理性至上主義の歴史を知って視界が広がった話。
あるお笑い芸人のYouTube動画に「なぜ、芸人はクスリ(禁止薬物)をやらないのか?」というタイトルがあって目を引かれた。
確かに、薬物使用者にはアーティストや俳優が多くて、芸人の記憶がない。
面白いテーマだと思って興味をそそられた。
とはいえ、お笑い動画だからスカされて、笑わされるんだろう、と予想しながら観ていると、案の定、ある芸人を引き合いに出して、サウナ、新宿二丁目などの趣味へのハマり方のすさまじさをイジることで、クスッとさせられた。
一旦の結論は、そこまでハマれる趣味で気持ちよくなるから、他のクスリで気持ちよくなる必要がない、というものだった。
動画は意外にもそこからまた、理由の考察が続く。
・芸人にはウケた時の快感があるから
・俳優は役にのめり込まないといけないから
・芸人は日頃好き勝手やっているから
などなど。
この動画にはたくさんのコメントが投稿されていて、その投稿も含めてどれもなるほどと思い、面白く視聴させてもらったのだった。
ちょうどそのタイミングで、ある人から心理学者の岸田秀さんを教えてもらった。
こちらの本には私の視界が急に開けるような言葉があった。
そして、その新たな視界から、「なぜ、芸人はクスリをやらないのか?」について自分なりにコメントを投稿したくなった。
今回は、その経緯とそこからたどり着いた自分なりの”健やかに生きる方法”について書いてみたい。
神経症、精神病の原因
「絞り出し ものぐさ精神分析」によると、神経症や精神病の原因は理性による人格統制なのだ、という。
19世紀末のヨーロッパ。
最初はキリスト教が理性の教本であり、次にキリスト教への信仰がすたれた頃には、今度は全治全能の神が理性であることになり、それに従っているヨーロッパ人だけが理性をもった賢明な人だとされた。
人々は理性によって理想の社会を創ろうとしたのだ。
別の見方をすると、統制のためにはお手本=理性が必要になる。
統制のためにバイブルが創られる(利用される)のだ。
キリスト教を理性とするから、例えばキリスト教にあるセックスを罪悪視するようなものもそのまま理性に受け継がれたりもした。
ヨーロッパは当時、理性至上主義、理性万能主義、理性中心主義の時代であった。
それによって、当時のヨーロッパの人は理性と反理性との葛藤に苦しみ、混乱し、病んでいた。
ヨーロッパの人は、セックスなどとは関係ない清らかな生活をしているふりをしてたらしい。
これは日本の現代社会にも顕在のように感じる。
人間において理性というものは意識領域に当たり、意識領域は人間の中のわずか数パーセントしかない。
あとのほとんどが無意識領域であるから、その無意識領域までを理性で統制しようとすることは無理がある、と説明している。
納得する話だ。
何もセックスの話だけでなくて、人々はいろいろな面でこうしないと理性的ではない、というルールに縛られ、精神のバランスを崩し、病んでいったのだ。
これが理性による人格統制というもの。
潜在意識がやりたいことをやれない、やりたくないことをやらないといけない。
この理性至上主義は、その後日本にも確かに輸入されてきた。
子供の頃から、理性的であることが素晴らしいことだと言われ、大人になるには理性的でなければならない、と言われてきた。
そして、令和の私においても、理性と反理性の葛藤があることを自分の中にも、周りの人にもしっかりと確認できる。
精神が健やかであるということ
自分はこれまで自分を精神病ではないし、神経症ではないと思って生きてきた。
しかし、本当に自分はここまで健やかだったんだろうか?
最近健康を考える上で、あるいは幸福に生きる、を考える上で、瞬間瞬間の精神状態もそれらの大切な要素なのだ、という感覚に変わってきたところだ。
未病という言葉のように病気と診断されるのは閾値を超えたか超えていないかだけで、診断されないにしても病んでいる、というのは普通にあるように思う。
理性と反理性の葛藤が常に頭の中で起こっているのならば、健やかな精神状態とはとでもいえないだろう。
理性と反理性の葛藤がある、と言ったが、私の場合、むしろこの歳になってやっと反理性が存在していい、と認めるようになったといった方が実態に近いかもしれない・・・。
そこまでは反理性をないことにしようと力んでいた。
以前親戚から、「前よりも人あたりが柔らかくなった」と言われたことがあった。
このあたりがこの変化のタイミングではなかっただろうか?
理性を拡大し続けて反理性を撲滅して、立派な大人になる。
これをなんとなく目指してきたように思う。
いや、というよりも、稼いで生きていけるように、更にお金が稼げるように、と、やっていたことが、理性至上主義に向かわせていたと言った方がいいのかもしれない。
残念ながらこの行為が行き過ぎると、バランスを崩し精神に支障をきたす、ということで、これも経験からまた理解できる。
人間は理性的になればなるほど、不健康になっていくモノなのだ。
特に厄介だと思うのは、理性的であることを演じ、反理性を撲滅するように動くことは、人間にとって苦しいはずなのだが、それを感じないでいられることだ。
若さによるありあまる体力は、それを我慢できてしまうのだ。
歳をとって体力が落ちてくることで、当時我慢していたことにやっと気づくことになる。
そんな体力が落ちているにもかかわらず、年長ほど理性的でないとならないように言われるのは、どうも納得がいかない。笑。
理性を大概にして健やかに生きる
社会で生きるためには理性は必要なものだ。
理性的に振る舞って稼がないと生きていくことはできない。
だから、何も理性というものを、無くしてしまえ、などと言うつもりはない。
しかし、理性だけで健やかなるように人間はできていないのだ。
大半の無意識領域によって生かされている部分も多いことをあらためて認識するのだった。
私はこれまでも健やかに生きる方法として、脳と心の関係、「脳を脇役にする」や脳と体の関係「細胞の声を聴く」などの言葉で学んできた。
今回、これらのことに「理性至上主義の歴史」というセンテンスが加わることで急に視界が開けたように感じた。
脳は暴走するとも言えるし、また脳が「理性至上主義」に心酔したことによって、他の部位が抵抗して人は苦しむとも言えるのだ。
少し反れるが、これによってなぜ、自分の悪い部分をチャンと観る必要があるのか?なぜ、自分の悪い部分を観ると強くなるのかが、ということについても急にわかった気がした。
悪い部分を多い隠すということは、自分に嘘をつくことであり、我慢することでもあり、理性以外の自分を認めないということでもある。
それはもはや自分ではないし、健やかではない、だから脆くなるのだ、とつながった。
さて、ここまできたところで、「なぜ、芸人はクスリをやらないのか?」に対して、偉そうにもモノ申しておこう。笑。
クスリに向かってしまうのは、(多くの)俳優やアーティストが自分でない自分でいなければならないことの負荷が大きいことによるのではないか?
自分に嘘をつき、理性的でカッコよい自分を舞台やステージを降りても演じ続けなければならない。
これは大変なことで誰でもできる仕事ではないと思う。
もちろん、演技後には素に戻る健やかな俳優、素のままやっている健やかなアーティストもたくさんいるだろうけど・・・。
これに対して、芸人はカッコ悪くて非理性的な自分を日々晒して、好き勝手やっているように見える、それは時に子供のようにも見える。
芸人は非理性のままで仕事をしている瞬間が多いのではないだろうか?
ホントかどうかわからないが、理性による統制の強さによって差が出てしまっているのではないか?
というところにたどり着くのだった。
さて、クスリの話はここまでにして、私なりに視界が開けたんだから、それを日々の生活に活かしたいものだ。
私は、これまで十分理性を仕込まれたから(←ホントか?汗。)、非理性の方にウェイトシフトしようと思う。
・理性的でない思いがもたげても、自分を卑下せずに、その思いを尊重する。
・わき上がる自分の思いに嘘をつかない。
・理性と非理性で葛藤するのではなくて、どちらかを都度都度選択する、という感覚になる。
・行動する際に、非理性的な方、それはなぜだかやりたい、それはどちらかというと非常識な方を可能な限り選択するようにする。
・クスリならぬお酒(合法)で理性を外す。
・体裁を取り繕わず、はしゃぎたい時ははしゃぐ。
これらを意識していこうと改めて思うのだった。
こうしてまた、酒の正当性を強化した私ができてしまった。汗。笑。
著者はまた、理性に傾倒し続ける現代に対しても危惧をしていた。
SNSなどによる誹謗中傷も、理性による統制のひとつの形に含まれるのかもしれない。
引きこもりの増加も、理性による統制への反動と言えるのかもしれない。
何事も理性的でないとならない社会では、私も経験してきたように誰でも多かれ少なかれ病んでしまうものである。
このことは、この先より合理化していくであろう社会で生きる上で、1丁目1番地として認識すべき前提ではないか、とまで感じる。
そんな社会で自分は、理性に飲み込まれずに理性を必要最低限に使って健やかに生きようと思うのだった。
余談
この本を読む数日前のこと。
酒場で40歳代の中間管理職だと言う、初対面のサラリーマンと話す自分がいた。
なぜ話すことになったか覚えていないのだが、
「ビジネスも商売もよりうまく(いわゆる合理化)やろうとすると、人がやりたくないことが出てくるもの。
みんなして(商売の)合理性を追求するものだが、人は合理的にできていないからね。
みんなその葛藤で苦しんでいるんだ。」
調子に乗ってそんなような言葉が口を衝いて出てしまった。
なんと、19世紀のヨーロッパ人の葛藤を知る前に葛藤を言葉にしていた。
なぜそんなことを口走ることになってしまったのかも覚えていない。
出た言葉に後から自分でもビックリ。
自分はそんなことを考えていたのか・・・。
それは自分が自分に言い聞かすような言葉でもあった。
そのサラリーマンは、この言葉の後、意外にも泣き出してしまった。
お酒がかなり入っていたこともあっただろう。
悪いことをしたと思ったが、
「みんなそうなんですね、少し楽になりました。」
と言ってもらえてとりあえず安心した。
サラリーマンに何か思い当たるところがあったんだろう。
商売においても、理性で進む合理化がある段階までいくとそれがイヤになるのが人間。
そして、イヤになってはいけない、と理性によって必死に言い聞かせるのがまた人間。
理性至上主義を知って、視界が広がったことによって、数日前の出来事がまた際立ってくるのだった。
UnsplashのWonderlaneが撮影した写真
【著者プロフィール】
RYO SASAKI
今回はホンのちょっとの情報が入るだけで、視界が大きく変わることを感じる出来事でもありました。
工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。
現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。
ブログ「日々是湧日」
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