RYO SASAKI

「力を抜いて流れに身をまかせ作戦」に変更!~人生というゲームは長期戦に変わっていた~

タナカ シンゴ

昔勤めていた会社の上司に久々に会った。

「あの会社は一体何だったのか?自分は未だに整理できていない。」

元上司のこの一言に驚いた。

会社の何が良かったのか?

何が問題だったのか?

どうしてそうなったのか?

・・・

当時はそんなことを言うような人という印象がなかったから、なおさら意外だった。

私も以前に同じようなことを考えたことはあったが、とても結論が出るものではなかった。

そして、今回のやりとりでもやはり結論は出ない。

それでも、このことがキッカケで、会社のことをもう一度敢えて”ネガティブ”に眺めてみることにしてみた。

眺めてみて自分に突き付けられたのは、会社がどうだったか?といった上司の興味からはるか外れて、人生において「追い込む」という行為にどれほどの意義があるのか?というまた別の厄介な疑問だった。

若さはどこまでもやれる

昭和の頃の会社は、労働時間に制限がない。笑。

深夜0時過ぎまで働いて、1時頃一日を振り返るミーティングをして、それから夕飯にいくなんてこともザラだった。

それでも翌朝9時始業開始は絶対だった。

遅刻してきた同期が、ガムテープで受話器に手をグルグル巻きにされて、ずっとアポ取り(顧客に約束をとりつけること)をさせられていたことを思い出した。

このような働き方は会社の強制だったのか?というともちろん強制もあっただろうし、最初の頃は仕事を覚えることが必要だったから自発的なものでもあったろうし、それらがあいまったものだった、と思う。

加えて、長く働く部下が上司に心象良く、評価されるだろうという姑息な策略も多少なりとも含まれていたように思う。

ところで、そこまでの長時間を忙しく働いたことが、どこまで世の中の役に立ったものだろうか?

私はすぐに畳んでしまわないとならないような事業にもいろいろ携わってきたから、水泡に帰した努力もたくさんあったと言わざるを得ない。

それでもサラリーマンは給料をいただけるのだから、特に文句はなかった記憶がある。

会社側は事業を畳んだ時に余ってしまった社員に何かの役を用意しないとならない、と常に追われていたのだろう・・・。

とにかく、会社は3か月に1回程度(時には毎月)人事移動があったから、いつもそこら中がけたたましかった。

そんな中で私は、多くを経験して学ぶことが自分に必要であって、給与ももらえるのだから、目の前に現れる仕事をのべつ幕無しやってのける、という感覚で日々働いていたように思う。

若さゆえ、どこまでもやることができていたのだ。

そこまで追い込まなくても良かった!?

今こうして当時を振り返ってみると、ずいぶん無駄なことにエネルギーを使ってきたものだと思う。

バカバカしい仕事もいろいろあった。

それでも、

何事も一生懸命やる。

何事も自分を追い込んでやってきた。

もっと先へ、もうひとつ、もう30分・・・・

そんな感覚だ。

私にやりたいもの、なりたいものがなかったから、目の前に課せられた課題をただ取り除くことに奔走してきた。

多少なりとも貯金ができて、遅ればせながらの昇格も少しはあって、なんとなくこれが人生の満足?っていう状態だったのだ。

私が自分の人生に自分なりの何らかの作戦を持っていたならば、そこまで自分を追い込むこともなかったのではないだろうか?

目の前の仕事が自分の作戦に必要がないものだ、と判断できたならば、そこについては力を抜いてやれたはずだからだ。

ここで、会社がどうこうというよりもむしろ私自身の習性がまた見えてきてしまった。

そしてこのことは、どうも次のことに重なる。

『死を直前にした時の後悔ランキング』

このランキングに必ず上がってくるものがある。

「働きすぎなければよかった」

「一生懸命働かなければよかった」

参照:『死ぬ瞬間の5つの後悔』著:ブロニー ウェア 他

労働に関することだ。

この意味合いは、何も働くことが悪いというわけではないのだろうと、私は思う。

労働こそ人生という見方もあるくらいだ。

それでも労働の中に正直やりたくない要素が必ずあるし、必ず過剰に働かないとならないところに追い込まれる、このところが悩ましいところなのだと思う。

週休2日にはなったが、その分平日が密になり、平日の夜の仕事が長くなった。

人は本来のことを犠牲にし、働き過ぎてしまう。

目的のために手段である労働を本末転倒させてしまう、そんな嵯峨を人は持っているのかもしれない。

先ほど書いた私のやり過ぎもまさにそれだ。

仕事に限らず、筋トレにしても、ゴルフにしても、ランニングにしても、始めたら自分を追い込むことをやってきたように思う。

そして、当時こんな風に追い込めることは、非常によい資質だとしか思っていなかった。

このやり過ぎが祟って、逆にできなかったことを上げてみる。

・腹八分目が難しい。

・7割くらいの力で日々生きることができない。

・長期的視点を持てずに、今に全力になる。

この私の特徴は、いわゆる頑張る人(聞こえはいいが)の特徴ではないだろうか?

これに比べると、若い頃からエネルギーを使い切ってしまわずに、7割くらいの力で生きてきた人は、常に余力があって長持ちするのではなかろうか?

個人差はあるものの当然ながら人の持つエネルギーには限界がある・・・。

今となっては、どうみてもこれが自然の摂理であって、余力を残している人の賢さを羨ましくも思えてくるのだ。

人生というゲームは長寿によって長期戦に変わった。

これは当初ハーフマラソン21.0975kmとしてスタートしたはずだったものが、知らないうちに途中からフルマラソン42.195㎞に切り変わっていたようなものだ。

ある大学病院の膝外来に、毎日100人以上の患者が診察を待っている光景を見たことがある。

今までのハーフマラソンの生き方では、膝がもたなくなってしまっているのだ、と感じた。

今、長い会社経験を振り返ると、そしてまたいろいろなところにガタが来はじめることを感じると、力を抜かぬままに日々を生きてはいけない、力を抜かないと消耗してしまう、という感覚が強くなってくる。

そして、ずーっとハーフマラソンのままのDNA、そして思考のまま走ってきたのが私なのだ、という自覚が生まれてくるのだった。

作戦変更!?

「果報は寝て待て」などと悠長なことは言っていられない、というのが我が家の家訓(笑)とでも言ったらいいだろうか。

親も頑張る人だった。

それによって私の習性が備わったようなところがあるのかもしれない。

人生というゲームが変わってしまった以上、その古い習性を変えないとなるまい。

例えばこんな感じだろうか?

・バリバリの計算によって物事を選択せず、何となくの直感を重視する。

・厄介そうなことからは距離を起き、苦痛なく知らない間にのめり込んでいるものをそのまま続ける。

・まあこのくらいにしておこうか?と適度なところで切ってしまうことで、根詰めないようにする。

・周りの人からの様々な縁を自然に受け入れる。(無理はしない、追いかけない。)

そして、若い頃に人生というゲームに何の作戦も立てなかった私が、ここに来て初めて立てたこの作戦に命名してみることにする!

『力を抜いて流れに身を任せ作戦』

力を抜いてやれることをやれるスピードでやれる範囲でやる。

多くを縁の流れに任せる。

何とも締まらないし、ゴロも良くない。

でも返ってその方が言葉の意味通りでフィットするんではないだろうか。

さて自分は、この作戦を現時点でどこまで実践できているものだろうか?

細かく見ると、

集中には限界があって、30分毎に休憩を入れて伸びなどをするといい、そんな風に生理学的に言われるようになったが、とことんやってしまっていて、気づいた時に腰が固まってしまっている。

先の信号が赤に変わることがわかっているのに、急いだまま停止線で急ブレーキをかける。

人の話をじっくり聞けずに割って入ってしまう。

大雨の日でもカッパを着て自転車で出かける。

お酒をもう一杯、もう一杯とおかわりしてしまう。

・・・・笑。

どうやら古いルールに適応していたものがまだまだ残っているように思う。

癖(習性)というものは簡単には変わらないものなのか・・・。汗。笑。

最後に

まあ、無駄のない人生なんてものは、理想に過ぎないのだろう。

エネルギーロスがあるのが人生。

そして、人生のマイナスもプラスであって、自分を追い込んだことで得たものもあったんだろうから、そこに意義が全くなかったわけではないだろう。

それでも今回は、会社のネガティブなところを敢えて眺めることで、そこからまた自分の嫌な?習性が浮き出てきて、それが最新のゲームにどうもフィットしないようだ、ということが見えたのだから、これはこれで意義があることだったのだろうと思う。

ちなみに今回の作戦については、

「人生の先がもう短いっていうのに今さらゆっくり流れに任せて、なんて悠長なことはできない」

とか、

「そんなんやってたら余計に老け込む」

などのご批判をいただく可能性も大いにあるだろう。

確かにそうかもしれないが、私という者については多少老け込んだ方が、周りに迷惑をかけなくていいようにも思う。汗。笑。

最近、20代の若者と会う用事ができた。

日曜日が唯一の休みだということで、そこに予定を入れようと話は進んだのだが、私は何かそれに違和感を感じて・・・。

平日の夜の仕事終わりに変更を申し出た。

折角の休みの日にわざわざ出てきてもらうのはよそう、と思ったのだ。

「休みの日は休んだほうがいい」

これは、できなかった若かりし日の自分へのメッセージのようだ。

自分に足りていなかった長持ちのために「自分を大切にするということ」。

変な老婆心が働いてしまった。笑。

そこで思った。

作戦などという大げさな言葉まで引っ張り出してきたのだが、実はこの感覚がただ平均的に老いるということの自然な現れなのではないだろうか?と。汗。

UnsplashReinhart Julianが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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