RYO SASAKI

「自分を生きた」という充実感を得るために「順張り」と「逆張り」を常に意識する。

タナカ シンゴ

金融投資を始めて、投資に「順張り」とその逆の「逆張り」という方法があることを知った。

順張り・・・周りのみんなが買って価格が上昇している時に自分も買うこと。

逆張り・・・周りのみんなが買って価格が上昇している時に自分だけ売ること。

投資において、このどちらかが正解ということはなくて、時に「順張り」が必要で時に「逆張り」が必要になり、その判断によって結果が大きく変わってくる。

投資というものはやはり単純ではない。

この「順張り」「逆張り」という言葉を知ってふと思ったことがある。

この捉え方は、人生をどう生きるのか?にも当てはまるように思えたのだ。

人生における様々な判断も、みんなと同じ選択をする場合とみんなの逆を行く場合がある。

こちらに関しても正解があるわけでもなく、どちらか一方を選択するとどちらか一方の恩恵を得ることはできないといったもののように感じる。

今回は、敢えて人生を「順張り」と「逆張り」という投資用語に照らし合わせることで、日々どんな心持ち(投資で言うところのポジション取り)でいればいいのか?何らかのヒントを探ってみたい。

投資用語であっても生きるのに役立つならば、何でも使う。

私という者はつくづく節操がない。笑。

周りの人と「同じ」、周りの人と「違う」

自分に比較して、周りの人のどこが「同じ」でどこが「違う」のか?

このことは、生きているうちに人間につきまとう厄介な問題だ。

人は誰でも自分の行動や考え方に共感できる人を常に求めているものだ。

いわゆる自分と「同じ」人に当たる。

でも現実はそれに反する人の方をよく目にするから、常に気が休まることはない。

「(悲惨なニュースを知っては)なんであんなひどいことをするんだろう?」

と嘆き、

「(人の美談を知っては)自分にはとてもできない。」

と嘆いたりする。

結構たくさんの時間がこんなような思いに占められてしまっているのではないだろうか?

人は自分が想定する行動を取らない人に脅威を感じるようにできていて、自分の常識どおりに周りにも同じ行動をとって欲しいのだが、残念ながらそうならないことの方が多い。

このことを私は、種の分散による必然だと結論づけてそれ以上考えないようにしている。

リスクを避けるためバラけて産み落とされるのが種としての自然な有りようなのだと。

だからそれを好まなかろうが、他人の言動に脅威を感じることは避けられないのだ、と諦め、また何とも都合よくいかないようにできていて、面白いとしか言いようがない、と強がっているのだ。汗笑。

それはともかく、この人が共感を求めたいという思い、そして脅威を避けたいという思いによって、社会に常識と同調圧力が存在しているのだろう、とも思う。

周りと違う私

私という者は、この常識と同調圧力に右ならえして生きるのが大人なのだ、と思い込んできたのだ、と昔の自分を振り返っている。

投資でいうところの「順張り」一辺倒である。

そんな私も年を重ねて、時には「逆張り」も必要なのではないか?とやっと思うようになった。

投資用語を知ることで「逆張り」という判断が急に市民権を得たような感覚になったのだ。

年をとると一般的に保守的(順張り)になるように思うのだが、どうも私という者はそこのあたりも周りと違っているのかもしれない。

そんな変化からか、自分が周りと違うところを敢えて見つけようとし始めて、違うところを前向きに見つめられるようになってきた。

「周りと違うところ」について、投資の件からこんなことを思い出した。

それは子供の頃、地元にコンビニエンスストアが初進出した時のことだ。

家の近くにできたセブンイレブンに初めて入店した時のことを今でも鮮明に覚えている。

お客さんがいない。

(スーパーと比較して)チョコレートの値段が明らかに高い。

店員が元気がない。

商品が埃っぽい。(商品がまだ回転してなかったからか?)

薄暗い。

そんな印象が次々に浮かんで、値段に怖気づいて何も買わずに退散したことを覚えている。

これまで馴染みだったスーパーと比較して、いいところが一切見当たらない。

こんな店うまく行くはずがない・・・、私は子供ながらにもそう強く思った覚えもある。

しかしながら、その後のコンビニエンスストアの躍進は言うまでもない。

価格よりも、店員の元気よりも、いつでも店が空いていることの便利さが、後に多くの人の支持を集めた、そう言うビジネスモデルだったわけだ。

当時のゆっくり時間が流れる田舎の、しかも子供にとって、忙しい生活というものが想像できるはずもなかった。

ドン・キホーテについてもこれと似た印象がある。

初めて入店した時に、そのジャングルのような売り場にクラクラしてきて、何かを見つけようという意欲もなく、どの商品にも怪しさを感じてしまった。

要らないものを買ってしまうような不安がつきまとう。

※探索して新たに欲しいものを発見できるのが、ドンキの醍醐味なんだろうから、全く私という者の感覚は逆なのだ・・・。汗。笑。

コンビニ同様にこんな店がはやるわけがない、と思った。

そして、その後のドンキの躍進は言うまでもない。

白状するがこれには、子供の頃のその無知さ故に気づかなかった、と言い訳できないところがある。

なぜかというと、コンビニとドンキの躍進後においても私のこの根本の感覚は未だに変わっていないからだ。

ここに、私にあるどこで沁みついたかわからないが周りのみんなと違う感覚を発見するのだ。

同時に、自分のビジネスにおける先見性のなさにも気づいてしまうことになる。泣。

周りの人と違うことの厄介さ

このことから、周りと違う、ということの厄介さについて考えてみたい。

まず、ビジネスは多くの人に支持されることで成功しやすくなるものだ。

だから、マーケティングという多くの人が感じるであろうものが何かを考える学問?が盛んだったというわけだ。

そういう意味でいうと、みんなと同じ感覚でいることが、ビジネスをやる上では有利に働く。

周りと違う私は、そういう意味で不利と言える。

自分がいいと思わない商品やサービスに従事している人もいないことはないだろう。

そういう人はビジネスと自分の好きなことを別物として分けられているのかもしれないが、私はそれほど器用ではない。

私の場合は、頭で上手くいくビジネスモデルだと理解したとしても、コンビニやドンキで働いたら長期的には苦労が多かっただろうと思う。

備わった感性はどうしようもないのだ。

周りの人と違うということは、メジャーな商品サービスを提供する会社では働きにくいのだ、と納得するのが無難だろう。

他にも腕時計が体に纏わりつくのが嫌でしなくなってしまったり、スマホもiPhoneの過剰スペックは全く不要だと早々に気づいたりと、私にはみんなと違うところが物が売れない方向にいろいろと見られる。

その感性を尊重して、時計やスマホ関連の仕事に従事するのはあまりいい選択ではない。

こんな風に、人と違うということは、残念ながら不利にもなりいろいろな制限が出てくるものでもある。

更に、周りと違う自分が周りの人といろいろな話をすることを想像してみよう。

これだけみんなと違って共感できない自分なのだから、本音を言うとすると「私はそうは思わない、私は違う」などの言葉を並べて、周りが不快になってしまうだろう。

周りからは、へそ曲がりだとか、癖がある、とか、単なる意地悪だとか、と括られるのが関の山。

だから会話においてどこまで本音を話すか、も考えねばなるまい。

私のように、周りと違っていればいるほど、仕事や会話に制限も増えてしまってなかなか厄介なのだ、とつくづく思う。

周りの人と違う自分を生きる

では、周りと違うということの厄介さにも関わらず、それでも人と違う自分を生きる意味とは何だろうか?

それは備わった感性を尊重することにあるのだと思う。

そう感じちゃうのだから、それを抑制することの不自由さから素直に逃れる、という感覚。

そして、周りに合わせるのではなくて自分の感性で選択した時の充実感を感じることが、生きる快感とでも言ったらいいだろうか・・・。

まだ、投資経験は乏しい私なのだが、「順張り」を選択した時にその通りに値段が上がった時の感覚。

そして、「逆張り」を選択した時にそのとおりになった時の感覚。

更に言えば、これらを比較すると右ならえの順張りよりも、逆張りがそのとおりになった時の感覚。

みんなはあっちを選んだが、自分は敢えてこっちを選ぶ、そして(自分は結果)良かった!という経験を重ねること。

これが何よりも自分を生きた、という充実感につながるのだろうと思う。

自分が自分であることを、経験を通して実感するのが人生というものなのではないか?

そんな風に感じられて、その経験をするには自分の中に備わっている逆張りの感覚こそもっとも大切にするものではないだろうか?

そんな風に思えてくるのだ。

生きるには「順張り」も「逆張り」も必要。

自分らしくあろうと「逆張り」に意固地になってはいけない。

時にはみんなと同じ波に乗り、時には逆、両方を自在に選ぶ。

「順張り」も「逆張り」周りとの比較における結果なだけなので、フラットに受け入れる。

「逆張り」の厄介さを怖がらず「逆張り」の生きづらさに上手く向き合うことで、より高い充実感を求めるのだ。

最後に、ここまでの気づきをどう活かすか?についてまとめて終わることにする。

自分が自分らしくあるためには、自分が周りと違っていることを積極的に認めるところから始まる。

この自分のモノの見方は周りの人と同じなのだろうか?周りの人と違うのだろうか?

常にそんな風に自分が「順張り」と「逆張り」なのかを意識するようにしたい。

同時に、この「逆張り」を大切にしようと鼻息が荒い私だから、「逆張り」の時の言動に注意が必要だ。

「逆張り」の言葉は、そのつもりがなくても周りに引かれたり、周りを不快にさせたり、が当たり前にあることだ。

私の鼻息の荒さには、いつだって気を付けないとならない。汗。笑。

UnsplashDanielle-Claude Bélangerが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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