人生には、自分の身の回りに「意味のイノベーション」を起こす、という面白みもある。
人間は「意味」を求める存在
昔、私が勤務していたマーケティングファームには凄腕の顧問がいた。
その方は、レクサスの日本市場導入など、今ではよく知られる商品やサービスのプロジェクトを担当してきた経験を持つ戦略コンサルタントだった。
「わかりやすい語り口」と「圧倒的な話の面白さ」は、クライアントからも大変好評で、隣にいると私も学ぶことが本当に多かった。
そんな顧問からよく指摘されたことの一つに、
「言っている意味がよく分からない」
というのがあった。
このフレーズ、社会人であれば上司や先輩から一度や二度言われたこともある人もいるだろう。
私においては一度や二度では済まなかった。
しかし「言っている意味が分からない」というのはその通りなのだが、自分が否定されているような感覚でいい気分ではなかった。
でもだからと言って、説明を放棄するようなことはせず意味を分かってもらえるように努力は重ねた。
「仕事」だったから頑張れたのだと思う。
ただ間違いなくこういう経験があったからこそ、私の中に「意味」の重要性は叩き込まれていった。
「人間は意味を求める存在である」
私はつい最近になり、こう主張をする人がいたことを知った。
V・E・フランクルという人物だ。
フランクルは「夜と霧」という著書で広く知られる精神科医である。
夜と霧はベストセラー本にもなっている名著だそうだが、私はまだ読んだことがなかった。
そんな私が手に取ったのは「意味への意思」という本。
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フランクルは、この本の中で、現代人の多くが「意味への欲求不満」に陥っていると指摘している。
そして、だれもが「意味への意志」をもっており「人間は意味を求める存在である」ということだった。
さらに、人間は本来「意味への意志」に基づいて行動するものであり、
「快楽への意志」や「権力への意志」の背後には、「意味への意志」の挫折があるとしている。
日々の生活に意味を感じることができないときに、人は快楽に耽ったり、出世にとらわれるなど権力の追求に駆り立てられたりするという。
このあたりは私にとって特に目から鱗だった。
「意味を求める」ことは、3大欲求と並び人が生きるために重要な欲求だったのだ。
このことが分かった途端、あらゆるジャンルで「○○の意味」という本が出版されていることにもようやく納得がいった。
昔、顧問に指摘されていた「言っている意味がよく分からない」も、意味を求める人間としては実に自然な営みだったのだ。
人は「意味不明」に耐えられない。
耐えられないから意味が分かるまで分かろうとするか、それを避けるかの二択が基本原則。
つい最近話題になっていたNewspicksの品川駅の広告炎上も、
「意味が分からない人が大多数で、それを分かろうともしたくなかった」
ということではないだろうか。
思うに、結局「仕事を楽しい」と臆面もなく言えるのはごく一部の人でしかないのだろう。
「人間は意味を求める存在である」
この定義を前提として置いた時に、私の中でも色々な事柄が結びつき、今後の人生に加えていきたい行動指針が見えてきたので今回のトークテーマはそれでいこうと思う。
何かというと、自分の身の回りに「意味のイノベーション」を起こす、という話だ。
任天堂のWiiは「意味のイノベーション」によって生まれた
「意味のイノベーション」とは、イタリアのミラノ工科大学のロベルト・ベルガンティ教授が提唱している考え方である。
経営者やデザイン界隈の方には馴染みのあるものだろう。
「意味のイノベーション」は文字通り、製品やサービスに新しい「意味」を持たせる、あるいは見出すことでイノベーションを起こすといった手法。
代表的な例に、任天堂の「Wii」がある。
「Wii」の話は、ベルガンティ教授の著書「デザイン・ドリブン・イノベーション」でも紹介がされており、日本で最も知られる事例と言えるだろう。
2006年11月,任天堂はWiiを発売した。
そのテレビゲーム機は,動作感知コントローラーによって,人々が体全体を動かしながら,テレビゲームを楽しめるものとなっている。
例えば,テニスゲームなら,プレイヤーはテニスボールをサーブするようなジェスチャーをするだろうし,ゴルフゲームなら,ゴルフクラブを振るようなジェスチャーをするだろう。
このWiiの登場までは,テレビゲーム機は親指を動かすことに長けた,子どもたちの娯楽のための機械だと見なされていた。
彼らは,ただ受身的に仮想世界へと引きずり込まれるだけだった。
これを助長してきたのがソニーやマイクロソフト(Microsoft)だった。とりわけプレイステーション3やXbox360は,従来のものに増して圧倒的なグラフィックとパフォーマンスを持つテレビゲーム機である。
この意味づけを覆したのがWiiだった。
Wiiは,現実世界で社交的な活動ができるように,実際に体を動かす形での娯楽を促した。
直観的に使い方が分かるコントローラーのおかげで,誰でも簡単にプレイすることができた。
Wiiは,テレビゲーム機というものを「オタク(nicheexperts)」だけが近づける仮想世界で没頭するようなものから,誰もが体を動かして楽しめるものへと変えたのだ。
人々は,この重要性についてなど気に留めなかったが,Wiiで一度,遊んだなら,すぐさま夢中になった。
(太線は筆者)
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すなわち、
「ゲームが好きな子供や、大人になっても変わらずゲームを楽しむ人向けのもの」
であったもともとのテレビゲームで遊ぶ行為に、
「お年寄りなども含め、誰もがみんなで体を動かして遊べるもの」
といった「新しい意味」を見出したことで生み出されたイノベーションが「Wii」なのだ。
このイノベーションのポイントは一体なんだったのか?
それは、
「テレビゲームをすることにどんな意味があるのか?」
「テレビゲームをすることにはどんな意味を持たせられるのか?」
というように「そもそもの意味を問い直した」ところにある。
意味を問い直し、新しい意味と呼応する新しい技術を搭載して、Wiiは生み出された。
近年、製品・サービスの「コモディティ化」という課題に対し、その処方箋として「デザイン思考」はよく用いられるようになったように思う。
しかし、それだけでは片手落ちであるというところから、ときによっては「意味のイノベーション」を使ったり、両者の要素を組み合わせることが、昨今のデザインマネジメント領域に求められている、と私は理解している
爪楊枝に「煙草の代替になり得る」という新しい意味を見出した
「意味のイノベーション」という考え方を私が知ったのは2018年の末頃だったと思う。
今から考えれば約3年も前になる。
だが、この考え方がより強く自分事になったのは実はつい最近のことだった。
その契機となったのは「煙草」だった。
今年9月の頭「在宅勤務中も禁煙を求める企業が相次ぐ」といったニュースが流れてきた。
昔私も喫煙者だったことも相まってなかなかインパクトを受けたニュースだった。
背景にあるのは、受動喫煙への対策を強化する健康増進法の全面的な施行。
在宅勤務中の禁煙要求は、社員の健康の維持と生産性の向上を図るという狙いがあるという。
しかし、これを見た私は真っ先に「喫煙者の自由」はどうなるのか?と思ってしまった。
現代は大勢の人に普遍的に認められる価値は少なくなった。
だが、完全になくなったわけではなく「健康」や「生産性」は多くの支持を得ている価値観と言っていいだろう。
人生100年時代と言われる現代において、確かに「健康」の価値は高い。
受動喫煙による被害も深刻だ。
でもだからと言って、その「健康」に過敏になり過ぎるのはどうなのだろうか?
それはそれで「不健康」なのではないかと私は思う。
さらにこの動きの行き着く先は「超管理社会」といった危うさも感じ得た。
今まで長年タバコを愛用してきた人にとって、それを禁止されることほど辛いことはない。
私も約10年間、タバコを吸ってきた身としてその気持ちはよく分かる。
その苦しみでむしろ「生産性」は下がってしまうのではないだろうか。
こんなことを思いながら、色々と調べていたところ私は興味深い記事を見つけた。
短い記事なので全引用で紹介したい。
おれはタバコを吸わないんだ。体に良くないからな。人生で一度だけ吸ったことがあるがそれだけ。
コーヒーやスナック菓子など中毒性の高いものに滅法弱いから、タバコも吸い始めたらなんだかんだハマってしまうに決まってる。
今は一箱500円ぐらいするそうだから出費も馬鹿にならない。
しかしタバコを指の間に挟んでフゥーと煙を吹き出す仕草には少なからず憧れがある。
紫煙に細める目の、あの気だるい、今にも人生に厳しさついて語り出しそうな雰囲気……頭もスッキリするって言うし。でも吸うのはな……
そこでオレは気付いてしまった。
タバコってやってることは要は深呼吸だから、煙出る必要なくない?と。
そんなオレにお勧めしたいのが爪楊枝。まず形。細長い。タバコも細長い。
長さはタバコに比べてやや短いがタバコも吸ってるうちにこれぐらいの長さを必ず経過することを考えると、吸ってる感が出せるベストな長さと言える。
オレは飯を食うと必ず同じ歯間のクレパスに食べカスがハマるので、家でも外でも爪楊枝を常備している。
試しに一本、咥えた爪楊枝を人差し指と中指で挟んで、息を吸い込んでみる。腹を膨らませ、口から煙を吹き出すイメージで一気に吐き出すと……やっぱり!気持ちいい。
当たり前だ。深呼吸してるんだから。
そもそも現代人は腹から思い切り深呼吸することが少なすぎるのだ。
これなら数百本吸っても100円で済む。肺も汚れず、脳機能にも悪影響はない。食後に一本というタイミングもグッド。
ということで一日3,4本は爪楊枝を吸っている。
禁煙の店は多いが禁爪楊枝の店はなく、なんなら店側が用意してくれている。歩きタバコは下手すりゃ罰金だが歩き爪楊枝を咎める人はいない。
いつでもどこでも吸える。風立ちぬの堀越二郎も病に臥せる妻の隣でぐらい爪楊枝を吸っておけばバッシングを受けることもなかったろう。
いいですよ、爪楊枝。
今年の4月に書かれた匿名記事で、シェアもほとんどされていない。
だが私はこの記事を読んでものすごく感動した。
一体なぜか??
「爪楊枝」と「意味のイノベーション」がなぜか急に結びついたからである。
筆者は、爪楊枝の意味を問い直し、爪楊枝に「煙草の代替になり得る」といった新しい意味を見出し、そして加えたのだ。
もちろん煙草で得られる価値のすべてをカバーできているわけではない。
喫煙ラバーには「馬鹿にしてんのか」と言われてしまうかもしれない。
だが少なくとも元喫煙者の私は、爪楊枝だからこそ得られる価値もあり「この人は天才なんじゃないか?」と心から思った。
そして、この記事のおかげで「意味のイノベーション」が強く自分事にもなった。
自分の身の回りに「意味のイノベーション」を起こせば起こすほど、人生は面白くなっていく
最近になって目を通した、精神科医の泉谷閑示氏が著した「仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える」によれば。
意味とは、あらかじめ固定的に存在しているものではなく「人が求める」という「志向性」を向けることによって初めて生じる性質を持つものだという。
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これはまさに前出のV・E・フランクルのいう「意味への意思」と同一だ。
平たくいえば、意味とは「人間が意思を持って見出し加えるもの」となるだろう。
そこには法律もなければルールもない。
各々の自由だ。
そして、まさに「意味のイノベーション」も新しい意味を意思を持って見出し、加える行為である。
一般的に意味のイノベーションは、Wiiのような「製品やサービス」に限る話と思われがちだが、今の私はそうは思わない。
爪楊枝に「煙草の代替品」としての新しい意味を見出し、加えた人がいるように、自分の身の回りの何がしかに対して意味のイノベーションを起こしたって全然いいと思うのだ。
実は、爪楊枝の記事に触発されて、自分自身の回りでいくつか「意味のイノベーション」的なこと起こしてきていることに私は気付いた。
例えば、ランニングやウォーキング。
私はある時からランニングやウォーキングを「自分ミーティング」と呼ぶようになった。
なぜかというと、走っている最中や歩いている最中というのは、足で地面を蹴るという動作によって体全体の血流がよくなるからか、アイデアがかなりの確率でまとまるからである。
したがって、私の中の様々な意見と会議を行う場ということで「自分ミーティング」と呼んでいる。
ランニングに「自分ミーティング」という新しい意味を加え、それによる効能を感じているという点で、これは意味のイノベーションと呼んでいいのではないだろうか?
他にも、私は車を「ミーティングスペース」だと思っている。
なぜかというと、私が運転手で、助手席に誰かが乗っている場合、会話が弾んだり、重要な話ができたり、何かを決めることができたという経験がとても多いからだ。
こうなる理由を自分なりに分析してみたところ、
「前に進んでいる(車はずっと前進している)という感覚を得られる」
「横並びのフラットだからコミュニケーションの心理的ハードルが低い」
「密室である」
多分この辺りが影響して、ミーティングをいい感じにしてくれている。
これも元来、移動手段である車に「ミーティングスペース」という新しい意味を加えたということで、意味のイノベーションになるのではないだろうか?
他にも身の回りのことで思い当たることがあるのだが、いずれにしても「意味のイノベーションである」と考えると、とても据わりが良い。
そして、いずれもに言えることは、新しい意味が加わったことによって「今まで見えていなかった世界が見えるようになった」ということである。
ただ意味のイノベーションと言っても、もちろん任天堂「Wii」のような世界を揺るがす派手さも威力も全くない。
あくまでも私自身に対して影響のある意味のイノベーションだ。
だがこれらは着実に私の人生の質を高め、面白くしてくれているという確かな手応えがある。
意味のイノベーションを起こす対象は、それこそ爪楊枝だってなんだっていいのだろう。
でもきっと、自分の身の回りに「意味のイノベーション」を起こせば起こすほど、人生は面白くなっていく。
こういう面白みも人生には潜んでいるのだ。
ということで、今後の人生の行動指針に以下のことを加えておこうと思う。
・「人間は意味を求める存在である」という前提に立つ
・意味を問い直し、新しい意味を見出し、身の回りに意味のイノベーションを増やしていく
こういうことを日常的に行っていった先に、Wiiのようなビッグアイデアも待っているのかもしれない。
しかしまあ、生きているとこんな感じに脳内が時々スパークすることがあるのだ。
今後も身の回りにある色んな事物にあらためて目を向けて、意味をじっくり問い直してみたいと思う。
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【著者プロフィールと一言】
著者:田中 新吾
プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|プロジェクトデザイナー|タスクシュート認定トレーナー|WebメディアRANGER(https://ranger.blog)管理人|ネーミングの仕事も大好物|白湯の魅力や面白さをお伝えする活動もしています(@projectsau)
●X(旧Twitter)田中新吾
●note 田中新吾
私も実際に「爪楊枝」を使って、筆者が行っているようなことをやってみました。人の見ているところでやるにはまだ恥ずかしいですが、ナシではないと思ったばかりです。店にも禁止されないし、歩き爪楊枝も問題ないって本当ですね。
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