り返しになるが、このスタンスは、周りと協調をしない、と言っているものではない。
「共同幻想」だとわかっていながら、それに大いに乗っかっていけばいいのだ。
たぶん、心酔するのではなくて、「幻想」だとして一旦突き放すことで意味づけの本質が見えてくることもあるのだろう。
ちなみに、「共同幻想論」での吉本隆明さんの結論は、
「高強度の共同幻想を解体する」
というもの。
共同幻想を否定するものではない。
ただし、それが強くなるとそれに反対する者を矯正しようとしたり、排除したりするようになるものだ、と言う。
これは、家族において、会社において、宗教において、そしてSNSにおいて、よく観られてきた行為で、すぐに理解できるものだ。
すべてのことを「共同幻想」として捉えると同時に、自分の中の「高強度の共同幻想」を警戒する。
そして、これは「高強度の共同幻想」を持つ人の仕業ではないか?と周りを疑ってみたりする。
人と話していると、何にこだわっている人なのかわかってくるものだ。
そのこだわりが「高強度の幻想」なのだ。
私がそうであるように、そういう人は前向きで、一生懸命で、心酔しやすい人なのだろう。汗。笑。
この微笑ましい「高強度の共同幻想」を持つ人ともいい距離感をとっていきたいと感じてくるのだ。
人生はどうやら幻想をつかんでは幻想を放して、の繰り返しのようだ。
これからはこのたくさんの「幻想」と一緒に、いい距離をとりながら楽しんでいきたいものだ。
UnsplashのRandy Jacobが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
いい距離感で思い出したこと。
私が子供の頃、私の家族は何でも言い合える家族でした。
一見聞こえがいいのですが、相手の嫌なことも平気で言い合うから、ケンカが絶えませんでした。
汗。笑。
私は子供の頃、家族に特別な愛があるのは、何でも言える距離感だから、と思っていた時期がありました。
でも、家族でも距離が近くなければならない、ということはなくて何事にもいい距離がある。
今やっと、距離が近くなければならない、は、「幻想」だ!と断言できるようになりました。汗。笑。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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