自分の間違いの発見を楽しんで生きる。
タモリさんの名言に「人間にとって一番恥ずかしいことは立派になること」というものがある。
最近耳に残った言葉だ。
この言葉の意味を理解できたわけではないのに、なぜ、耳に残ったのだろうか?
私は確か、私という人間を立派だと思ったことはないと記憶している。
そうだから、”私にできない立派”を揶揄してくれたことが心地よかったのかもしれない。
あるいは、ここのところずーっと常識を疑ってきたから、立派というみんなが認めていて、あこがれている言葉をまた疑いたくなったのかもしれない。
ずいぶん前に、パンツ一丁でテーブルの上に乗っかって、イグアナのマネをしているタモリさんを見たことを思い出す。
その時は、タモリさんを恥ずかしい人だと思った記憶がある。
今ではブラタモリ(タモリさんの番組)のファンでもあって、タモリさんの知性、知的好奇心、力の入らなさなどに感銘を受けている者のひとりだ。
恥ずかしいとはどういうことなのだろうか?
立派とはどういうことなのだろうか?
そんなタイミングで読み始めていたのがこちらの本。
固定観念を壊そうと試みてきた私にとって、このタイトルはピッタリだ!
直感的にそんな風に感じられた。
その直感が的中してか、自分という者への理解が少し深まることになった。
それは生き方を変化させようと感じられるものでもあった。
そしてまた、ちょうど上手い具合にタモリさんの言葉の意味を自分なりに理解することになるのだった。
自分という者を今一度理解する
こちらの本は『THINK AGAIN』というタイトルどおり、何回も何回も考え直すことの大切さを伝えている。
何回も考え直す柔軟な人の方が成功しているという事例を紹介している。
これには、人はよく間違うという前提がある。
私にあてはめると、若い頃には間違わないように懸命に努力してきたつもりだったのだが、それでもよく間違いをしてきた。
最近でも間違いが何もないように生きているつもりが、すぐに日々の間違いが見つかる。
直近驚いた間違い、それは非常に些細なことで言うも憚られるのだが、紹介してみる。
コーヒーの話。
私が1回に使うコーヒー豆は約20gになる。(およそ1.5杯分)
計量カップは2種類あって、一つは7gのもの、もう一つは10gのもの。
20gだから、7gのものでは3杯、10gのものでは2杯の豆をミルに入れる。
ずーっとそうしてきたのだが、挽いた粉をネルに注いだ時に10gのカップを使った時の方が、粉の盛りが多い、最近そんな感じがした。
7gで3杯の方が計算上21gで盛りが多いはずなのになぜか逆になっている。
おかしい・・・。
よーく見てみると、10gカップの10gラインはカップの縁ではなくて、縁より2~3㎜ほど下に引かれていることを発見した。
10gラインをカップの縁だと思い込んで、その分だけ多くの豆を入れていたのだった。
ずーっと少し濃いコーヒーを飲んでいたのに全く気づかず、今更ながらの間違い発見だった。
また、他の間違いを探してみるとすぐに見つかった。
部屋のキーを出す時に右ポケットを探すも、左ポケットにある。
あるいはその逆。
私の場合、こんなたわいもないことから、やや深刻なことまで間違いは幅広く日常茶飯事のことのようだ。
残念ながら、間違いは簡単に見つけられるのだった。
私が、私という者との長い付き合いで感じるのは、間違いをしないようにしても間違いをしてしまうし、間違いをしないように努力すると今度は気疲れする、ということだ。
どうやら、間違いをしないことを目指してきたが、間違いをしないようにはならない、という結論になる。
たぶん、今後も変わらないだろう。
それでも、間違う理由を私が至らないから、とされてしまうことには抵抗したくなるものだ。
簡単に間違ってしまうほど世の中は複雑であり、そしてまた環境は変化していくから間違って当然なのだ!
とりあえずこれだけは言っておきたい。笑。
それでも、環境のせいにして、間違いを正す努力は意味がない、と開き直ってしまうわけにはいかない。
落としどころとして、一度したのと同じ間違いをしない、そしてあらたな間違いを受け入れてずーっと考えをあらためていく態度でいることが必要だ、と腹落ちするのだ。
自分のこれまでを観察してみて、この本の、「人間は間違うから考えをあらためる(THINK AGAIN)必要がある」という内容はすんなり入ってくるのだった。
続けて、この本の印象的な言葉をいくつかあげてみる。
・私たちの思考は身体よりもずっと早く柔軟性を失う。
・脳の処理速度と思考の柔軟性は別物である。
・知能指数テストのスコアが高ければ高いほどより早くパターン認識できるために、既成概念に囚われやすい。
・頭の回転が速いほど、信念をあらためることに苦労する。
あなたが考えることが得意とするならば、あなたの考え直す力は人より劣る可能性がある。
紹介だけにとどめるが、比較したことのない二つのものが並べられているところが新鮮で面白い。
思考の柔軟性と身体の柔軟性、脳の処理速度と脳の柔軟性、考える力と考え直す力。
これらをこれまで比較したことはない。
これらを並べることで、文字通り考えあらためるための扉がまた開かれたようだ。
あらためることの難しさを克服するには?
人は間違う者なのにもかかわらず、考えあらためることが難しいものだ、という。
その難しさの主な原因と克服方法を私は以下の2つと捉えることができた。
①アイデンティティーと価値観を分離すること
多くの人は、自分の考えや意見を、自分のアイデンティティーの一部だと捉えている。
だから、自分の考えや意見をあらためることを、自分の世界観を否定されて、アイデンティティーが脅かされたと感じるのだという。
自分という存在が否定された、と勘違いしてしまう。
そしてまた、自分に一貫性がないといけないと思ってしまうところもある。
確かに、自分の持っている考えや意見は自分自身の一部ではあるのだろうが、それはただの価値観であって変わるものである、自分というものと関係はするが一体化したものではない、と捉えないとならない。
やや難しいがそんな意味合いとして理解できた。
「今の時代にWINDOWS95のパソコンを持っている人を笑うくせに、自分は1995年の思考のままでいる。」
強烈な皮肉だ。
②単純化の欲求を抑える
人の持つバイアス(思い込みによる偏り)の中に、バイナリーバイアスというものがある。
人は白黒つけないと気が済まなくて、すぐに白、黒に判別して単純化してしまうのだ。
例えば、前回の記事で、私はフォアグラに対する態度を保留にしていたが、必要がないとハッキリさせたこともこれに当たるのだろう。
物事は、何でも白黒に判別できるものではない。
同じ事象でも白とも捉えられるし、黒とも捉えられるものが多い。
物事は保留にしておいてもいいのだ。
それでも、決着をつけないとメモリーを食うし、曖昧が気持ち悪くて、しんどいのが人というもの。
白黒つけて安定したポジションに入りたいのだ。
人は生きているとしょっちゅう決断を迫られて、瞬時に白黒つけることは必要なことではある。
単純化も必要である一方で、単純化によって間違うことがあると理解しておく必要があるということだ。
言葉も単純化しているから危険!?
更に加えて、人が考えあらためていくためには、謙虚と自信を共存させることだ、とあった。
私にとってこれはまた、相反するものどうしの共存であって矛盾のように感じる。
・謙虚→自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持ちがあること。
・自信→自己を信頼すること。
自信を持つと自分を偉いと思うのではないか?
素直に学べるのは、むしろ自信がない証拠ではないか?
などなどの疑問が生じる。
ここからわかるのは、どうも私は言葉も単純化していて、その結果、勝手な思い込みができているということだ。
謙虚と自信が相入れないように捉えてしまっている。
先ほどの、自分の意見と自分のアイデンティティーについては逆に一体化させてしまっている。
言葉こそが、物事を単純化したツール。
特に「概念」というような形のないものを言葉にするには、ある程度単純化するしかない。
単純化するから使えるし、人に伝えることができる。
人に伝えるには、これ以上のツールはないと言っても過言ではない。
しかし、そうだからこそ言葉は、曖昧なもので時に勘違いしているということになるのだ。
勝手な勘違いによって、謙虚と自信を分離できなかったり、価値観とアイデンティティーが分離できなかったりもしている。
これもよくある間違いのように感じるのだった。
間違いの発見を喜ぶ。
人は言葉ひとつをとっても簡単に勘違いして間違う。
ならば、やはり考えあらため、修正していくことが生きることにセットされるべき生き物なのだ。
間違いを感じて、間違いを嫌だと感じるのだから。
ここで、間違ったことをどう捉えるのか?について記述をあげてみる。
『認知的柔軟性』が必要だ。
認知的柔軟性:ひとつの極端からもうひとつの極端へと臨機応変に移行する積極的な意欲。
一年前の自分はなんとバカだったのか?と思わなかったとしたら、それはそれまでの一年で何ひとつ学ばなかったということだ。
自分が何かを学び得たかどうかを知る唯一の方法は、自分の過ちを発見することだ。
通常、自分の間違いが見つかると悲しい思いに駆られるのだが、それは自分が間違わないものだ、という思い込みがあるからそうなのだ。
そもそもが間違うものなのだとすると、むしろ日々、自分の過ちを見つけるということは、喜ぶべきことになる。
言われてみると当たり前だが、間違うものならば、修正点を発見できることはプラスのことなはずだ。
それが、繰り返し間違いをしないことにつながり、修正することで成功につながる。
人は間違わないものである、という前提、それは強制でもあり脅迫でもあり、そんな見えない力が働いていたのがここまでの時代だったのではないか?
これは私だけの感覚かもしれないのだが、そんな風に感じるのだ。
さて、ここまでを踏まえた上で、最後にタモリさんの名言に向き合ってみよう。
「人間にとって一番恥ずかしいことは立派になること」
立派な人とは何のことなのだろうか?
立派:非難する所が見つからないほど、すぐれて堂々としていること。完全と言っていいほど見事な様子。
完全とはどんなことを言うのだろうか?
私の場合、立派という言葉に、倫理観のある人という意味がへばりついている。
あるいは、地位のある人という意味合いがへばりついている。
勇気のある人という意味合いがへばりついている。
どうも「間違わない人のこと」という意味合いもへばりついてしまっているように思う。
立派とは主観的であるから、その言葉の意味は人それぞれでもあって、案の定曖昧なものであった。
その意味が曖昧なものを目指す、とは何を意味するのだろうか?
立派を目指した瞬間に、人にそう見られるように、それは他人の目を気にしながら、生きてしまうことになるのではないか?
また、完全なんてのはそもそも無理ゲーではないのか?
人は他人の立派に見える一面だけを見ているに過ぎないのではないか?
無理なものを目指す時に、身体が壊れる恐れがあるのではないか?
無理なものを目指す時に、そうなってないのに、なったと自分をごまかしてしまおうという思いに駆られるのではないか?
立派になるということも、意味が曖昧なことであり、人のためのことであり、無理なことでもある。
私にはそう思えてくる。
そんな立派を手に入れた時、その立場やプライドから、自分の間違いが認められなくなり、柔軟性を失い、大いに苦しくなるのではないだろうか?
いろんな思いが浮かんでくる。
結局、無理なことに魂を売ろう、と切望していることに他ならないのではないか?
そうならばそれはバカげていて、恥ずかしいことと言ってもいいのではないだろうか?
タモリさんの本意とは別物になってしまったかもしれないが、私はこの本をキッカケにしてこの名言をこんな風に理解するに至るのだった。
私は大変遅ればせながらではあるのだが、これを機会に、私というものはよく間違う人間なのだ、とまずはしっかりと認識しようと思う。
そして、曖昧にしてきた謙虚と自信の共存についてはこんな風に考えよう。
私は、間違わない、という自信は全くない。
しかし、間違った時に方針を変えて修正することには自信がある。
だから、素直でいられる。
この前提に立ってこれからは前向きに、自分の間違いを発見して、変化を楽しんでいきたいと思うのだった。
そう、私は一生、自分の間違いを発見し続ける。
人生とは、何かになるためのものではなくて、日々何かをして変化するためのものなのだ。
Unsplashのkrakenimagesが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
積極的になっても最後まで発見できない間違いもあるんだろうと思います。
それでもできるだけ間違いを発見したいと思います。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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