RYO SASAKI

人生を楽しむにも訓練が必要!~訓練による贅沢のすすめ~

タナカ シンゴ

少し前に記事で紹介したこちらの本。

こちらの本には、まだまだ気になる言葉がある。

「(退屈しないようにするには)人生を楽しむことだ。」

というものが結論のひとつとして紹介されている。

これだけ書くと当たり前のことのようなのだが、本書には、この”楽しむ”とは何のことなのか?について様々な考察が書かれている。

現代社会は何をしても”楽しむ”ことができる。

だからこそ、本当に楽しいことなのか?楽しいと思ってやっていることは単なる気晴らしではないか?

楽しいと思えることも一回疑ってみるべきだ、この本は示唆してくれた。

更に一つ気になるフレーズがあった。

「楽しむためにも訓練が必要だ」~イギリスの哲学者ラッセル

この「楽しむ」と「訓練」という一見すると逆のものの組み合わせ。

「楽しむ」ために「訓練」をするとは本末転倒ではないか・・・。

怪訝に思いながらも、怪訝に思うということは、またそこに自分の固定観念があるのではないか?

と感じて、「楽しむための訓練」について新たに理解してみたい、と思い始めた。

楽しむには教養が必要である

本書が人生を楽しむために必要なこととしているひとつに、教養、というものがある。

例えば、絵画などを観てもその歴史的背景を知らなければ、いくら美しい絵画であっても十分に味わうことができない。

また、こんなこともある。

食事も、栄養を摂ることにだけ意識がいってしまうと、味わうという楽しみを忘れてしまう。

例えばワインの試飲会で飲み比べなどをしてみる。

こちらの方が甘い、ハーブの香りがする、柑橘系の苦みがいい、などといつも使わない感覚を研ぎ澄まされることになる。

同じものを飲んだにしても、いつもはこんなにも味わいを気にしていない自分が発見できる。

味わうとはそういうことなのだ。

絵画にしても味わいにしても人はモノを知らないと感じられない

歴史、ハーブというものなどなどの情報が、教養として備わっていないとその部分の感覚が欠落してしまって、もったいないと言ったらいいだろうか・・・。

もちろん知識がなくても楽しめるが、確かに教養があった方がより楽しめるものなんだろう。

楽しむには”受け取れる状態”が必要である

次に、本書が人生を楽しむために必要としているものに、贅沢をする、というのがある。

そして贅沢をするには、モノを受け取れる状態にあることが必要なのだという。

モノを受け取れる状態とは何のことか?

モノというのは文字通りの物であり、便利な物、美しい物、美味しい物などなどを手に入れるという意味もあるのだけれど、それ以外にも感覚や理解といったモノもある。

感覚というのは、例えばアスファルトの裂け目から生えるタンポポに逞しさを感じるといった、感受性。

わずかなことに感動できる、または、幸せを感じられるというようなことだ。

もう一つの理解というのは、生き方や社会に関する概念や自分や周り、社会など様々のもの見方、見え方といったものになるのだろう。

人は複数の環世界を持っていて、その環世界を新しく創造しているものだ、という。

環世界とは・・・すべての生物は自分自身が持つ知覚によってのみ世界を理解しているので、すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界である、というもの。

単純な例だが、今ある人が「社会には戦争不安や景気変動の不安があるから、未来は明るいとは言えない。」と思っていたとしよう。

こういった見方というかあるいは世界観(ここからは環世界をわかりやすく世界観という言葉で書く)と言えるようなものが人それぞれにいくつもある。

この人が、飢餓人口が昔よりも減少していることをデータから理解する。

そこで、こう感じる。

「わかった!そんなに未来は暗くないかもしれない。」

こうして、人はある事象を経験したことで、自分で何かを新しく理解して、世界観を更新する、あるいは新しい世界観を創造していく、というものなのだ。

世界観は何も社会の未来といった大きなものでもなくて、「わかった、早起きは効率がいい!」などという生活習慣などにも幅広く広がっている。

ペットと一緒に過ごすのが幸せであるというような世界観などなども・・・。

なるほど、物以外でも感じられること、こうだ!と理解できること、これも確かに贅沢なことなのかもしれない。

感覚や理解を物と並列にして、贅沢なモノとして見ることは、斬新でまさしく私の世界観が更新されるのだった。

私は、物の贅沢だけで人生を楽しむことに、ある種の頭打ちを感じるようになっていたので腑に落ちる世界観だ。

世界観の更新はこのようにして起こっているんだろう。

ここで、贅沢するため=モノを受け取る状態でいるために必要なものを整理してみる。

まずは、前述の教養が上げられる。

教養がなければ受け取ることに限界がある。

次に、自分で物事を理解して(自分の世界観を)創造、更新すること

これは人がハッキリと意識してはいないが、無意識にやっていることではないだろうか?

私もそうで、ただ新しいことを学んだ、というくらいに思っていたのだが、世界観の更新と言われると深みが出て、また意味合いが違ってくるように感じる。

世界観なるものはもっと固定して日々変えるものではない、といったように勝手に思ってたようなところもある。

世界観だって日々変化してもいいものなのだ。

もうひとつ、受けとる状態のために必要なものは、ゆとり、と言ったところだろうか。

忙し過ぎると、何も気づかなくなるし、理解しようとは考えなくなるから。

ちなみに、受け取れると言えば、当たり前に目の前にあるもの、あるいは、提供されたものに対して、周りの方から配慮がされたということ、周りの誰かの努力が滲んでいるということ、これらを受け取る、と感じられることがまた、贅沢なことなのだ、とも感じるのだった。

楽しむための訓練とは?

人生を楽しむにはモノを受け取れる状態でいること、についてみてきた。

ではこの状態になるための、訓練とは何か?

先ほどの各必要項目に訓練という言葉を無理くりくっつけてみる。

・日々、教養を身に着ける訓練

・日々、物事を理解して自分の環世界を更新する訓練

・日々、ゆとりを持つ訓練

ということになる。

訓練という言葉はピンとこないところもある。

ゆとりであれば、そういう時間を確保するようにスケジューリングする、という習慣化の方がしっくりくるのかもしれない。

訓練とは大げさなのかもしれないのだが、成り行きで漠然と生きるのではなくて、これらのことを意識して積極的にやっていこう!という辺りに理解が落ち着くのかもしれない。

人生を楽しむためには、努力をしない、というのも一理ある。

でも、教養、理解、ゆとりを獲得するといった努力が人生を楽しむために必要というのもまた一理ある。

やはり、物事にはすべからく反面があってその中庸を求めていくんだろう。

とはいえ、”人生を楽しむ”方法に、一つの正解があるとはとても言えない。

それぞれの個性があるから、それぞれが楽しめばいいのだが、それでも贅沢の中に教養、理解、ゆとりがあるということの認識はやはり重要なことなのだと思う。

これは、物の贅沢だけでは、人生はつまらないという自分の感覚を大いに裏付けるものになる。

私にとって、贅沢という言葉は、ここまで大いに悪者だった。

しかし、今回を機に大いに贅沢をしよう!と言えるようになった。

周りから受け取る、自分なりの感覚、 自分なりの理解を贅沢に経験していきたい、それが”人生を楽しむ”ことなのだ!と思う世界観に至るのだった。

口角を上げる訓練

最後は少し横道にそれた話になる。

「楽しむための訓練」と聞いて思い出したのが、動画で「このアメリカ人、よく笑うなあ。」と感じた時のことだった。

いい大人が、つまらないことでもビックリするほどケラケラと笑う。

このアメリカ人への最初の私の印象は、

「簡単に笑うなんて単純だなあ!やはり、日本の笑いの文化レベルの方が高いんだろうなあ。」

というものだった。

しばらくしてこの話が、次の教養と結びついた。

人というものは口角を上げると楽しいものが何もなくても楽しく感じられるようにできている。

楽しく生きるには、口角を上げて笑顔で生きることだ、と。

そう考えると、先ほどのよく笑うアメリカ人は力をふり絞って笑っていたように感じられてくる。

もしかして、笑いを意識して敢えて笑っていたのではないだろうか?

できるだけ口角を上げることで、人生楽しくなるんだ、という教養が身についていたのかもしれない。

自分自身のご機嫌のために・・・そして相手にサービスするために・・・。

ここで、どんな厳しい局面になろうと常に笑い顔でいる優秀な先輩がいたことを思い出した。

笑い顔が癖づいているような・・・。

やはり、作り笑顔も訓練によってできたものだったのだろうか?

この口角上げは単純だが、明らかに人生を楽しむための訓練としては有効なひとつのように思う。

私という者の表情は、これまでは成り行きできていて(笑)、成り行きでは真面目の真顔、課題を真剣に捉えては仏頂面だった。

先輩の笑顔でいるメンタルにはとてもなれない、と当時は思っていた。

でも、この口角を上げる効能という教養、楽しむために努力が必要という世界観の更新、それを考えるゆとり、この3つが揃うことによって、今ならば口角上げ訓練ができそうな気がしてくるのだった。

UnsplashKarsten Winegeartが撮影した写真

【著者プロフィール】

RYO SASAKI

私には、訓練というものに矯正というイメージが強くこびりついてました。

そして、矯正という言葉に不自由、束縛を感じるので、楽しむことと訓練を結び付けようとは思わなかったのです。

また、このこびりつきが少しだけはがれた思いです。

工学部を卒業後、広告関連企業(2社)に29年在籍。 法人顧客を対象にした事業にて、新規事業の立ち上げから事業の撤退を多数経験する。

現在は自営業の他、NPO法人の運営サポートなどを行っている。

ブログ「日々是湧日」

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