田中 新吾

記録とは「畑における微生物」のようなものではないだろうか?

タナカ シンゴ

私がブログを書くようになったのは大学4年生の頃だった。

それから公開する場所は変えながらも、なんだかんだで続けているため年数でいけば10年以上になる。

毎日日記を残すようになったのは2021年からのことだ。

仕事の都合で時々抜けることはあるものの毎日ほぼ欠かさず書いている。

当時からすると、その見た目が若干変化しているのは、自分が振り返った時に振り返りやすいようなチューニングを時々施しているためだ。

自作の日記だが時々見返すと思わぬ発見があり楽しく、今の自分のためになる。

そして、現在の生活の基盤となっているタスクシュートを使い始めたのは2018年。

自分はいつ、どのくらいの時間、どんな行動を、どこで誰としていたのか。

これらを日々タスクシュートに克明に記録している。

昨年秋に時間を使っていたタスクシュート認定トレーナーになるための学習を通して、タスクシュートライフはさらに充実。

他にも、web記事の記録はエバーノートへ。

プロジェクトの記録や読書記録はnotionへ記録している、といった具合だ。

1に記録、2に記録、3、4がなくて5に記録。

気づいた時には、私の人生は記録中心の人生に変わっていた。

そして、このような記録に包まれた人生を歩んでいる私に、最近になって新しい「そうなのかもしれない」がふと舞い降りてきた。

結論から言ってしまう。

もしかすると、記録とは、人生における微生物のようなものではないだろうか?

農業は実は放っておいて自然の力にまかせたほうがよい

この比喩的な「そうなのかもしれない」が舞い降りてきたことには思い当たる節がある。

ここ最近連続して「不耕起栽培」という栽培方法について触れたからだろう。

不耕起栽培とは文字通り、畑を耕さない栽培方法である。

まず、養老孟司さん著書「なるようになる。」の中で不耕起栽培の情報に触れた。

該当箇所を引用してご紹介したい。

昆虫採集で野山を歩き回っていた子どもの頃から、自然はなるようになるもので、人間ができるのは手入れだと思ってきた。

患者の身体も自然だからそれと同じ。

医者は病気を治すと思っているけれど、患者は治るときにはひとりでに治る。

医者というのは、そちらの方向に行くように、手伝いをするものだと当時から思っていました。

今も基本、その考えは変わっていません。

疫学統計で有名な「フィンランド症候群」というのがあってね、かつてフィンランドで、健康管理を施す人々のグループと、それを一切しないグループの二つに分けて調査したら、何もしなかったほうが、総死亡数が少なかったという報告があります。

つまり、人体に下手に介入しないほうが、寿命が長かったというものです。

これとよく似たことで最近米国を中心に注目されているのが不耕起栽培です。

人類は長い間、農業というと耕作、つまり土をさんざん耕し、掘り返すことを農業だと思ってきましたが、不耕起栽培というのは、できるだけ自然にまかせ、化学肥料、殺虫剤、除草剤を使用せず、土壌や土壌生物の力だけで育てても十分に採算の取れる農業ができるという実践です。

「僕が治療したから治った」「俺が耕したから収穫が増えた」と思いたい人はいるけれど、実は、放っておいて、自然の力にまかせたほうがよいことって、あるんです。

もちろん、完全に放っておけばいいとは思わない。

庭だって畑だって、森林だって手入れが必要なように、人の身体もお肌も手入れは必要。

体が痛む、急に痩せるなど身体の声を感じたら、手入れをすることは大切です。

(太線は筆者)

ここ数年の間に、それこそ比喩的に「人生を耕そう」「コミュニティを耕そう」といった表現をインターネット上で見かけるようになった。

「耕すことは良い行為」「耕すからこそ成長する」という考え方は、農業超えて世の中に伝播していっているわけである。

「はたして養老孟司さんはそのような表現を見たらどのようなことを思うのだろうか」

そんなことも考えたりした。

土の中にたくさんの微生物がいるから作物の成長はよくなる

そして、この情報をインプットした直後くらいにNHKオンデマンドで「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ 「“土” 生命の星の小宇宙」」という番組を視聴した。

タイトルを読んだだけでは分からないかもしれないが、番組の後半はたっぷり不耕起栽培について語られている。

以降で印象的だったところを抜粋して紹介してみよう。

耕すとは土中の微生物にとっては大変迷惑なものでしかない。

人間に置き換えるとするならば、住んでいる家が突然ひっくり返されて転がされているような状態。

土の中の生き物は日に晒されると生きてはいけず、耕された土はそもそもの土の構造が壊れてしまうため、微生物の量は激減してしまう。

耕した土とそうでない土とで微生物の量を比べると、およそ7割減少していたという驚くべきデータ出ている。

今世界中で耕さない農業、不耕起栽培の模索が進んでいるのはこういう理由から。

番組の中では具体的な不耕起栽培の取り組みについての紹介もあった。

まずライ麦を畑に育てる。

その後、育ったライ麦を道具を使ってすべて同じ方向に倒していく。

倒れたライ麦はマルチの役割をして雑草が生えるのを防いでくれる。

タネや苗はライ麦をかき分け間に植えていく。

耕していないため土の中の団粒(団粒は微生物にとって良い環境)が残っており、微生物がたくさん残っているため作物の成長もよくなる。

さらに、収穫まで農薬や除草剤を使う量も減り経費や手間も抑えられ、人に対しても優しい。

不耕起栽培によって作られたトマトを食べた人の感想は、皆が「味は変わらず美味しい」だった。

番組を視聴した後、私が抱いた最初の感想は「不耕起栽培について知るにはこれほど優れたコンテンツはないのではないだろうか?」である。

ちなみに、私が経営に関わっているNPO法人では結構前から不耕起栽培を広めることに取り組んできている。

現場の担当ではないため知識も実践も私には全く足りていないのだが、年々そのニーズの高まりを感じていたところだ。

この実感があったからこそ、番組を観たときの理解がよく進んだのかもしれない。

記録によって成長を実感しているのだとしたら

冒頭のふと思った「そうなのかもしれない?」について話を戻そう。

記録的な生活を送っていることは既に述べたとおりだ。

記載を忘れていたが、スマートウォッチで歩数、ランニングの結果、睡眠状況も長らく記録を行っている。

実際に数えたわけではないが、諸々の記録を足し合わせるとかなりの記録ボリュームになるはずだ。

そして、そんな記録たちを時々振り返る時間を私は設けている。

記録を振り返る度に実感することは以下のようなものだ。

・過去の記録は現在を生きる自分にヒントを与えてくれる

・記録を見返すと、その記録が詳細に取られていればいるほど、その当時の記憶が解像度高く再生され、記憶が強化される

・強化された記憶はふと現在を生きる自分を助けてくれる

平たく言ってしまえば、記録によって成長を実感しているということ。

不耕起栽培とは、畑の中に微生物をたくさん残し、微生物の力を使って作物を育てる方法だった。

とすれば、日々の記録によって成長を実感している私にとっては「記録とは畑における微生物のようなもの」と言ってもいいのではないだろうか?

記録をすることは人生に微生物を増やしていく行為。

記録を時々見返すことは畑の微生物のお世話をしてあげる行為。

こんな風な解釈も私の中で生まれた。

そして、偶然にもいまこのタイミングでこのような考え方を持ったことで、今までに以上に記録行為に向かう自分がいるのを感じているのだ。

「そうなのかもしれない」ゆえ答え合わせはまだ先のことかもしれないが、今しっくりきているこの解釈をドライバーにして引き続き記録行為に励んでいきたい。

1に記録、2に記録、3、4がなくて5に記録をモットーに。

UnsplashManikandan Annamalaiが撮影した写真

【著者プロフィールと一言】

著者:田中 新吾

プロジェクトデザイナー|プロジェクト推進支援のハグルマニ代表(https://hagurumani.jp)|タスクシュート(タスク管理術)の認定トレーナー|WebメディアRANGERの管理人(https://ranger.blog)|「お客様のプロジェクトを推進する歯車になる。」が人生のミッション|座右の銘は積極的歯車

記録=微生物という解釈は、今のところ個人的には今年一番の発見かもしれません。

●X(旧Twitter)田中新吾

●note 田中新吾

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