RYO SASAKI

自分のダメなところを知ることの良さ、それは「堂々と自分でいられる」ことだ。

タナカ シンゴ

前回のブログに、私はよく叱られる、と書いたのだが、私という者はちょっと探せばダメなところが尽きないかもしれない、ということがわかってきた。

でも、長きに渡りダメなところはなくしていかないとならない、という教訓にしたがって生きてきた私だから、ダメなところが尽きない、なんてことを受け入れることは決してできはしないのだ。

そんな風に思っていたのだが、どうも最近そのあたりに変化があるように感じられてきた。

何事にも光と影があるように、ダメなところにも良いところがある(禅問答のようだが)はずだ。

このようなことが、たぶんその入口になるのだろう。

今回は、今感じているダメなところの良さ、なるものを自分の言葉にしてみたい。

まずは、自分のダメなところの探索から始めてみることにする。

父の思い出

自分が、亡き父に似ているところはどこだろうか?

最近になってやっとこのことを考えるようになった。

これだけ時間がかかったのは、父親を反面教師として見ている部分が大きかったので、似ているとは考えたくなかった、ということだったようにも思う。

まあ顔の方は、子供の頃から似ていることを認めないわけにはいかなかったのだが。

印象的な思い出がある。

小学生の頃だから、ずいぶん古い話だ。

初めて東京に家族旅行をした。

上野のホテルに宿泊した翌朝に、父と朝風呂に入ることになった。

ホテルは、大浴場はなくて各フロアにひとつずつ小ぶりのお風呂がついているやや変わったところだ。

お風呂の入口に「女性入浴中につき、男性入るべからず」という札がかかっていて、父は少し迷っていたが誰も入ってなかったのでその札を外して、私と一緒にお風呂をいただいた。

すると、お風呂から出たところにホテルの人がやってきて、他の女性客から「男が風呂に入っている」という通報があった、と言われた。

どうやら「女性入浴中につき~」の札はそこは女風呂である、という意味だったようで、その女風呂を男風呂として使ってはならぬ、というのがホテル側の言い分らしい。

これに父は納得行かずに、長らく抗議していたのだが、最後まで平行線で終わったようだった。

その後も父は、「そんな札の書き方あるか!」と納得いかずにホテルへの愚痴が止まらなかった。

田舎しか知らなかった私は、これが都会というものなのだ、と納得しかけそうだったが、この時ばかりは父の筋は通っている、と少し同情しながら眺めていた記憶がある。

このことは今にして見れば、ほろ苦くもいい思い出で、ここに父らしさが滲み出ているように感じた。

父は正義感がある人ではあったが、このホテルの言わばトリッキーな札の危険を察知して、事前に確認することをしなかった。

判断が早い、とも言えるが、慎重さがないところがある、とも言える。

慎重な面もあったのだが、自分に確信があるものには、怯むことなく向かっていくという、よく言えば勇気、悪く言えば鉄砲玉のような軽さがある。

そして、最悪の時に周りからどのように見られるか、についてはあまり気が回らない。

周りへの配慮よりは正しいことは正しいだろう、という開き直りの方が強い。

父らしさを懐かしく思い出した。

さて、このような父の血が、自分にも流れているのではないか?

そう思って、過去を探してみることにする。

父に似ているところ

私はサラリーマン時代に、肉離れになったことがある。

何がキッカケだったか忘れたが、ふくらはぎがバリっと音を立てたところで痛くて歩けなくなった。

処置の後に医者から松葉杖で歩く時の注意を教わった。

肉離れをした方の足を地面に着く際に、できるだけ体重を乗せないようにして逆足に素早く戻すことで、負荷を減らすことができて治りが早くなる、という。

あまり聞いたことがなかったが、早く治るならば、と思って肉離れをした方の足を着くやいやな、すぐに逆足に体重を戻すようにして歩くようにした。

すると、周りには肉離れした方の足が相当痛い(悪い)ように映ったらしくて、上司から「オーバーなんだよ。」と嫌味を言われてしまう。

上司には、私が重症を演じていて、あんまり仕事できないことを多めに見てね!とアピールしているように映ったのだ。

演じていると言えばそうなるが、自分の目的は、そんなことなんかではない!

当然そう言いたかったが、面倒くさくなって弁解を一切することはなかった。

確かに、上司に限らず、周りから見るとオーバーだというのが多くの人の見方だったのだろうと思う。

ちょっと父の思い出とは毛色が違う話ではあるのだが、この肉離れの話が私にとっては妙に父と重なるように感じる。

自分が良いと思えば、周りからこう見られるのではないか?などと考えずにやってしまう。

そこに慎重ではない軽さとある種の開き直りのようなものがある。

どこか鉄砲玉のようなところ、このあたりが父に似ているように思う。

やはり同じ血が流れているんだ!そんな風に感じるのだった。

これまでの私は、自分という者は周りに配慮して慎重に進めることができる人だと思っていたのだが、どうやらそれはいろいろな仕事の経験から学んだものであって、それと血の流れはまた別物なのだ、ということも感じ始めるのだ。

話は少しそれるが、私という者はこれに限らず周りに勘違いされてしまうことが他にも多々あったことを思い出す。

叱られるは、勘違いされるは、やはりダメな奴なのだ。

案の定、ダメなところを苦労なく早々に見つけてしまった。汗。

ダメなところを知ることの良さとは?

さて、私のダメなところを知ること、このことの良さとは何だろうか?

まず始めに、ダメなところにビビってはならない、という前提を伝えておきたい。

なぜかというと自分のダメなところを受け入れるということは、かなりの強さがないとできるものではないからだ。

強くなるにはどうするか?についてはあまりにも難しいので、また別の機会に譲ることにする。

せめてダメなところは大したものではない、ということを言っておきたい。

そもそもなぜダメなのか?というと周りに不快な思いをさせるから、ということになるのだろう。

でも、そもそも人が周りに1ミリも不快な思いをさせずに生活することなんてできるのだろうか?

人は、自分と異なる言動にすぐに気づいて不快に感じるようにできているものである。

違和感にいち早く気づいて警戒することで自分の身を守るようにプログラミングされているのだから。

ダメなところとは、人との違いであると言ってもいいのだ。

そしてもう一つに、自分のダメなところはみんなに共通する要素でもある、ということだ。

だから、ダメなところを制御しようと頑張っているのも共通のはず。

とにかくダメにビビらないことである。

※ダメも相手の不快度合の幅が広いので、ここで対象とするダメのイメージは、比較的軽い不快に一旦してもらうことにする。

さて、この前提の上で、ダメなところをあらかじめ知っていることの良さとは、なんと言っても周りに指摘されても驚かない、ということにあると思う。

あらかじめ知っているとダメへの指摘ならば、「ああ、また出たか、制御が上手くいかなかったのかあ。」というくらいのものになる。

逆に、自分のダメなところを知らない(あるいは認めない)でいると、制御をしようという発想が生まれずに、結果制御することさえできない。

当たり前だが、人は知って始めて制御しようとできるのだ。

更にダメなところを知らないと、常に周りから評価されることになり、周りに支配され、その度驚いてはダメージを受けることになってしまう。

人は本来、周りの評価に100%納得できるものではない。

人は何事も最後は自分の中で解消しないと、あるいは、解消しないまでも認識して納得しないことにはどこまで行ってもスッキリしないようにできている。

自分のダメなところを知り、自分で解消、もしくは納得することで、やっとこさ人の評価によるダメージから抜け出せるのだ。

間違ってはいけないのが、ダメを治したはずなのに治ってない、と反省することだ。

治すなどといういただいた個性を修正するようなことが完全にできるという思い込みが、更に深いダメージとなる。

自分の中で治すことによる解消は諦めて制御に留めるで十分なのだ。

この驚かないということ、ダメージを受けないということは、地味に見えるが結構重要なことだと私は思う。

治すのではなくて、ダメな自分の個性と共に生きることが、大切なことのように思う。

堂々と自分でいる

子供の頃、私の通信簿によく書かれていたのは、「落ち着きがない」だった。

だからなのか、落ち着いていてどこか堂々としている人を見ると羨ましく思ったものだ。

でも流れている血が違うのだから、羨ましく思っても仕方あるまい、と自分の落ちつかなさに納得してきたのだが・・・。

相変わらず落ち着きはないとしても、ここにきて、「堂々としていること」と「自分のダメなところを知っていること」が関連しているように感じられてきた。

自分のダメなところを知っているから、周りからダメなところを言われてもその通りだと思える。

だからビクビクもオドオドもすることがない。

ダメである自分が素直な自分であって、そのダメを含む素直な自分を自分で承認している、そういう状態。

それこそが、堂々とした自分でいることなのだ。

今回自分が府に落ちたのは、自分のダメなところを知れば知るほど堂々とした自分でいられる、ということだ。

人に嘘をついてはいけない、と言うがその前に自分に嘘をついてはいけない。

自分のダメな部分を隠し立てすることは体のどこかがビクビクしているのだと確信する。

隠し立てするということは、それをまだ恥部だと認定していることの表れであって、まだそのことを自分の中で解消できていない、ということなのだ。

それは不健康な選択であって、そんな選択もったいないだろう。

さて、私が憧れててどこか諦めていた「堂々としていること」がやり方次第で獲得できる、これは何とも貴重な発見だ。

それでも、自分のダメなところを全部知りつくすのはまた難しいことだろう。

できるだけたくさん知っていた方がいい、ということくらいにしておくことにする。

当然ながら、自分のダメなところは自分だけではわからないものでもあるから、最初は人に指摘してもらうことが必要だろう。

そのためにしないとならないことは、自分から自分のダメなところをさらけ出すこと。

いわゆる自分の脇の甘さをチャンと見せることだ。

自分を少しでも美しく見せよう!と飾ってしまったら脇が締まって、周りは指摘をしてはいけない雰囲気をすぐに察するものだ。

これもまた難しいことではあるが、飾らない自分、そのままでいることを心がけることに尽きるのだと思う。

自分のダメを話せば話すだけ、率直な意見を言ってもらいやすくなって、その中にまた自分のダメを発見できる。

そうして人は、ダメを見つければ見つけるだけ幸せになるのだ。

ここにもまたパラドックスがある。

やはり人生は何とも面白い。

ところで、ここまでの私のことを、四の五のと御託を並べて自分のダメなところから逃げている、とか、開き直ってる、とか、ダメ出しする人がいるんだろう。

でも、それに私は驚くことはない。

最近、自分をさらけ出せば出すほど、思考が強すぎるとか、御託を並べてるとか、ダメだしをいただくことが多くなった。汗。

そう、このような私のダメなところを私は既に知っているのだ。笑。

やはり、自分のダメなところを知っておくに限る。

こんな風に先手を打って、ああ言えばこう言う。

やはり私はどこをとってもダメな奴だ。汗。

でもそれでいいのだ。笑。

UnsplashEthan Sykesが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

「堂々と自分でいる」というのは何も偉そうにすることではありません。

謙虚でもあるが、ビクビク、オドオドはしない非常に穏やかで安定した状態なのだと思います。

また、「ダメなところを知る」というワードを「人との違いを知る」という言葉に変えてみるともう少しとっつき易いかもしれません。

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